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第10章「それぞれの覚悟」




5.

 昼前の森は、徐々に華やぎを持ち始めていた。苔の生えた巨木が、差し込んでくる光のシャワーを浴びて白く輝く。所々に降り注ぐ木漏れ日は、森に美しい斑点を打っていた。
 人の姿は無い。ここは結界で守られた町の外、要するに、魔物と出くわす可能性がゼロではない場所である。見た目の穏やかさとは裏腹に、大きな危険も潜む所、それが森である。故に、何の心得も持たない人間は、まず足を踏み入れる事はない。ましてや、シュシュの町で惨事があった翌日である。一部の例外を除き、進んで森に足を踏み入れる者など皆無と言っても良いだろう。……尤も、今ここを歩くシズクはその例外の中の一人なのだが。
 さくさくと土を踏みながら歩を進める。数分歩いた所で、一気に視界が開けた。道が途切れた先に、湖がある。天頂の直前まで上った太陽の光が、深いブルーの湖面に優しく降り注いでいた。小さいながらも神秘的で美しい湖だ。女神でも降臨してきそうな光景に見とれていたシズクだったが、湖面に向かって歩くうちに、湖の水面以上に、日の光を受けて美しく輝く金色を視界に入れて、息を呑んだ。
 「――――」
 弱めの風に、蜂蜜色の髪が揺れる。深い色の湖を背に立つ姿は、見事なくらい『神々しい』という言葉がしっくりくる。一枚の絵画を前にしているような錯覚に襲われた。
 まさかこんな場所で出くわすとは思っても居なかった。だがそれは、対する相手も同じ事だったようで、こちらを振り返り、シズクの姿を捉えたエメラルドグリーンの瞳は驚愕に見開かれている。半ば呆けた状態で、目の前の人物――リース・ラグエイジは立ち尽くしていた。
 「シズク……お前、何でこんな所に」
 「そう言うリースこそ……」
 こちらに向かって歩きながら呟くリースに、シズクも同じような内容の言葉を返す。
 何故彼がこんな所に居るのだろう。素直にそんな疑問が浮かぶ。昨日の今日だ、まだ部屋で休んでいるものとばかり思っていたのだ。たとえ起きて活動しているにしても、シズクと同じ場所に外出するとは予想外だった。
 「って言うかお前、一人で森の中に入ったのか!? 魔物と出くわしたらどうするつもりだったんだよ!」
 疑問符を頭の上に浮かべて首を傾げていたシズクに、リースはと言うと厳しい口調でそう諭してきた。こちらを見る彼の表情も一気に引き締まる。
 シズクは今、魔法を完全に封印されている身だ。棒術はそれなりに使えるが、森の魔物を相手にするには心許ない。一般人とほとんど変わらない戦闘能力しか持たないシズクが単身でやって来るには、確かにここは危険すぎる場所だった。リースが咎めるのも無理はない。しかし、シズクだってもちろんそんな事は百も承知であった。
 「大丈夫。ちゃんとガウェイン大臣の許可は貰ったよ。それに、一人で来たわけじゃないから。……フェイが連れてきてくれたのよ」
 「フェイが?」
 灰色髪の剣士の名前を耳に入れ、リースは怪訝な表情になった。何でここで彼の名前が出てくるのか。瞳はそう語っている。
 シズクの前にフェイが現れたのは、朝シズクがラナとゲイルの見舞いから帰ってきた時の事だった。彼から事情を説明され、森に出かけたいと漠然と思った。しかし、今のシズクが一人で赴くには無謀過ぎる場所だ。そう思い、一度は諦めようとしたのだ。そこへ、フェイが森への案内役を買って出てくれたという訳だ。
 「でもフェイったら、帰りは心配しなくてもいいからって言っていきなり先に帰っちゃったのよね。何でだろうって思ってたんだけど……そっか、こう言う事だったんだ」
