第10章「それぞれの覚悟」
3.
瀕死の重症を負った直後のラナが、目を覚ましている。あまりの状況に、室内は騒然となった。寝ていたはずのアリスも、何事かと目を覚ましたくらいだ。寝ぼけ眼の黒瞳と目が合う。何故そんなに表情を強張らせているの。と、シズクに目で語っている気がした。
「ラナ……起きていたのか」
心底意外そうな声で、ルダが言う。その言葉に、ラナは表情を和らげた。いつもの彼女だ。
「ちょっと前から会話だけは聞こえてたの。目がはっきり覚めたのは、ついさっきだよ」
小さな唇から洩れたのは、掠れた声だった。アリスの献身で命の危機を脱したと言っても、完全回復には程遠い。4人に心配そうに見つめられる中、ラナはゆっくりと息を吸って、またゆっくり吐いた。さすがに起き上がる事は出来ないらしい。翠瞳は、天井を見つめていた。
「私、フェイ達と一緒に行く」
念を押すようにもう一度。ゆっくりと告げられた言葉は、部屋の空気に溶け込んでいく。だがそれは、簡単に口に出すにはあまりに重い言葉だ。
「……それが一体何を意味するのか、分かって言ってるのか?」
「もちろん分かってる。だって私は……私がラナ・リスディルだって気づいたあの日から、私が風神の神子――ラナ・セレーヌだって事にも気づいていたもの!」
視線だけをフェイに向けて、ラナは言う。きつい言い方ではなかったが、芯のある言葉だった。思わずフェイが怯んでしまう程に。決して一時の感情で述べている訳ではなく、全てを理解した上で、覚悟を決めて告げた事だと訴えかけるようだった。
「気づいた時は、訳が分からなかった。風神の神子って何? 何で私がそうなの? 神子について知れば知るほど怖くなった。いつまでも気づかれずに、シュシュでの生活が続く事ばかり祈っていた」
「ラナちゃん……」
5歳で自分を知り、その幼い心でどれだけ悩んだのだろう。だが、淡々と紡がれる言葉に、悲壮感は無かった。ラナが葛藤した日々は遠い昔の事となっているのだ。だってもう、彼女は決意を固めているのだから。
「『悪しきものは目覚めたが、ひと時の眠りについた。光も闇も、今はまだ目覚めない。夜があけるまで風の子よ、穏やかな休息を――』」
静まり返る部屋に、硬質な声が響く。ラナのものであって、そうでないような、不思議な声だった。
「風神(セレス)はとても優しい神様だね。逃げようとする私を怒ったりなんてしなかったよ。それどころか憐れんで、こっそりと神託を落としてくれた。今はまだその時じゃないから、そこを動かずにじっとしていなさいって。いつか迎えは来るはずだからって」
だからラナは、神託に従い時を待ったのだという。と言っても、それは建前上の話で、幼いラナはというと、風神が言う『迎えの時』が来る事を酷く恐れていた。それは、今の日々が終わってしまう事を意味するからだ。本当の自分を知る事が怖かった。けれど時を追うごとに、その気持ちにいつしか変化が表れていった。
「父さん母さんが居て、ゲイルが居て、シュシュの町があって……とても幸せな事だと思ったの。そんな時に知ったのが、先代の風神の神子が亡くなったっていう話と、突然東が荒れ始めたっていう噂」
正確に言うと、それは3年前の話になる。ラナの前の代に当たる風神の神子――サリサ・セレーヌが若くして死去した。世間的には事故死と公表されているが、色々ときな臭い噂もあって、未だにはっきりしていないのだとか。
その話を耳にして、フェイが急激に表情を冷えさせた事がシズクは少しだけ気になった。騒ぎの渦中にいるから当たり前だろうか。先代の神子が亡くなって以来、神の逆鱗に触れたかのように、突然東は荒れたのだ。異常気象が続き、野山が荒れた。セリーズ王家で身内同士の醜い争いが激化したのもこの時。それが原因で、エルフと人間の関係もぎくしゃくするようになった。平和を重んじるはずの神殿でも争いごとが起こるようになる。
「もう私以外に、居ないんだなって。私の力なんて、ちっぽけなものだと思うけれど、でも、これは私にしか出来ない事なんだって、その時初めて思ったの」
