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第9章「破壊の足音」




 「母様見て! 星が降ってくる!」

 たどたどしい動作で空に手を伸ばし、感激しきりでリサが言った。その隣でリースも、突如始まった夜空の饗宴に、視線が釘付けになる。文字通り流星群のようだ。ただ、流れ星にしては距離があまりに近かった。薄青い優しい光は、イリスの夜に降り注ぐ。
 「イリスの守人が一晩だけ夜空を駆け抜けているのよ」
 目を輝かせる幼い姉と弟に答えを与えたのは、母、イーシャだった。黄金色の髪に海を思わせる濃いブルーの瞳。黒いドレスが、勝ち気な印象を与える容姿によく馴染む。ああそうだ、今宵は星見の晩なのだ。
 母は、やんわりとリースの頭を撫で、光が降る空へ視線を向ける。
 「魔法がイリスを守ってくれる。イリスピリア王家は大昔に闇を手放してしまったけど……こうして今も、闇は側に居てくれるのよ」
 「?」
 それは、子供達に語るというよりは、彼女自身に言い聞かせているような言葉だった。案の定リサとリースは意味が分からないと言って首を捻る。それを母は笑顔で見遣ると、
 「昔、昔。世界の半分がずっと昼で、もう半分がずっと夜だった頃のお話――」
 澄んだ声で語り始める。紡がれるのは、二人の神様の物語。光神(チュアリス)闇神(カイオス)が出会い、一つの国が出来た。それが――イリスピリア。



13.

 「――――っ」

 何故、こんな事が今更脳裏に過ぎるのだろう。遠い昔の記憶だ。普段思い出す事もない程に。
 困惑する気持ちとは裏腹に、気付けば体は動いていた。突然訪れた過去の記憶に慌てふためく自分を、恐ろしく冷めた目で見ている自分もまた存在している。冷静な方の思考が一気に研ぎ澄まされていく。気持ちにぶれはなかった。倒れたクリウスを地面に横たえると、視線を前方に定めて、剣を構える。バルガスから譲り受けた剣――『闇夜の安息』は、もう白色を帯びる事はない。しかし、本来の色である漆黒でもない。
 「饒舌な右腕(ミーゼ・ノジク)……」
 同じく剣を構え、赤茶髪の男が零した。驚いたような、感心したような、そんな複雑な表情を浮かべている。男の青い瞳には、淡い光を宿す剣が映り込んでいた。――『銀』の光を宿す剣を。
 男が呟いた直後には、リースは既に動いていた。一瞬反応が遅れたようだったが、男はかろうじてリースの一撃を受け止める。ぶつかりあった剣を中心に空気が波打つ。ぴしりと、何かに亀裂が入る音が確かに聞こえた。
 「ぐ……っ!」
 渋い面持ちで男が唸り、全身の力を込めた大ぶりの一撃が繰り出される。無駄のない動きで、リースはそれを受け止める。びしっと、また奇妙な音が響いた。
 剣を弾き、両者は一旦後方に跳んで間合いを開ける。睨み合うエメラルドグリーンの瞳と魔族(シェルザード)の瞳。鋭い眼光を相手に向けているものの、異常なほど心は落ち着いていた。先ほどまでの大きく乱れた状況が嘘のようだ。今まさに肩で息をしている男より、リースの方に分がある。
 冷静な心と対照的に、右腕は熱を帯びていた。だが、暴走を起こした時に感じるような不快感は今は存在しない。力が自分に馴染んで行く感じがするのだ。そして、剣が不思議な程軽い。まるで自分の体の一部であるかのようだった。

 ――その力は間違いなくお前のために与えられたもんなんだよ。

 (確かにその通りだったのかもな。フェイ)
 いつかのフェイの言葉が頭に過ぎる。無事でいるだろうか。一瞬彼の安否を気にしたリースだったが、すぐにそれらの感情を拭い去った。今向かい合わねばならないのは、目の前のこの魔族(シェルザード)だ。
 「そうか。それが饒舌な右腕(ミーゼ・ノジク)か。成程、確かに饒舌。宿主と同化を果たした途端、大人しくも鋭い剣に姿を変えた」
 苦渋の色と共に、笑みが男の顔にはあった。やや興奮した状態で、彼は大剣を構えなおす。同時に、リースもまた、銀に輝く剣をゆっくりと構え直した。おそらくはお互いが同じ事を考えている。散々走り回って剣を振るい続けてきた。次が最後。この一撃で、両者の決着がつくのだと。

 「はあああぁぁぁっ!」

 張りつめていた緊張が一気に爆発を起こす。意識の全てを男を倒す事へと注ぎ込み、リースは走り出した。渾身の力を込めた攻撃。それは、対峙する魔族(シェルザード)の男にしても同じこと。