 大きめの声で呟きながら、シズクは理解する。盛大にしかめ面を浮かべている所からして、リースもシズクと同じ考えに至ったらしい。おそらく、シズクの目的地には先にリースが来ているから、フェイが居なくても後は大丈夫。そう言う意味だったのだ。
 という事は、フェイはここにリースが居ると知っていたという事になる。
 「何でフェイは、リースがここに居るって分かったんだろう?」
 「……まぁ、そんな事より」
 眉を寄せて首を傾げるシズクに対し、リースは軽くため息をついてから右手を伸ばしてくる。手はそのまま、シズクの右手に握られていた白百合を掴み取った。先の惨事で亡くなった人々に手向けるための花である。一本、中年くらいの女性が譲ってくれたのだった。正直なところ、そんな花を『彼』に捧げて良いものかどうか迷った。しかし結局、貰っておけというフェイの言葉で譲り受ける事にした。
 「ここに来た目的、果たさなきゃいけないだろ?」
 シズクの手を離れた白百合を、右手でひらひら振りながら、リースが言った。






 「本当に、行っちゃうんだね」
 茶色い瞳をベッドに横たわる少女に前に向けて、ゲイル・ホーリスは言った。
 きっと今自分は、酷いしかめ面をしているのだと思う。少しでも気を抜いたら、二つの瞳から涙が溢れてしまうからだ。自分の方が兄なのに、目の前に居る妹とも呼べる少女はこんなにも強くて気丈に振舞っているのに、今ここで絶対に泣く訳にはいかない。
 「うん、行くよ。セリーズへ」
 翠色の瞳をゲイルに据えて、ラナ・リスディル――いや、ラナ・セレーヌは穏やかに告げる。
 セリーズ国。大陸の東に位置する、風神を司る国だ。傷が完全に癒えて、シュシュの町の情勢が落ち着いたら、ラナはそこに向けて旅立つらしい。父と母も涙ながらにそれを承諾した。というより、端から引きとめる事など出来る訳がなかった。ラナが風神の神子だからではない。彼女自身が、固く心に決めている事だからだ。
 「そ……そっか。気を付けて行ってきなよ? ま、まぁ。フェイさんとルダさんが一緒なら心配はいらないだろうけど」
 ラナの顔を見て居られなくなって、ゲイルは俯いてしまう。自身の手に巻かれた真白な包帯が目に入って、小さくため息を落とした。昨日、赤髪の女にやられた時の傷だ。これ以外に、背中にも大きな傷が一つある。いずれもあの女が持っていた剣によって付けられたものだった。
 思い返しても情けない。背中を切りつけられた時のショックで、ゲイルは意識を手放してしまったのだ。意識を取り戻した時、自分は救護所のベッドの上だった。眼前にあったのは、目に涙をいっぱいに溜めた両親の顔。既に全てが終わってしまっていたのだ。
 ラナが瀕死の重傷を負ったという事を知ったのも、峠を越えて一命をとりとめたという知らせと同時であった。彼女の危機も知らず、助ける事も出来ずに、自分はのうのうと眠り続けていたという訳だ。
 「本当に、情けないな。僕がもっと強かったらいいのに」
 もし自分がもう少し大人で、強ければ、ラナに着いて行くと言えたかも知れない。例えそれを断られたとしても、彼女を助けるために何らかの行動を起こせたと思う。けれども今の自分では何も出来ない。着いて行くと言ってもそれはただの我がままで、足手まといになる自覚がある。だから言えない。気を付けてと、頑張れと、そんな言葉と共に送り出すのが精いっぱいだ。拳を握ると、傷口がずきんと痛んだ。
 「ゲイル」
 唐突にか細い声で、名を呼ばれる。それまで凛とした響きで言葉を紡いでいたのにと思い、慌てて顔を上げた。
 「……ラナ?」
 顔を上げた先に見たのは、翠色の瞳からぽろぽろと涙を零す義理の妹の姿だった。歪められた唇から、ひくひくと嗚咽が漏れる。
