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第10章「それぞれの覚悟」




7.

 「母さんが死んだ場所は、丁度、こんな感じの森の中だった」

 ひとしきり泣いた後、僅かに残る嗚咽を抑えようとしていたシズクの耳に、穏やかな声が届く。腫れた目で声の主を見ると、リースはシズクの方を見ては居なかった。どこか遠くを見る様に、湖の先に広がる木々を視界に入れていた。ひくりと、しゃっくりが一つ、こぼれ落ちる。
 リースの母親――時の王妃、イーシャ・フェアラ・ラグエイジ・イリスピリアは、当時まだ幼かった彼を庇って命を落としたのだという。昨日、ガウェイン大臣から聞いた話だった。
 「親兄弟を失った人なんて世の中にごまんといる。だから、取り立てて自分が不幸だとか、悲劇的だとか、そんな風には思ってないけど……」
 「悲しい事だよ」
 シズクの言葉に、リースは驚いた表情でこちらを向いた。見開かれたエメラルドグリーンを、真剣なティアミストの青が迎え入れる。
 「大切な人をなくしてしまうのは、凄く悲しくて、苦しい事だよ」
 どんな時代だって、誰だって、大切に思っている人を失う事は、この身を引き裂かれそうな程悲しい。切なさは、何年経とうがきっと消える事は無い。シュシュの惨事でも、家族を失った者が多く出た。だから町は今、泣いているのだ。
 「……そうだな。悲しい、な」
 そう呟いて、リースは切なげに瞳を細める。
 「でもそれ以上に、あの事件は俺にとって大きなトラウマなんだよ」
 「トラウマ?」
 きょとんとした顔で、リースを見る。よもや彼の口から、そのような単語が飛び出すとは、夢にも思わなかった。
 シズクの表情を見て、彼女の心中を察したのだろうか。苦笑いを浮かべると、リースは小さく溜息を落とした。そして視線をまた、湖へと向ける。森林の匂いを含んだ風が吹く。
 「エラリアで静養中の出来事だった。森で、魔物の群れに取り囲まれた」
 エラリアは水と緑が溢れる、豊かな国土を持つ土地である。更にエラリア王とイリスピリア王は従兄弟にあたる関係で、幼い頃からの親友同士。一家の静養場所としてその国が選ばれたのは、ごく自然の流れだったという。