 「うおおおぉぉぉっ!」

 リースと同じく大きく吼え、赤茶髪の男も剣を構え、地を蹴っていた。
 両者がぶつかり合った瞬間、眩い光が周囲に飛散した。正門前の広場の空気は、甲高い音を上げて振動する。お互いの全力を込めた攻撃がぶつかり合ったのだ。それまでの打ち合いとは訳が違う。激しい光の前では、何が起こったかすぐに理解する事は難しい。ただ、震える空気の悲鳴に混じって、ばきんと、何かが折れた音が響き渡った事だけは確かだった。それとほぼ同時に、リースの視界に紅が散る。

 「――――」
 「出来れば、お互いに万全の状態で、ぶつかり合いたかったものだな」

 唇の端を引き上げて、男が笑う。それまでの彼へのイメージを払拭してしまう程に、爽やかな笑みだった。その男の得物である大剣は、中心部分から綺麗に折れてしまっている。他でもない、リースの銀の剣によって討ち取られたのだ。剣を交える中で度々聞こえていた軋みは、この剣がそう長くはもたないだろう事を示していた。加えて、男の左肩付近から右脇腹にかけて、真っ直ぐに刀傷が届いていた。致命傷ではないが、剣を折られた今、戦闘不能も同然である。
 「負けだ。……あとは好きにするがいい」
 大きく息を吐くと、魔族(シェルザード)の男は、折れた剣を地面に投げ落とし、自らの敗北を認める。それを受けてリースもまた、大きく息をついて全身の力を抜いた。構えを完全に解くと、その時には『闇夜の安息』は、本来の漆黒へと色を戻していた。銀の光はもうどこにも存在していない。
 リースの様子に、解せないといった顔で眉をひそめたのは、今まさにリースによって倒された男だった。
 「どうした? 俺を殺さないのか? お前の母の仇とも言えるだろうに」
 「……あのなぁ、俺だってもう限界なんだよ。それに、別にあんたを裁くのは俺じゃなくても良いだろ。イリスピリア国軍にあんたの身柄を引き渡す」
 軽口で言うが、本音の部分では、未だにどす黒い憎悪が渦巻いて居た。8年前、直接的ではなくても、この男は間接的に母の命を奪ったのだ。今すぐここで殺してしまっても、自分を責める者はいないだろう。実際、先程までは本気で殺したいと思っていた。だが、果たして男を殺したところで、その後にこの胸の痛みは晴れるのだろうかと。一瞬頭に蘇った母との記憶を見て、そんな事を思ったのだ。それに、リース自身限界が近いのも本当だった。剣を振る体力は残っていない。
 「議会があんたを裁くだろう」
 「……そうか」
 リースの言葉に、男は諦めたように肩をすくめた。お互いもう、戦う気力も体力も使い果たした。ひとまず、終わったのだ。気を抜いた瞬間に初めて、未だ雨が降っていたという事実を思い出す。戦闘にとって邪魔でしかない雨だが、集中するとその存在すら意識から抜け落ちてしまっていた。全身ぐちゃぐちゃで酷い有様だ。
 だがそれよりも。と、リースは慌てて後方を振り返る。クリウスの事が気がかりだった。大量の出血を起こした後、更に戦いを続行し、魔法を行使していたのだ。あれからどうなったのだろう。そう思い、彼を横たえた場所へ視線を向けた訳だったが、
 「……?」
 視界の先には、リースの知らない人物の姿があった。雨の降りしきる中、悠然とした立ち姿。腹部から血を流し、青白い顔で横たわるクリウスを見下ろす銀髪の男。男から数歩下がった位置に、女の姿も見る事が出来た。
 こちらからでは聞こえないが、彼は二言三言クリウスに何かを告げたようだ。それを耳に入れて、クリウスは少し表情を緩める。

 「派手にやったようだが……負けてしまっては元も子もない。そうだな、ダイモス」

 やがて、張りつめた空気の中に、硬質な声が舞い込んできた。声そのものは美声と呼べるものなのに、感情の欠片も宿らないため、酷く冷たく聞こえる。ぞくりと背中が震えた。嫌な予感がする。
 「カロン様……」
 どこか怯えたような声で、ダイモスと呼ばれた赤茶髪の男が零す。
 (カロン?)
 ざわざわと胸が騒ぐ。魔族(シェルザード)であるダイモスが、恐れを抱くほどの人物など、そう多くはないだろう。すなわち――
 「渡してもらおうか、闇の石を」
 さらりと、雨粒をいくつか飛ばしながら、男はこちらを振り返った。自分に突き刺さる視線に、身動きが取れなくなる。カロンと呼ばれた男の視線が鋭かったからではない。こちらを見据えるその瞳が、血の色のような紅だったからだ。