 「な、何泣いてるのさ! これが一生の別れって訳じゃないだろ?」
 「うん分かってる。でも、もうこの町にはいられない。父さんと母さんとゲイルと、皆で一緒に過ごした時間は戻ってこない。……自分で決めた事だけど、だけど――」
 「ラナはどこに行っても僕の家族だよっ!」
 泣きじゃくるラナを見て、それまで涙を必死でこらえていた事が全て水の泡になった。枷が外れて、ゲイルの瞳からも雫が落ちる。せめて嗚咽は零さないようにと、震える喉を無理矢理押さえつけた。
 「ラナが会いに来れないんだったら、僕が会いに行くから。大きくなって、セリーズまで一人旅出来るようになったら……そりゃぁ時間はかかるだろうけどさ。絶対に会いに行くから」
 泣きやまないラナの頭を優しく撫でる。手で目元を覆いながら、うんうんと、何度も彼女は頷いていた。



 泣き腫らした顔でラナの病室を後にしたゲイルだったが、突然目に飛び込んできた血色の悪い男の姿に、思わず怯んでしまう。しかし、それがとんでもなく失礼な事だと気づき、慌てて背筋をぴんと伸ばしていた。ラナと同じ色の髪に、黄緑色の瞳。人間族ではない事を示す控え目に尖った耳。ルダ・リスディル。ラナの叔父に当たる人物らしい。彼は、扉の前で誰かを待ち構える様にして待機していたのだ。ゲイルが驚いたのも無理が無いというものだろう。
 あからさまなゲイルの反応に、ルダは僅かに表情を崩していた。笑われている事に気づき、少しむっとする。
 「ラナはどうしている?」
 「泣き疲れて寝ちゃったよ。風神の神子だかお姫様だか何だか知らないけど、ラナはまだ子供なんだ。今はそっとしといてあげてよ」
 軽く睨みながらそう言って、ゲイルはその場を立ち去ろうとした。これ以上彼と顔を突き合わせていたら、感情に任せて無茶苦茶な事を叫んでしまいそうだった。
 「すまない。……君からラナを取り上げるような事をして」
 何を言われても立ち止まるつもりはなかったのだが、思っても見ないルダの言葉に停止を余儀なくされた。振り返って長身のエルフの表情を窺う。黄緑の瞳には、こちらをからかうような色は見えなかった。ゲイルの言葉に真剣に耳を貸してくれたというのだろうか。聞き流されるものだと思っていたのに。
 「……ラナには、こっちの方が良いんだ」
 再びルダの方を向き直り、ゲイルは言葉を紡ぐ。わざとらしく肩をすくめてみせた。少し、話をしてみてもいいかなと思ったのだ。彼は、自分を子供扱いせずに、対等に口をきいてくれるのかも知れない。
 「ラナが生きていくには、こんな田舎町は窮屈なんだよ。昨日の昼間だって、広場を取り囲んだ魔物をラナの魔法が切り裂いたんだ。普通助けてもらった人にはお礼を言うのが筋ってものじゃない? なのにあの場に居た人達は口々に言ったんだよ。『化け物』って。ラナに向かって」
 ゲイルの言葉を耳に入れて、ルダは瞳を細めた。
 全ての町が例外なく魔道士が用いる結界の恩恵を受けているにも関わらず、シュシュのような田舎町では未だに魔法に対する偏見は強い。一般的に魔道士に対して抱く町人のイメージは『破壊』『戦争』あたりの陰湿なものである。
 昨日、あの赤髪の女に遭遇した直後、町は大量の魔物で埋め尽くされた。その時ラナは、赤髪の女からクリスタルを取り返す事を放棄までして、町の人たちを助けるために魔法を行使したのだ。ただでさえ町人から疎まれていたラナだ。それまで絶対に人前で魔法を使おうとはしなかった。使えると口にした事も一度もない。だから決死の覚悟の末、魔法を使ったに違いないのだ。その思いを、たった一言で人々は否定した。
 「セリーズには、ラナの事を必要としてる人がたくさん居るんでしょう? そういう人たちの側で暮らす方が、良いんだよ」
