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第10章「それぞれの覚悟」




6.

 湖の畔を少し歩いた所に、シズクが目的とする場所はあった。遠目からではよく分からないが、近づいてみるとそこだけ土が新しい事が分かる。僅かに盛り上がった地面の隅に、シズクが持ってきたものより更に小ぶりな白百合が手向けられていた。その傍らに、灰色のレンガが埋め込まれている。レンガには控えめな字で小さくこう彫られていた。――クリウス・C・サード、と。
 「――――」
 リースは無言のまま、先ほどシズクの手から掴み取った白百合を、先に捧げられていた花の隣に置く。彼の隣でシズクは、静かに瞳を閉じていた。クリウス達の一族がどのような宗教を信仰し、どのような弔いのされ方をするのか、シズクは知らない。だからただ、黙祷を捧げた。リースも考えは同じであったようで、花を手向けた直後には、シズクに倣って黙祷する。
 場には、厳かな沈黙が下りた。シズクもリースも黙ったまま、ただ時間だけが流れていく。日の光を含んだ優しい風が耳元を撫で、それはそのまま、湖の湖面を揺らす。良い場所だなと思った。傷ついた魂も、安らかに眠れるだろうか。
 数分祈りを捧げた後に、シズクはゆっくりと瞳を開ける。湖を包む空気は、先程と全く変わらない、神聖なものだった。

 「体調の方はもう大丈夫なの?」

 静寂を先に破ったのは、シズクの方だった。黙祷を終え、湖を眺めていたリースの方を見ると、何となしにそう声をかける。シズクの言葉に、エメラルドグリーンの瞳はこちらを向いた。
 「……おかげさまで。そっちこそどうなんだ?」
 「わたしはそもそも、皆程頑張った訳じゃ無いしね。ゆっくり休むまでもなく、平気だよ」
 肩をすくめ、シズクは苦笑いを浮かべる。実際は、無理矢理魔法を使おうとした時のダメージが若干尾を引いていたのだが、それもアリスなどに比べたら微々たるものだと思う。そのアリスだが、昼前にシズクが出る時点ではまだ休憩室のベッドの中だった。疲労が嵩んだのだろう。ラナの後の治療は、町医者達に任せても大丈夫との事だったので、今日一日はゆっくりするのではないだろうか。そうしなければ、今度はアリスが倒れる事になる。
 そんな感じで、今は救護所に居るアリスへ思いを巡らせていたシズクだったが、とある事が頭に浮かんで、リースの方をまじまじと見つめ直した。昨日、二度目に再会した時の、リースの様子を思い出したのだ。
 魔力切れ限界まで呪術を行使したアリス以上に、リースの消耗は激しいものだった。ガウェイン大臣と合流した時には既に足もとが危うかったくらいである。状況を悟った大臣は、若干慌てた様子でリースに休むよう告げた。大人しくそれに従ったところからして、リースも自身が限界を迎えている事を悟っていたのかも知れない。
 だが。とシズクは思う。一体何故あそこまで彼は疲弊したのだろうか。目立った外傷はなかったはずである。戦い詰めで、確かに疲れは出るだろうが、町中走り回ったくらいでリースがああまでなるとは思えない。クリウスを目の前で失った事が、精神的に響いたというのもあるかも知れないが、それでもまだ足りない気がする。
 「…………」
 自然、シズクの視線はリースの右腕に向いていた。一つだけ、心辺りがあったからだ。
 先日、ダイモスによって街に魔物が召喚された時、リースの黒刃の剣が真っ白に変わった事があった。その直後、彼は吐血したのだ――イリスで星降りを起こした直後のシズクのように。
 見た目上どこにもダメージが無いのに、激しく消耗する。それは、体の内側から何らかのダメージを受けている証だ。シズクもあの星降りの晩は、酷い消耗を強いられた。セイラの治療がなければ、しばらく起き上がる事すら困難だっただろう。それと似たような状態に、リースも陥っているのではないか。根拠はどこにもないが、漠然とそんな気がするのだ。
 だが、以前一度追及を拒まれた手前、再びそれについて尋ねる事は困難を極める作業のように思えた。だから何も言えずに、シズクはリースの右腕を見つめ続ける。あの日確か、彼は右腕を庇っていた。