 「安心しろ。まだ殺しはしない。イリスピリアの王子、お前は大切な『光の石』なのだからな――」






 空に立ち上る眩い光を見て、不安が胸を突いた。闇雲に走り回っていた足を一瞬だけ止めてから、すぐに目的地を光が上がった方角へと定める。雨脚は大分収まってきたものの、それでもまだまだ勢いがあった。既に全身ずぶ濡れなので今更だったが、雨は嫌いだ。どうしても、過去の記憶と重なってしまう。あの雨の日に、目の前に現れた光景が突然思い出される。人々の怒号と悲鳴。崩れる建物に立ち上る煙。そして――
 (何、考えてるのよ……急がなきゃ!)
 首を振り、暗い方へ傾きかけた思考を中断させると、シズクは足を速めた。そんな時だ。
 「……?」
 遥か前方に、誰かが立っているのが見える。ここからでは輪郭くらいしか分からないが、髪は銀髪だろうか。クリウスかも知れない。そう思い、更に足を速める。銀髪の人物へと向かううちに、自分が今どこに居るのか少しずつ分かってきた。これは、町の正門へと続く道である。もう少し行った先には、常時ならば町を守る門が存在している。つい先日、そこにはイリスピリア国軍によるバリケードが設置されていた。旅人達が兵士に詰め寄って騒ぎになっていた時、ラナが現れて町の結界の崩壊を知らせたのだ。あの一連の騒ぎがあった広場だ。
 走りっぱなしで息が切れる。水たまりをたくさん跳ね上げ、それでなくても転んだり闘ったりしてきたために、衣服はもうボロボロだった。銀髪の人物の姿が徐々にはっきりしてくる。容姿が確認できる距離まで近づいたところで、人物がクリウスではない事に気づいた。
 「……え」
 ばしゃりと、一番大きな水たまりに足を突っ込んだ状態で、シズクはとうとう足を止めた。クリウスではない銀髪の男は、こちらが恥ずかしくなる程の熱い視線を送ってくる。クリウスとはまた違う方向で、中性的な美貌。その顔に、自分は見覚えなどないはずだ。だがしかし、こちらを見つめる瞳の色に、戦慄する。
 「な、んで?」
 吹き飛ばしたはずの記憶が、驚くほど鮮明に蘇る。過去を失ったシズクだが、唯一忘れられない光景と言葉があった。あの雨の日。悲しい事が起こった崩壊の日。泣きじゃくる自分の目の前に、一人の人物が現れたのだ。銀髪に、人形のように綺麗な顔をした子だった。一瞬、女の子と勘違いしてしまったくらい。そして何より、幼いシズクの目を捕えて離さなかったもの。それは、その綺麗な男の子が持つ、宝石のような赤い瞳だった。

 ――忘れないでね。僕の、名前。

 「カロン……」

 びしりと、思考の中の何かにひびが入った。掠れた声が零れる。何故彼が、こんな所に居るのだろう? こちらを見据える瞳は、確かに赤色をしている。人間では決してあり得ない色合いである。この色の瞳を持つ者は、この世でただ一人しかあり得ない。すなわち――魔族(シェルザード)の王である人物。
 「覚えていたんだね、ジーン」