 「確かにたくさん居るだろう。だが……そうじゃない人間もまた居る」
 「そういう人達からラナを守るために、ルダさんとフェイさんが居るんだろ! もう、しっかりしてよね」
 眉間にしわを寄せて呆れ顔になるゲイルに、ルダは「もちろんそのつもりだ」と付け加える。ルダもフェイも強い。街路での魔物騒ぎの折、彼らの力はゲイルも見て知っている。だからきっと、二人に任せておけばラナは大丈夫なのだろう。
 「だが、私とフェイだけでは、無理な事もきっと出てくるだろう」
 ちくりと、僅かに胸が痛んだところで、次なるルダの言葉が耳に入って来る。そんな無責任な事を言われても困ると、苛立ちをそのままに口を開きかけたゲイルだったが、
 「神殿の警備兵採用は、15歳から行っているらしい」
 「――――え?」
 ゲイルを見据える黄緑色の瞳は、驚くほど真面目な色をしており、加えて優しさに満ちていた。言われた事が直には理解出来ない。神殿? 警備兵? ……15歳から? 呆けるゲイルを横目に、ルダは更に言葉を紡ぐ。
 「私は主に、国の再建をせねばならない。とすると、フェイにラナを任せなければならない状況が訪れる訳だ。確かに奴は頭が切れる。だから大抵の事はあいつに任せても問題はないだろう。だがあの男に、年ごろの少女の機微が分かると思うか? 考えなくても分かるな、無理だ。そういう役目は、君が適任だ」
 この場に本人が居たら反論必至だろう台詞を、ルダは努めて淡々と告げる。思わず吹き出しそうになるのを堪え、ゲイルは目まぐるしく頭の中で考えを巡らしていた。ルダやフェイでは、どうにもならない事が必ず出てくるだろうと言う。それは、ラナの心の問題で、フェイなどではとてもじゃないが対応できないらしい。そういう事は、ゲイルに任せるのが一番良いと。
 「彼女の我が侭や愚痴に付き合えるのは、ゲイルだけだろう?」
 「……僕の役目って。ラナを守るんじゃなくて、愚痴を聞く役って事?」
 「それもラナを守る役目である事に変わりはない。重要な役だ」
 「確かにそうだけど……でも、そもそも本当にそんな事が出来るのかな」
 若干不貞腐れながらも、ゲイルは不安を口にする。警備兵と簡単に言うが、そこら辺の町営施設の警備兵とは次元が違う。世界にたった4つしか存在しない神殿付きの仕事なのだから。名誉を求め、世界中から希望者が殺到する。この年になるまで、剣だとか棒だとか、武術に関する物に触れたことがないゲイルにとって、遠い世界の話に聞こえて仕方がない。
 「どうするかは君次第だ。見込みはあると思うがな。……命がけで何かを守ろうとする度胸がある者は、世の中に実はそう多くはない」
 唇の端を吊り上げて、ルダが笑う。
 「栄誉の傷だな。ラナのクリスタルを、あの女から取り戻したのだから」
 言われて、ゲイルは茶色の目を見開いた。まさかそこまで、ルダが把握しているとは思っていなかったのだ。ラナが風神の神子であるという証である、風竜の紋章が彫られた黄緑色のクリスタル。生まれながらに神子がその手に抱いていると言われる代物だった。それを赤髪の女に奪われた時、ゲイルは必至で女に掴みかかったのだ。結局、彼女に切りつけられて気絶してしまったが、クリスタル自体は取り戻す事に成功した。目覚めた時に、自身の手の中に黄緑色の輝きがしかと握られていたからだ。
 「楽しみにしている。3年後を」
 言って、ルダはゲイルの肩を2、3度叩き、緩やかな足取りで立ち去って行った。それを後ろから見届ける形になったゲイルだったが、
 「やれるだけ、やってみるよ」
 そう小さく呟いて、去っていく漆黒のマントをいつまでも瞳にとらえていた。



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