 「――右手に父親から授かった光の剣を、左手に母親から授かった闇の杖を」

 「……え?」
 突然謎めいた言葉を投げかけられたものだから、シズクは大きく怯んでしまう。声の発生源はもちろんの事リースだ。右腕に注いでいた視線を慌てて彼の顔に持って行くと、呆れを含んだ表情がそこにはあった。盛大な溜息が聞こえる。
 「お前さ、その時感じてる事とか考えてる事とか、顔や態度でバレるタイプだろ」
 「なっ……!」
 半眼で睨まれる事が大いに癪に障ったが、言われた内容がズバリだったために、物凄い勢いでうろたえてしまう。大きく眼を見開き、口元を引きつらせると、何も言えずにただぽかんと放心する。そんなシズクの様子を見て、やっぱりな。とリースが呟いた。心底悔しかったが、反論出来るはずもない。間違いなくシズクは、ポーカーフェイスが苦手なのだから。隠し事の類は、ほとんど全て見抜かれてきた。親友のアンナなど、百発百中もいいところだ。
 「……まぁ、いいけど。ところでさ、知ってるか? 『右手に父親から授かった光の剣を、左手に母親から授かった闇の杖を』ってくだり。光神と闇神の神話」
 「し、知ってるわよ。常識じゃない、そんなの」
 唐突に話の内容が切り替えられたため、いまいち付いていけなかったが、なんとか表情を落ち着かせると、シズクはそう答えていた。
 いくら勉強が苦手といっても、さすがにそれくらいは知っている。リースが先ほど口走った言葉は、この世では常識とも言える程有名な神話の一部だった。先日イリスで遭遇した人形芝居の演目でもある。光神(チュアリス)と闇神(カイオス)の間に出来た子供は、イリスピリアの王になった。その王は、右手に光の剣を、左手に闇の杖を、それぞれ両親から授かり、その力でイリスピリアを治めたとされる。有名ではあるが、本当か嘘かは分からない話。それが一体どうしたというのだろうか。
 「あの神話はさ、全部が全部作り話って訳じゃない。一部には、真実も含まれている」
 「真実?」
 「初代のイリスピリア王は、本当に、右腕に光神(チュアリス)の力を宿してたっていう話だ。だから今でも稀に、初代と同じ右腕を持つ人間が王家に生まれ出る。所謂特異体質ってやつだな。一番有名どころで言うと、勇者シーナの弟、パリスがそうだったらしい」
 「パリス……」
 言われて思い出すのは、豊かな髭を蓄えた真白な老人の姿だった。パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリア。シズクは彼と、意外な形で邂逅を果たしていた。
 それにしても、イリスピリア王家の特異体質とは、初耳である。例の神話のくだりにしても、本当であるとは露ほども思っていなかった。確かにイリスピリア王家には剣技に長けた人物が多いらしいが、まさか右手に光神を宿しているなど。大袈裟に描かれている事だけだろうと思っていたのだ。
 「魔石や貴石で魔力や力を上げる術があるらしいけど、それと似たようなもんだな。光の魔石をいくつも、右腕に詰め込んで生まれてくるのと変わらない。文字通り、右腕に強力な『光』の魔力を宿してる訳だ」
 「ちょ、ちょっと待ってよ! いくつもの魔石って……そんなに強力なものだって言うの? そんな力、体内に宿していたら……」
 聞き捨てならない言葉を耳に入れて、シズクは思わず声を上ずらせる。
 魔石とは、強大な魔力が込められた貴重なマジックアイテムの事である。それ一つで、国が傾くと言われている。あまりに強すぎる力を持つため、人を惑わし、狂わすのだ。魔道士でも、制御する事は難しい。一つでもそれだけの破壊力を持つのに、イリスピリアの特異体質者は魔石を凌ぐ力を体内に宿していると、確かにリースはそう言った。もしそれが真実であるならば、とんでもない事である。下手をしたら――
 「壊れるよな。その人間そのものが」
 シズクの考えを、実にあっさりとリースは肯定する。
 そう、普通に考えてそれが正しい。魔石を手にして持ち主が壊れるように、右腕に光を宿したイリスピリア王家の者たちもまた、ことごとく壊れていく。
