第10章「それぞれの覚悟」
4.
「よ。おはようさん」
シュシュの町で起こった惨劇の翌日、早朝の事だった。
早くに目覚め寝室を後にしたリースを、扉の外で待ち構えていたのは、灰色髪の軽薄そうな笑顔を振りまく剣士――もとい、風神の神子の守人であるフェイだった。相変わらずの緩い表情で、彼はひらひらとリースに手を振る。昨日の大けがなど露ほども感じさせない、いつも通りの立ち居振る舞いであった。
条件反射とでも言うべきか。フェイの姿を視界に入れた瞬間、自然リースは呆れ顔になる。
「お、ご機嫌斜めだなぁ。そりゃあま、朝っぱらからむさい男の顔なんざ見たくないかもしれねーけどな」
「……俺に何か用でもあるのか?」
「用が無きゃ来ちゃだめなのかよ。つれないよなー、せっかく重傷の身をおしてお前の様子を見に来てやったっていうのに言うのによー……って、オイ、ちょっと待てよ!」
心底どうでも良さそうな言葉を聞き流しつつ、そのまま歩き去ろうとしたリースを全力で止めに入ったのは、他でもないフェイだった。肩を掴まれてリースは仕方なく歩みを止める。
「……ドクターストップがかかってる身なんだろう? 部屋で休んでなくていいのかよ」
言って、呆れ顔でフェイの腹部へ視線を向けた。昨日、街中で再会した時に、大量出血を起こしていた部分である。フェイの説明によると、どうやらカロンの魔力が籠められた刃に一突きされたらしい。癒しの呪術で傷口は塞いだようだったが、それまでの出血もある。本調子とはいかない体である事は、想像に難くない。
だが、リースの心配を余所に、フェイはからからと笑っただけだった。
「言う程重傷でもないさ。まぁ、軽傷でもないけどな。……そんな事よりも」
ポンと、突然頭の上に温度を感じて目を丸くする。温かさの正体を確かめようと目だけで上を向くと、フェイの大きな右手が、リースの頭に伸びているのが見えた。要するに、大人が子供の頭を撫でるような構図である。両親にも、遠い昔にされたきりの行為に眉をひそめる。幸いな事に通行人は居ないが、もし居たとしたら不審な顔で見られる事請け合いである。
「何を――」
「お疲れさん。リース」
だが、不満そうな視線を向けた先で、灰色の釣り目は驚くほど優しい光を宿していた。それに一気に毒気を抜かれて放心してしまう。完全にフェイのペースだ。
「ヒーローの称号はまだまだ与えられないが、ま、次第点って感じだな。お前はよく頑張ったよ。内なる力とガチンコ勝負挑んだ訳だからな」
ポンポンと頭を叩かれる。しかめ面のままやんわりとフェイの手を振り払った。どこか、気恥かしかったのだ。
「……頑張ったのは、皆そうだろ。勝負って言ったって暫定勝利って感じだし……結局、何も出来なかった訳だし」
最後の方は、フェイに告げているというよりは、独り言を呟いている感覚に近かった。口にした瞬間、胸が僅かに痛む。
一晩ゆっくり休ませて貰えたので、体力は大分回復していた。大した傷も負っていない。右腕の軋みが少し気になったが、おそらくこれも大事には至っていない。だから、いまいち気分が優れない原因は身体的なものではないのだろう。不完全燃焼の状態で、中途半端に鎮火されてしまったような状態だった。何も出来なかったという事実が、心に重くぶら下がる。取り返したかった物も取り戻せず、一番助けられたくない部類の人間に、命がけで助けられてしまった。そして、もう二度と見たくはないと思っていた光景を、再び見せつけられたのだ。
気がつけば、拳をきつく握りしめていた。
「……あー、もう。辛気臭い顔するなっての! お前とシズクって意外と似た者同士だな」
フェイの口からシズクの名前が飛び出て、妙な感覚が全身を駆け巡る。何だったか。何か重要そうな事を思い出しかけたのだが、つかみかけた答えは、指の間をあっさりとすり抜けて行った。代わりに込み上げてくるのは、苛立ちだった。
「何で今あいつの名前が出てくるんだよ」
「随分不満そうな面だな。でもな、そっくりだぞお前ら。すぐに自分を責めだす所とか、マイナス思考に陥ったらとことんな所とか。……正直、リースはそういう人間じゃないのかと思ってたよ。弱みとか、あんまし見せそうにないもんな」
「…………」