 ――初めはちょっとした冒険心から。

 言って、リースは表情を顰める。
 そこに森があって、その場にまつわる怖い話を小耳に挟んだのがきっかけ。深い意味なんて無かった。普段好奇心旺盛なリサが珍しく嫌がったものだから、余計にむきになって城を抜け出した。それがまさかあんな事に繋がるなんて、欠片も考えて居なかったのだ。
 異常な数の魔物の存在に気づいたのは、森に入ってしばらくしてからの事だった。同行人の少年は、既に魔物の群れにのまれてしまって、安否は分からない。他人に構っていられる余裕なんて少しもなかった。ただ逃げる事しか考えられない。
 剣は物心ついた頃から教わっては居たが、数の多さを前に、幼いリースに勝ち目があるはずなかった。全身に傷を受けながら走るも、結局は魔物に取り囲まれてしまう。
 「その時、助けに来たのが母親だったよ。女だてらに剣の腕は一流な人だったから、もしかしたらあの人一人だけなら、切り抜けられていたかも知れない。だけど、あの時背後には俺が居た」
 逃げろと言われるも、母を残して一人で逃げる勇気も気力も既になかった。結局そのまま、リースを庇うような形でイーシャは命を落としてしまう。その瞬間だったという。リースの右腕の『光』が目覚めたのは。
 「『光』の威力は絶大だった。あれだけ居た魔物の群れを一瞬で葬り去ったんだから。だけどそれは、覚醒というより、暴走に近かったんだと思う。力は俺自身にも跳ね返ってきた」
 歴代の王族達がことごとく制御に失敗してきた力が、9歳の少年の手に納まるはずなかったのだ。暴れ出した『光』は、宿主であるリースを内側から引き裂き、重傷を負わせる事になる。イリスピリア王とエラリアの兵士達が駆けつけるのがあと少し遅ければ、命を落としていてもおかしくない状態だった。
 「…………」
 確かにそれは暴走と呼ばれるものだと、シズクは胸中で頷く。リースの話を聞けば聞くほど、イリスで経験した魔力の暴走と酷似しているのである。いや、あの時のシズクよりも酷い状況と言えるのではないか。本当にギリギリの状態ではあったが、シズクは溢れ出そうとする魔力を抑え込む事に辛くも成功していたからだ。溢れ出した『光』を抑えきれず、その身に降りかかったリースとは、微妙に状況が異なってくる。幼い心が受けたダメージは、想像を絶するものであったのではないかと思うのだ。
 一命を取り留めて意識を取り戻したリースを待っていたのは、周囲の人々の畏怖の視線と、腫れものに触るような態度だったという。辛い思いをした上に、母を亡くした彼を憐れむ気持ちももちろんそこにはあったのだと思う。だが、『光』を抱いて生まれてきた王子が、今代もまた制御に失敗したと。その落胆からくるものも、少なからずあった。期待の星から、いつ再び暴走するか分からない危険因子へと、リースに対する周囲の認識が変わった瞬間だった。
 「剣を取るのをやめさせようとする動きも出たらしいぞ。まぁ、そういう反応が普通だよな。……けど、さすがは規格外。あの親父はその意見を頭から突っぱねた。失いたくなければ強くあれと、ただそれだけ告げて、俺に封印の剣を寄こしてきた」
 「強くあれ……と」
 鸚鵡返しのように呟く。強くあれ。何も失いたくなければ。
 (あぁ、そうか)
 どきりと、胸が波打った。その事件が、今のリースを形作る基礎となったのだと、シズクは思う。
 悔しいくらいに大体の事はそつなくやってみせるのは、もちろん彼の才能による部分も大きいだろうが、人に弱みを滅多に見せようとしないところも、あまり本音を曝け出さないところも、全部が全部、強くあるために必要な事だったのではないだろうか。一旦はリースに失望したというイリスピリア城の人間たちが、今や彼を次期後継者と信じて疑わないのは、その後の彼が自力で勝ち取った結果だろう。
 「リースは、もう十分強いよ」
 ぽつりと呟いたシズクの言葉に、リースは意外そうに眼を見開いた。だがそれからすぐに苦笑いして、そんな事はない。と首を横に振る。
 「……せめて自分の手が届く範囲は、自分で守れるようにならないと」
 「もうずっと、何度も守って貰ってるよ」
 腫れぼったい瞳を細めて、シズクは笑顔になった。そして、視線をリースから外し再び湖へと向ける。その頃には完全に太陽は天頂に辿りついており、湖に注がれる光の量は最大に達していた。
 「…………」
 また、沈黙が訪れる。さやさやと水面を撫でる風の音を聞きながら、シズクは静かに決心を固めていた。頭に浮かんでくるのは、身近な人たちの姿だ。それぞれが、自分が出来る事をするために一生懸命だった。そんな人たちの姿を見て、シズクも、シズクにしか出来ない役目を果たさなければいけないと思ったのだ。
 「わたし、魔女の元に行こうと思うの……自分の、本当に持っていたはずの力を、取り戻すために」
 「シズク?」
 耳に届いたのは、怪訝な色を宿した声だった。リースはイリスでのシズクの決意を知っている。魔女に己のすべての魔力を無くしてもらおうと、あの時確かにシズクは望んでいたのだ。その望みと180度異なる言葉に、不審さを露わにするのも無理はないと思う。
 「あの銀のネックレスは、母さんが命がけでわたしに託した物だった。わたしが守らなきゃいけない物だったの。何としても取り返さなきゃいけない。それが、ティアミストの人間としての責任だと思うから」

 ――取り返したければ、全力で向かって来る事だな。お互い、いい加減決着をつけねばならない頃だろう?

 赤い瞳を愉快気に細めて、カロンは言った。
 ネックレスの正体については、これほどまで騒動の中心に有るのに関わらず、未だ見当もつかなかった。だが、絶対に魔族(シェルザード)に渡して良い代物だとは思えない。奪われてしまったものは、取り戻さなければいけない。全力で彼らに立ち向かうためには……守りたいものを守るためには、力が必要なのだ。
 「……その結論が、何を意味するのか、わかってるのか?」
 程良い高さのテノールが、シズクの耳にすっと入って来る。声の主であるリースの方へ視線を向けると、彼は神妙な面持ちでシズクを見ていた。
 「分かってるつもりだよ」
 肩をすくめて、シズクは苦笑いを浮かべる。
 「でも、わたしがどうとか、そういう次元の問題じゃないんだと思う。だって、ティアミストの生き残りは、もうわたし以外には、居ないんだもの」
 ティアミスト家と魔族(シェルザード)との間に因縁があるのなら、その決着をつけるのは自分しか居ない。水神の予言に現れた『滅びの血』がティアミスト家の事を指すのだとしたら、光か闇になる存在も、シズクしか残されて居ないのだ。望まれてこんな存在になった訳ではない。もちろん、自分で望んだ訳でもない。だが、これは厳然たる事実。それらを受け入れる覚悟が出来た今、ティアミストの魔道士達が残して行った想いもまた、受け継ぐ覚悟をしなければいけない。それがきっと、シズクにしか出来ない、シズクの役目だろうから。
 「魔女の元に行って、無事にイリスに帰れたとしたら……わたしは、しばらく違う名前を名乗る事になるのかも知れない」
 「――――」
 シズクの言葉に、リースの表情が一気に厳しさを増す。彼が息を呑んだのが分かった。
 イリスに帰還したら、イリスピリア王や12大臣達が黙っては居ないだろう。魔女の元での結果がどうであれ、シズクの扱いに対する議論は再開される。ひょっとしたら、今頃既に再開されているのかも知れない。ティアミスト家の魔道士としての自分を捨てないというのなら、シズクは最終的に立ち上がらねばならなくなるだろう。古の勇者、シーナの再来として。それがシズクに果たせる役目かどうかという部分は抜きにして、少なくとも形式上は、そういう流れになる。
 「名乗る名前が違っても、わたしはわたし。そうは思うんだけどね……シズク・サラキスが、どこかに消えて行ってしまわないか不安にもなる」
 周囲から違う名前で呼ばれるようになった時、果たして自分はシズク・サラキスで居られるだろうかと。酷く自分の存在があやふやなものになるような気がする。決意したのはシズク自身だ。どのような結果に行きつこうとも、受け入れなければならない。だが、その部分だけが覚悟を決めた今となっても、不安だったのだ。
 「リース」
 目の前で複雑な表情を浮かべている少年の名を呼ぶ。
 本当は、こんな所まで話すつもりはなかった。昨夜アリスと話をした時も、ここまでは語っていない。不思議な気持ちだった。彼の前では予想外に本音をさらけ出している自分が居る。そういえば、涙を見せるのも、いつも決まって彼の前だったという事に気づく。