――「『夜があける。闇はじきに目覚めるだろう。光の目覚めはまだ少しだけ遠い』」
また、澄んだ声でラナは告げる。体力が回復していない状況で随分長く喋り続けている。若干息が切れていたが、話すのをやめるつもりはないようだった。それを止める者も居ない。彼女の放つ空気がそれを許さなかった。
「2度めの神託が下ったのが、一月前の事。その頃から、町でも魔物の騒ぎをよく聞くようになっていて……あぁ、そろそろ限界なんだって」
迎えの時を、確実にラナは待っていた。怯えの気持ちよりも、優先させるべき事に気づいていたから。だから受け入れた。そしてそんな時、フェイとルダが彼女の目の前に現れた。
「大切な人達の幸せをもう壊したくはない。このままでは世界が壊れてしまうかも知れない。私に出来る事は多くないかもしれないけど……私にしか出来ない事はきっとあるから。……だから私は、フェイと一緒に行く」
はっきりと言ってのけた。ラナの瞳に、迷いの色は見てとる事が出来なかった。言いつくしたとばかりに、それきりラナは黙り込んでしまう。彼女が口を閉ざした途端、ピリピリとした沈黙が部屋に満ち始める。
「……まいった。説得の常套句をあれこれ考えてた俺がアホみたいだよな。説得の対象者に、逆に諭されるとは思わなかった」
嫌な流れを見事にぶち破ったのが、フェイだった。灰色髪をかき上げると、彼はなんとも言えないといった表情で言う。風神の神子を説得して連れ帰るのが任務の彼にとって、彼よりも神子本人の方がやる気満々である事は、拍子抜け以外の何物でもないのだろう。
「いいぜ。気に入った、その気概! 神子なんてやる奴は、それくらいじゃないと務まらねーんだよな。でないと……サリサ様のように潰れちまう」
言葉の後半は、ほぼ独り言のようだった。自嘲気味に灰色の瞳を細めると、彼はそれをラナに真っ直ぐ向けた。それを受けたラナが一瞬だけ目を見開くが、ほんの一瞬の事である。すぐにフェイの口元には、例のあのにやにや笑いが舞い戻ってきていた。
「神子が行くと決めたなら、守人はそれに従うのみだ。全力でお守りするぜ、お姫様」
茶化して言ったフェイの言葉に、ラナは泣き笑いのような笑みを向けた。
一通りフェイとラナの会話を見届けた後、シズクとアリスは部屋を退散していた。ラナの状態が安定したというのが一つの理由。つきっきりで彼女を看病していたアリスの消耗が激しいのも一つ。だが、最も大きな理由は、ホーリス夫妻がラナの病室を訪れたという事だった。きっと今から、フェイやルダとラナの今後についての話をするのだろう。その会話にまでシズクやアリスが立ち入る事は出来ない。
ちなみに、ゲイルは傷こそ深いものの、命に関わる程の怪我ではなかったそうだ。今はラナとは違う病室で治療を受けて休んでいる。先ほど目を覚ましたと、ホーリス夫妻から聞かされて、ホッと胸を撫で下ろす。
夜も少しずつ更けてきた。兵士達は徹夜の作業で町の安定化に当たるらしいが、シズクがラナの部屋に戻ってきた時よりも、廊下を行き来する人の姿は減っている。窓の外を見ると、闇がシュシュの町に広がっていた。人々の生活を示す明かりは、今は存在しない。昼間の魔物達が全て奪って行ったのだ。
「ひとまず、騒ぎは収まりそうだけど……問題は山積ね」
廊下を歩きつつ、苦々しい声で零したのはアリスだ。顔色は青白く、表情も冴えない。疲労のせいでもあるだろうが、それだけが原因ではないだろう。後に残された問題が、重苦しく首をもたげている。
「シュシュの町が復興するのに、時間がかかるでしょうし。町の人が受けた傷を癒やすのは、簡単な事じゃない」
それだけじゃない。とアリスは言う。彼女に同意を示す意味で、シズクも静かに頷いていた。
魔物の数が増えてイリスピリア東部が荒れている。これだけならば、自然現象の延長で話が済んでいた。しかし、事態は既にそのレベルを大きく超えてしまったのだ。魔物とは明らかに違う、悪意ある介入者の存在がはっきりと示されたからだ。すなわち、魔族(シェルザード)だ。
「ガウェイン大臣をはじめとして、おじ様は本格的に動き出すでしょうね」