よく言われる事だ。後半部分のフェイの言葉を聞き入れた瞬間、内心毒づきながら、リースは眉根を寄せた。
他人に弱みを見せる事など、極力するべきじゃない。自分の置かれた状況くらい、物心がついた頃には大体把握出来ていた。いくら平和ボケしている大国といっても、不穏な動きがゼロである訳ではないからだ。中枢に近い人間になるほど、それに曝される危険性は増大する。隙を見せた瞬間に、悪意は一気に押し寄せるのだ。
強くあれと言われ、強くなるよう努めた。一通りの事は、何でもそれなりにはこなした。幸か不幸か、それらは周囲が求める『リース像』を装飾する良い素材となったのだろう。
「王子様も色々と大変って訳か」
不機嫌を露わにするリースの様子に、フェイが笑って言った。他人事を告げるような物言いだが、不満を言っても、事実他人事なのだから仕方がない。と返されるオチが見えたので、何も言わなかった。なんともフェイらしい物言いだなと思う。
「けど、ま。二人とも、決して腐ったりはしなさそうだ。きちんと腹を据えて、問題と向き合うだけの度胸はある。……俺は、そう信じてるんだよな」
「?」
突然、フェイの声が雰囲気を変えた事に、リースは戸惑う。灰色の瞳は憂いを帯び、遠くを見るように細められていた。リースを見ているというよりは、リースを通して、誰かを見ているといった感じ。
「俺が、イリスピリアのリース王子について、やけに詳しく知ってたのは何故か、分かるか?」
いきなりの会話の方向転換。これまでの会話と、一体何のつながりがあるのだろう。ちらりとフェイを見るも、纏った雰囲気は変わらなかった。回答を強いられているような気がして、リースは口を開く。
「神殿関係者だからだろ」
「予想通りの答えだけど、ハズレ。いくら情報が多く入ってくる神殿といえども、一国の王子について、細かい情報を手に入れる事は結構厳しいぜ?」
言われてみれば、確かにそうだ。と、リースは思った。これまでのフェイとの会話を思い出す限り、彼は驚くほどリースの事情を細部に渡って知っているような様子だった。右腕の力についてはもちろん、それを目覚めさせるきっかけになった事件について、そしてその後、リースが辿った道すらも。
「ま、ファンじゃないって事だけは、強く主張しておく」
「気持ち悪い事口走るんじゃねーよ」
「そうは言うけど、実際多いんだぞ? 男性ファン。神殿みたいな高潔を求められる環境に身を置く奴らは、却ってその辺が暴走する傾向にあるらしくてなぁ……と、話がそれた」
いろんな意味で青ざめるリースは無視して、フェイはあくまでマイペースに話を進める。彼と話をしている時は、どういう気持ちで会話に臨めばいいのか分からなくなる。重い話になったと思った次の瞬間にはふざけた内容へと変化し、かと思えばまたシリアスへ向かうといった具合だ。案の定、脱線した話を戻した先はシリアス路線だった。肩をすくめると、フェイは表情を引き締める。
「俺にはね、『力』が必要だったのさ。今は俺の右腕に有る風の魔石。これのせいで、先の風神の神子――サリサ様は狂った」
これと言って、フェイは服越しに右腕を指さした。先日の晩、グロテスクに筋肉と筋肉の間に食い込んだ黄緑色の石を思い出す。
「俺には年の離れた兄が居てね。兄貴はサリサ様の守人を務めると同時に、彼女と将来を誓い合った仲だった。ところがだ、元々神殿内にあった反対勢力にあっけなく暗殺されちまいやがった」
過酷な過去の話をする割に、随分とあっさりとした物言いである。フェイにとって、兄の死は既に過去のものとなったのだろうか、それとも――
「兄貴の死を知ったサリサ様は、簡単に壊れたよ。元々弱い人だったから、耐えられなかったんだな。だけど、狂った後にしでかした事はそれこそ俺にも予想外だった。どこから手に入れたか分からない魔石の力を使って、暗殺に加担したとされる人間たちを次々に惨殺し始めたんだから。殺しつくした末に、今度は兄貴を蘇らせる方法を探すとか無茶苦茶な事を叫んで、姿を消す始末。最終的に神殿に連れ戻された時には、既に帰らぬ人となっていたよ」
「…………」
風の神殿が荒れている。先日アリスも言っていた。いつだったか、セイラが苦々しくそう零していた事もある。神殿の内情を深く知らないリースでも、その事くらいは噂話程度に聞いていた。だが、フェイの口から聞かされた内容は、想像以上だ。平和を愛し、高潔を重んじる神殿のイメージとは全くそぐわないものである。