 「シズク・サラキスを覚えていてね」

 しっかりとエメラルドグリーンの瞳を捉えて、そう告げる。自分は今、上手く笑えているだろうか。
 この先、誰から違う名で呼ばれようとも、どういう立場になろうとも、リースには出会った時からの自分を忘れられたくないと思うのだ。彼の中では、シズク・サラキスで居たい。いや、彼だけじゃない。アリスやセイラ、菜の花通りから始まった旅で出会った人々の中からも、シズク・サラキスは消えてしまいたくない。
 「…………」
 どれくらいの間、無言で互いの顔を見合っていただろうか。視線の先でリースは、一瞬目を見開いただけで、真面目な表情を変える事は無かった。逆にシズクは、これ以上笑顔を浮かべているのが苦しくなって、ゆっくりとリースから視線を逸らし、小さく息をつく。湖の水際まで歩こうとして、足を一歩踏み出しかけた。その瞬間の事だ。右手を強く掴まれ、その流れのまま後方に引き寄せられた。
 「――――っ」
 唐突な、そのくせつい最近経験した覚えのある感覚に、一気に顔に血が上る。昨夜の光景が頭の中で再生されてしまえば、それ以上もうどうしようもなかった。滑稽な程狼狽して、シズクは独特の色をした瞳を右往左往させる。困惑気味に、自身の右手を掴んでいる少年の顔を見やる。
 まさかこんな真昼間のうちから、昨夜のように寝ぼけてなどいないだろう。少し不機嫌そうで、でも痛い程に真剣な瞳は、真っ直ぐシズクを捉えていた。エメラルドグリーンに意識を絡み取られて、視線を外せなくなる。この瞳は、卑怯だと思う。
 「忘れると思ってるのかよ、馬鹿!」
 「ば――っ!?」
 真面目な顔で何を言われるかと思ったら。飛び出した第一声は、そんな言葉だった。突然の事で、シズクがすぐさま対処する事が出来ないでいると、リースは更に二の句を紡ぐ。今度は落ち着いた声色で、こちらに語りかけるように。
 「お前な、人の話聞いてなかったのか? 俺はシズク・サラキスに着いて行きたいと思ったから、今ここに居る訳だ。だからこれからも、俺が一緒に付いて行くのは、シズクなんだよ。助けが要るなら手を貸すし、必要なら守れるようにするから」
 「……リース」
 「だから」
 ぎゅっと、シズクの右手を握る手に力が込められる。こちらを真っ直ぐ見詰める若葉色の瞳が、一瞬深みを増したように感じられた。
 「何も言わずに居なくなる事だけは、絶対にするな」
 「――――」
 真摯な思いを乗せた言葉は確実に、シズクの中の何かにぶつかってはじけた。胸が甲高い悲鳴を上げる。それは、予想もしなかった感覚だった。あまり経験した事のない類の衝撃を受けて、軽く意識が揺れる。胸のあたりが、少しだけ苦しい。
 「……うん」
 だが、零れた声は、穏やかなものだった。握られた手を、今度はシズクが強く握り返す。絡めた指先から感じる彼の体温が、手放し難いものに思えて、今はどうしようもなく――愛しいと感じる。
 「約束するよ」
 例えこの先何があろうとも、シズク・サラキスは、貴方の前から勝手に居なくなったりはしない。自分を決して見失わないために、前に進まなければいけないのだ。それを心の中で確認してから、シズクは大きく息を吸い込む。森の中の澄んだ空気は、淀んだ気持ちを全て洗い流してくれるようだった。



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