 「イリスピリアは光神を特に神聖視する国だ。そういう子供が王家に生まれると、問答無用で吉事として捉えられる。でも当人にしてみれば、吉事なんかじゃない。光の力は、諸刃の剣だから。扱い切れずに、大抵の場合持て余す事になる」
 皮肉な話だよな。とリースは零す。
 内に宿る力が強ければ強い程、宿主にとっての脅威となる。シズクにはそれが、痛いほどに理解出来た。イリスで目覚めた魔力は、自分の手に余る代物だったからだ。体の奥から、抑えきれない何かが競り上がって、引き裂かれそうになる恐怖。あの時点でのあれは、猛毒以外の何物でも無かった。
 それでも、光神(チュアリス)の剣は絶大な力をもたらす事は事実だ。だから、力を手中に収めるため、生まれながらに光を宿した者達の何人かは、自身の中の光神(チュアリス)の欠片に立ち向かおうとしたのだという。
 「……結果、ことごとく敗北だった訳だ。飲みこまれたが最後、魔道士でいう魔力の暴走よろしく、ある者は狂い、ある者は壊れた。……史実で知られる限り、光の力を完全に手に入れられた人間は、初代王とパリスの二人だけだよ」
 リースの物言いは、相変わらず抑揚がない。不思議なほどに冷めた口調であったが、語られる内容は壮絶そのものである。
 歴代王族の中で、リースの言う特異体質を持って生まれた人間がどれくらいの数に上るのか、シズクには分からない。だが、千年以上も続くとされているイリスピリアの歴史に、光の力を手に入れた者が二人しか刻まれていないという事が、どれ程稀有な事態であるかは容易に理解出来た。奇跡と言ってしまっても過言ではない。
 「だから、光を抱いて生まれた人間の多くは、身を守るため、力から目を逸らす道を選んだ。そのために使われたのが、魔力を封じ込める特殊な剣――『封印の剣』と呼ばれる代物」
 「封印の……剣?」
 鸚鵡返しに呟いた瞬間、心の中で妙な引っかかりを覚える。視線は無意識に、リースの腰から下げられている、あの漆黒の剣へと向かう。イリスを発つ時に、リースは何故かそれまで愛用していた剣を手放していたのだ。その代わりとして手に入れてきたのが、この剣だった。思えばその頃から、どこか彼の様子は変だったように思う。どくりと、心臓が大きく波打った。
 「光を宿した者たちは、その剣しかまともに振るえない。もし他の剣を使おうものなら、押し込めていたはずの力は奔流になって一気に押し寄せてくる」
 「――リース」
 会話の流れをせき止めるようにして、シズクは言葉を紡いでいた。これ以上リースの話を聞くのが怖かったのかもしれない。
 「何で今、そんな話をするの?」
 何故唐突に、彼はこんな事を話し始めたのだろう。右腕に宿る光。扱いきれない力。封印の剣。それら全てが、ある一つの結論に向かって組み上げられていく。
 冷たい汗が、背中を滑り降りていくのが分かった。見開いた瞳で、再びリースの顔を見る。芽吹いたばかりの若葉を思わせる瞳は、ただ真っ直ぐにシズクへと向けられていた。
 「ねぇ、もしかして。リース……」
 「俺の右腕にも、光神(チュアリス)の力が宿っている」
 諸刃の剣を持つ人間の一人だよ。そう言ってリースは、小さくため息をついた。それはある程度予想された言葉であったのに、彼の言葉を耳にしたシズクは大きく息を呑んでいた。喉がわずかに悲鳴を上げる。
 右腕に尋常ではない光を宿している。そう説明されたら確かに、これまでのリースの不可解な様子が全て納得出来てしまう。戦いが終わる度に疲労していた事も、右腕を庇っていた事も、魔物を一刀両断した直後に血を吐いた事も、全てはそこから来ているものだったのだ。でも――
 「それじゃぁ……イリスで手放したあの剣は……」
 言葉に出すと、余計に愕然となった。もしリースの言葉が真実であったならば。彼がイリスを発つと同時に手放したシンプルなデザインのあの剣は、シズクが想像していた以上に彼にとって大切な物だったのではないのだろうか。
 「封印の剣。俺が生まれた時に、イリスの鍛冶屋が作った物だよ。今は親父の手元だ」
 「……なんで?」
 肌が泡立つ。決して当たっては欲しくない予想を、ことごとくリースは肯定して行ってしまう。だが、分からない。