要するにこれは、彼らからの宣戦布告。長きにわたって平和を維持していたイリスピリアに、真っ黒な影が落とされた。魔族(シェルザード)達の目的は未だにシズクには理解出来ない。だが、今日のシュシュの町に降りかかったような事が……いや、ひょっとしたら、もっと良くない事があちこちで起こるのではないか。そんな気がする。それだけは、妙な確信と共に胸の中にあった。あの紅い瞳を見たからなのかも知れない。
「アリス」
気づけば足を止めて、隣を歩くアリスを呼びとめていた。自分もそうだったが、アリスの疲弊は特に激しい。だから、今日はひとまず休んで、話は明日に延ばそうかとも考えた。けれど、今ここで話しておきたい。そう思ったのだ。
「アリス。わたし、東の森の魔女に会いに行くよ」
言葉は予想に反して、自然にこぼれ落ちていく。シズクより少し先で足を止めていた彼女は、その言葉を聞いて闇色の瞳を僅かに見開いたようだった。静寂が二人の間に降りる。
何を当たり前の事を。と言われるかも知れないなと思った。そもそもシズクがイリスから旅立ったのは、魔女を訪ねる事が目的だったはずだ。そのために、アリスもリースもここまで着いてきてくれた。こんな風に改めて宣言する程の事ではないだろう。
だが、シズクの心配をよそに、数秒程放心していたアリスは、やがてやんわりとほほ笑んだのだった。
「……初めてね。シズクの口からはっきりとその言葉を聞いたのは」
耳に届いたのは、柔らかな言葉。スッキリした表情で、アリスは肩をすくめる。先ほどまでの渋い表情など嘘だったかのようである。意外な反応に、今度はシズクの方が目を見開く番だった。
「師匠に言われるがまま旅立った訳だけど、そう言えば私達、シズクの意志を一度も確認していなかったの。一番の当事者なのに、変な話よね」
言われてみればそうだったかも知れない。そもそもシズクの魔女訪問は、彼女の意志とは無関係なところで、セイラによって決定された事項だった。行きたいか行きたくないか問われる以前に、それしか手段が見当たらないと告げられたのだ。
「……本音を言うと、確認するのが怖かったっていう部分が大きかったのかも。きっとシズクは断らなかったと思う。だけど、その言葉の奥に、本当は行きたくないっていう真意を見つけてしまうのが怖かった」
「わたしも、イリスの段階で確認されていたら、今みたいに言えた自信はないな」
自嘲気味に笑うアリスに、彼女よりも深い自嘲を乗せた顔で、シズクは笑う。
もちろん、イリスでセイラ達に行くかどうか問われて、ノーとは言わなかっただろう。だが、心から『行く』と言えたかどうかは別の話だ。きっと、言えなかったと思う。だって、後ろめたかったから。身の危険を顧みずアリス達がついてきてくれるというのに、自分が魔女に会って望むつもりだった事は、彼女達を裏切るような内容だったのだ。だからあの時はっきりとシズクが『行く』と告げられたのは、イリスピリア王に対してだけである。だがそれも、今にして思えば逃げの気持ちが大きかったように思える。
「ガウェイン大臣にね、私達にだけ街道の通行許可を出して貰うよう頼んだの。……了承したって。希望すれば、すぐ発つ事が出来るようにしておくって」
「シズク……」
「ラナちゃんみたいな小さい子が、自分としっかり向き合ってるんだもの。目を背ける事は、やめなきゃいけないよね。わたしも、わたしにしか出来ない事を、しなくちゃいけないよね」
――だからシズク。貴方は、今の貴方に出来る、精一杯の事をして。
迷って揺らいで、どっちつかずになっていた気持ちを固めてくれたのは、アリスの言葉だった。平手を受けた時の痛みはもう残ってはいないけれど、あの時の言葉は未だに胸の中で鳴り響いている。
「伝えてない事があるの。一人で抱えきれなくなった時に吐き出せばいいって、アリスは言ったけど……どうしても伝えたくなった時でも、ぶつけちゃってもいいかな」
反応をうかがうように、アリスを見る。視線の先で彼女は、綺麗な顔をこれでもかという程ぼんやりと緩ませて、呆けていた。思いがけない贈り物をされた子供のような表情だ。
「聞いてくれる? わたしの話」