「兄貴を失い、姉のように慕っていたサリサ様も死んだ。手元に返ってきたのは、人を惑わす力を持つ魔石のみ。さすがの俺も、無力感に潰されそうになったぜ? これ以上誰も死なせたくはなかった。そう思うのに、風の魔石は次々と人を魅了して争いごとを生む。神子不在で大混乱の中、魔石を奪おうとこそこそ動き出す人間も出てくる始末。魔石はさ、並の人間じゃ扱いきれない代物なんだよ。そんな時頭に浮かんだのが、リストンの魔女と、イリスピリアの第一王子の噂話だった」
神から受け継いだ石を、額にねじ込ませた魔女。生まれながらにその身に光神を宿しているという王子。興味を引かれて様々な情報を集めるうちに、これだ、と思ったのだそうだ。魔石に関する文献を読みあさり、最終的には、親しくしていた魔道士に頼み込んで、考えをそのまま実行に移した。すなわち、その身に魔石を直接埋め込んでもらったのだ。
「軽く10回は、死にかけたかな。けど結局は、魔石を制御する事に成功した。反乱因子共にしてみれば、たちまち俺は恐怖の対象になった訳だ。奴らを解体させ、無茶苦茶になっていた神殿内を纏めるのに2年。大分落ち着いてきたところに、今回のシュシュ行きの件が舞い込んだ。神子を探し求めていた俺にとっちゃ、まさに渡りに船。……けどまぁ、まさかそこで、イリスピリアの王子様本人と出会うとは思ってなかったなぁ。人の出会いには、色々あるもんだ」
「……フェイ」
「なんだよ」
茶化した様子で笑顔を浮かべるフェイに、無理をしている様子は見えなかった。その事に大いに違和感を抱いてしまう。リースにはフェイの本心を読む事は出来ない。けれど、大切な人が理不尽に失われた過去を2、3年やそこらで、痛みを抱えずに話すことが出来るとは思えなかった。事実リースがそうだからだ。8年経った今も、痛みは消えない。それはリースが弱いからだろうか。
「何でそんな事を、俺に話すんだ」
たまらなくなって、思いをそのまま言葉に乗せていた。そんな大切で壮絶な過去を、何故今、彼は自分に話すのだろう。自分とフェイは出会って一月も経っていない。赤の他人に等しい人間と言っても、間違いではないのに。
「さぁ、何でだろう。そういえば、自分からこの話をしたのは、お前が初めてだったよ。意外と軽く話せるもんなんだなって、正直自分でも驚いてる。もっと引きずっているものかと思ってた。きっとさ……過去は忘れる事は出来ないけど、受け入れて、乗り越える事は出来る。それを、確かめたかったのかもな」
灰色髪をがりがり掻いて、フェイは苦笑いする。
「初めお前を見た時さ、何となく兄貴に似てるなって思ったんだよ。死相が出てるっていうか……とにかく、危なっかしくて見てられなかった。でもさ、結局それは勘違いだったようで……安心してるよ。まぁよく考えたら、お前はそうすんなり死んだりするタマじゃなかったわな」
言って、声を上げて笑い始めるフェイに、つられてリースも表情を崩していた。
「お前もシズクも。兄貴達のようにはならない。なんとなくだけどね。俺はそう信じてる」
だからまぁ頑張れ、と。リースの肩を叩きながらフェイは言う。にやりと、またあのいつもの笑みで、灰色の瞳が細められる。その瞳を見つめているうちに、かちりと。長い間閉じられていた鍵が心のどこかで開いた気がした。
「そうそう、あの魔族(シェルザード)の少年の事だけど、今朝早くに、森の中にある湖の畔に埋葬されたらしい。その事を知らせに来るだけだったんだが……とんだ長話になったな」
それじゃ、そろそろ失礼するかな。そう言って、フェイはくるりと踵を返す。彼が立ち去るのをリースは止めたりしなかった。
「フェイ」
代わりに、遠ざかって行く背中に向けて名前を呼ぶ。ぴたりとフェイは足を止めた。しばしの沈黙。それを破るようにして、リースは再び口を開いた。
「ありがとう」
何に対しての感謝かは、自分でもよく分からなかった。様々な感謝が混じった、様々な意味を持つ言葉だ。それに答える様にして、フェイは右手を頭の高さで数回振る。そして直後には、無言のまま歩みを再開させていた。