 「なんでそんなに大切な物を、手放したりしたの?」
 先ほど聞かされた話から推測するに、封印の剣を手放す事は要するに、内なる『光』と直接対峙する事となるのではないか。膨大な力と真正面から向き合う作業がどれほど困難なものであるか、想像に難くない。そして、その状態で旅立つ事がどれほど危険で無謀であるかも。リースがそこまで考えが至らないなんて事は絶対に無いだろうに。
 問い詰める視線を浴びせられて、リースは少し、迷いを見せたようだった。それまで真っ直ぐこちらを向いていた瞳を逸らすと、神秘的な輝きを放つ湖へと向ける。端正な横顔には、葛藤が見てとれた。緩やかな風が明るい金髪を掻き揚げていく様子を、シズクはただ見つめ続ける。
 「……『証』を立てるため。今回の旅をあの親父に認めさせるためには、それくらい差し出さないと駄目だろうなって思った。けど――それだけじゃ無いよな」
 最後の方の言葉は、シズクに語っているというよりは、自分自身に言い聞かせているような感じであった。一瞬舞い降りた沈黙をやんわりと割くと、リースは再び明るいエメラルドグリーンの瞳をシズクに向ける。葛藤はそこにはもうない。
 「お前と一緒に行きたかったからだよ、シズク」
 「え……?」
 「振りかかる現実に向かって必死になってるお前を見て、でもそれに対して何も出来ない自分が居て、目を逸らして逃げてる事が酷く馬鹿馬鹿しくなった。そんな風に中途半端な状態じゃあ、シズクと一緒になんて絶対に行けないと思った。……結局、自分勝手なそんな理由だよ」
 言って、自嘲気味にリースは笑う。それまでにない彼の脆い部分を垣間見たようで、心臓がぞくりと鳴った。
 「お前と同じように、俺も自分と向き合わなきゃいけないって、そう思ったから」
 「向き合ったって……選んだ結論が間違っていたら意味が無いよ。わたしは、逃げてただけだもの」
 必死で否定しながら、激しく首を振る。頭の中は酷く混乱し、大嵐が吹き荒れているようだった。リースにそんな事を言われるほど、自分は立派じゃない。現実から目を背けて、あれ以上傷つくのは嫌だと思っていたのだ。
 「魔女の元に行くのだって本当は――」
 「知ってたよ」
 え。と呟いてから呆けた顔で、一旦足もとに落としていた視線を、目の前に居る少年に向ける。知っていたって……何を?
 「シズクが魔女に会って何をするつもりでイリスを発ったのか。……本当はずっと、知ってた。というか、偶然聞いてしまったって方が正しいけど」
 聞かれていた、という事なのだろうか。あの晩の、王との会話を。そういう結論に達すると、強張っていた体の力が少しずつ抜けていくのが分かった。僅かに胸が痛む。イリスピリア王と交わした会話が頭の中で鮮明に蘇ったからだった。
 諦めきった顔で、シズクは彼に告げたのだ。魔女に頼んで、己の魔力を全て無くして貰うのだ、と。
 あの時は、覚悟を決めた末の結論だと信じていた。そうするのが一番良いのだと、勝手に思い込んでいたのだ。けれども結局、ただ目を瞑って、逃げようとしていただけだった。シュシュでの騒動の中で、嫌という程思い知った事である。
 「間違ってるかどうかなんて、分からないさ。あの時のシズクが必死で考えて出した結論だろう? 例えその先どういう結末が待っていたとしても、シズクが納得できる道なのだったら、俺は付いて行きたいって思ったんだよ」
 そう言って、リースは泣き笑いのような表情を浮かべる。こんな表情の彼を見るのは初めてで。向けられた言葉も気持ちも、思いも寄らないもので。何をどう言葉にすれば良いのか分からなかった。
 「――――」
 いつまでたっても言葉とならない感情を示さんとするように、涙が溢れ出してくる。視界が歪む。不自然な形に曲がった世界の先で、リースは少しだけばつが悪そうな顔をして、肩をすくめてみせた。
 「身勝手な理由で剣を差し出して、力になんてなれるはずなかったのにな。……本当の自分の手で、守りたかったんだ」



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