 ――覚えていて。ジーン。

 (あ……)
 びしりとまた思考にひびが入る。一瞬だけ、カロンが底抜けに優しい表情を浮かべたからだろうか。困惑するシズクを見て、彼はすぐに感情を宿しているようで宿していない、人形のような顔に戻る。そして、赤い瞳を細めた。まるでこの状況を楽しむかのように、くすりと笑い声を零し、未だ動かないシズクの代わりに彼の方が歩を進め始める。ゆっくりとした足取りで、けれど確実に魔族(シェルザード)の王は、シズクに近づいてくる。怯むものの、逃げる事はかなわなかった。足が地面に張り付いたように動かない。
 「――――っ」
 硬くて大きな手が顎にかけられ、強制的に上を向かされる。もうそれは、記憶の中に居る男の子の手ではない。12年前とは容姿も随分変わってしまっていて、面影を探すのがやっとだった。異質な感触に怯えの気持ちが膨らんでいく。
 「これはまた……本当にシーナと瓜二つだな」
 シズクの顔をまじまじと見つめて、カロンは感心したように呟いた。その声から感じ取れるのは、純粋な興味。今や眼前に迫った赤い瞳に、意識を全て絡め取られそうになる。頭の中で考えている事も見透かされているのではないかという錯覚に陥った。
 「なあ、ティアミストの娘。我々の仲間に、ならないか?」
 「――!?」
 耳元で囁かれた甘い言葉に、目を見開く。咄嗟には何を告げられたのか、分からなかった。だが、頭で理解した瞬間、そのあまりの内容に、顎をつかむカロンの手を振り払って、数歩彼から遠ざかる。ありったけの眼力を込めて、前方の男を睨みつけていた。
 魔族(シェルザード)の仲間に、なれというのか。故郷を滅ぼした一族に手を貸せと言うのか。そんな事、
 「嫌に決まってる」
 鋭い声で言い放つも、カロンに堪えた様子は見受けられなかった。シズクの反応は、彼にとって予想されたものだったのだろう。わざとらしく肩をすくめると、魔族(シェルザード)の王は、王たる証である赤眼を細めると、実に楽しげにこう述べた。
 「『石』は私が貰って行く。取り返したければ、全力で向かって来る事だな。お互い、いい加減決着をつけねばならない頃だろう?」
 ティアミスト家も、魔族(シェルザード)も。
 言って右手を前に突き出し、何かをシズクに見せつけてくる。見間違えるわけがない。母から託されたあの、銀のネックレスだ。どういういきさつで彼にこれが手渡ったか知らないが、確かにそれは今、カロンの手中に納まっている。シズクが取り返しに来た物。守らなければいけない物。
 「――――っ」
 取り返すべく、シズクは手を伸ばしかけた。だが、足が走りだす直前で停止を余儀なくされた。カロンの背後から、彼に向かってくる人物の姿があったから。漆黒の剣を振りかぶり、彼はそれを勢いよく振り下ろす。
 「リースッ!」
 カロンを確実にとらえたはずのリースの剣はしかし、空気を虚しく切り裂いただけだった。余裕たっぷりの笑みを残し、銀髪の青年は空気に溶けていく。同時に、禍々しい空気も霧散して、耳元にはほとんどやみかけの雨音が戻ってきていた。町の破壊者であった魔物の姿も消えてしまったようで、周囲は静けさを取り戻しつつある。ひと段落ついたという事だろうか。だが、肩の力は抜けずにいた。ネックレスが奪われてしまった。その事実を確認して、愕然となったから。
 ぼんやりとした意識を現実に引き戻したのは、リースが苦々しげに舌打ちする音だった。黒刃の剣を片手に、随分と彼は青白い顔をしている。さっき再会した時には水色だった上着は、今はその大部分に違う色が侵入していた。それは赤黒い、大きな染み。まさか、そんな――
 「リース……血が……!」
 大きく意識が揺れた。震える足でリースの元へ走り寄ると、ほとんど泣き顔で彼の顔と血濡れの上着を見比べる。先ほどのラナを思い出す。剣が貫いた部分を中心に、みるみる衣服に赤が染み込んでいった。さすがに彼女程ではなかったが、それでも酷い出血だと呼べるものだった。早く手当てを施さないと、大変な事になる。
 「違うよ。俺の血じゃない」
 「え?」
 混乱するシズクの顔を見て、リースはゆっくりと首を振った。そして、両手を肩に乗せてくる。伝わる体温は暖かかった。深手など負っていないと、そのぬくもりが教えてくれる。でも、
 「それじゃあ一体、誰の血なの?」
 恐る恐る聞いてみた。リースの上着は、目を覆いたくなるような量の血で汚れている。けれどもそれは、リースの血ではないらしい。ではそれは、誰の血なのだろう?

 「……ごめん。結局何も、出来なかった」

 肩に置かれた手に込められる力が僅かに増した。雨に濡れているせいでそう見えるのだろうか、リースが今にも泣きだしそうな顔をしている事が不思議で仕方が無かった。何故彼が謝るのだろう。それはシズクが言うべきセリフではないか。
 雨が少しずつ止んでいく。湿気と独特の香りを残して、靄も晴れていく。ふと、街路を正門側にもう少し行った方角に視線が向かう。靄が晴れ、見通しが良くなりつつある視界の先、困惑を深めるシズクの瞳に鮮やかな銀色が映り込んだ。絹糸のような、月明かりを思わせる綺麗な銀髪は、今は血と泥にまみれている。地面に横たわった人物は、間違いなくシズクの知っている人物だった。
 「……クリウス?」
 まるで、蝋で出来た人形が壊れて転がっているよう。それくらいに彼の顔には生気が宿っていない。否、実際既に宿っていない(・・・・・・・・)のだ。完全に、シズク達の手の届かないところへ、彼の命は逝ってしまった。
 思考が益々痺れる。今は何も、これ以上は考えたくない。放心したまま、視線はクリウスそのままに、シズクはしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。



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