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第11章「東の森の魔女」




1.

 放課後と休日のほとんどの時間を国立図書館で過ごす生活にも、随分慣れて来た。暇な時間さえあれば、自然とリサの足はこの場へ向くのである。
 さすがにこうも足繁く通っていれば、城の連中に気付かれない訳がなかった。『王女が何か調べ物をしているらしい』と、城仕えの者たちが話している場面に遭遇するのも、一度や二度ではない。という事は、間違いなく父にもこの情報は渡っているだろう。だが、彼はリサに何も言ってはこなかった。いつかのように、シズクと関わり合いを持とうとするなと苦言を零す事もしない。……まぁ、十分すぎる程既に首を突っ込んでしまっている今の状況に、もう何を言う気も起らないというのもあるだろう。だが、父の中で少しずつ何かが変わっているような、そんな予感はした。
 閲覧机に向かう道すがら、そんな事を思いながらリサはため息をひとつ零す。考えても仕方のない事だ。父がどういう考えを持っていても、リサはやると決めた事はやめない決意だった。それよりも心配しなければならないのは、自分が今行っている調査についてである。パリス王が、神の力を持つ『石』とどのような関わり方をしたのか。
 (さすが、狸なだけある)
 胸中で、ともすれば不敬に値する先祖への悪態を零して、リサは再びため息を零す。探せば見つかりそうな『石』というキーワードは、見事なまでに隠ぺいされて、それに該当しそうな記述は未だほとんど見つける事が出来ていなかった。要するに、かなりの勢いで調査は行き詰まりを見せている。そういう訳だ。唯一、収穫を上げるとすれば――
 「…………」
 徐にリサは、手元のレポート用紙に視線を落とした。半月ほどに及ぶ調査の中で、手がかりになりそうなものについて記したメモは、かなりの量になる。その中の一つである『賢王パリスの治世とその政治手腕について』というタイトルの記述を目で追って行く。唯一、光明になりそうな発見をした本のタイトルであった。あの不思議な青年と遭遇した時、彼と取り合った本でもある。焦げ茶髪の凛とした青年。たった数分の邂逅だったのに、リサはあれ以来、時々彼の事を思い出しては考えを巡らせてしまう。一体どこの誰なのだろう。何故、パリスについて調べ物をしていたのだろう、と。
 「――え?」
 また彼の事を思い出して、答えの出てこない問答を繰り返そうとしていた矢先、リサのエメラルドグリーンの瞳は、驚愕で見開かれる事となった。
 リサがよく使用している閲覧机は、図書館の最も奥に位置する場所にある。極力目立つのを防ぐためと、周囲に人が居ない方が集中出来るからというのが選択の理由だ。ただでさえ利用客の少ない図書館の、最も寂れた所に置かれた机。そこに先に誰かが座っているという光景に、リサは未だかつて遭遇していない。そんな場所に、今日に限っては先客が居た。それだけでも十分な驚きであるのに、更にリサを動揺させたのは、その先客というのがまさに今、リサが考えを巡らせて居た人物そのものであったという事だった。
 弟のリースと同じくらいの長さに切りそろえられた、焦げ茶色の髪。すうっと鼻筋が通った容姿は、どこか中性的な雰囲気を醸し出している。男性に対してこの言葉はあまり適切ではないだろうが、『綺麗な子』というのが、リサの率直な感想だった。
 「あなた……」
 声を掛けると、少し驚いた様子で青年は俯き加減だった顔を上げた。彼にしても、リサの登場は予想外の事だったのだろう。油断していた所を運悪く人に発見されてしまった。そんな表情だ。
 「……あんたか。また会ったな」
 肩をすくめて青年は言う。こちらを真っ直ぐ見据える瞳は、不思議な色彩を放つ青だった。それを目にしてリサは、心のどこかに妙な引っかかりを覚える。一瞬首を捻るが、すぐにそれ以外の事へ注目が移って行った。青い瞳が少しだけ潤んでいる。飄々とした風を装っているが、青年の表情もどこか冴えない事に気がついたのだ。
 「随分と元気が無い様子ね」
 二度目の邂逅。それも、一度目はほんの数分言葉を交わした程度だったはずだ。だから、彼の些細な表情の変化に気づけてしまった事に、リサ自身驚いていた。もっと驚いたのは青年の方だろう。リサの言葉に、彼は体ごとこちらを向いて、目を見開く。
 「何で、そう見えた?」
 「さぁ、何故かしら。何となく、前会ったあなたとは違う気がしたから」
 答えになっていない答えだなと、内心苦笑いする。だが、青年はそれで納得したらしい。そうか、とだけ呟いてそれきり黙りこんでしまう。瞳を伏せると、その表情は一気に憂いを帯びた。何故だか、胸が痛む。
 「多分知っているんでしょうけど、私はリサ。あなた、名前は?」
 口を突いて出てきたのは、そんなありきたりな自己紹介の言葉だった。
 伏せられていた瞳が再びリサの方を向く。探るような色が見てとれた。ひょっとして、馴れ馴れしいと思われてしまったかも。一瞬そんな不安が頭の中を巡るが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
 「……シン」
 短く零すと、青年は青い瞳を真っ直ぐこちらに据えてきた。シン。目の前に居る、彼の名前。それを知れた事に、気分が高揚している自分が居た。
 「シン、ね。……ねぇシン。そんなに浮かない顔をして、何かあったの?」
 また随分と馴れ馴れしい事を。口にしてから、自らの発言に対して、そのような評価を下す。シンは確かに浮かない顔をしている。けれども、彼の私事に入り込んで良い程リサは親しい間柄の人間ではない。名前を知ったのもたった今なのだ。今度こそシンは、自分を嫌うかも知れない。でも、聞かずにはいられなかった。彼の表情を見ていると、心のどこかが落ち着かない。
 「悲しい事があった」
 「え……?」
 ぽつりと、シンの口から言葉がこぼれ落ちる。リサにとっては思いがけない事態だったために、反応が一瞬遅れてしまった。だが、それにも構わずにシンは青い瞳をうっすらと細める。
 「大切な人を、失った」
 「――――」
 確かにそれは、悲しい事だ。
 (あぁ、そうだ。この表情は)
 告げられた内容と、自身の胸に宿る言いようのない不安とを結びつけて、静かに納得する。そうだ、シンの今の表情は、大切な何かを失った者が見せる『喪失』の色を滲ませたものなのだ。さっと体中に冷たいものが下りる。思い出してしまったからだ。リサ自身が、大切な人を失った日の光景を。
 「…………」
 城を出る時、必ず帰ってくると告げた母は、亡き人となった形でエラリア城に帰還した。彼女が助けに行った弟も、瀕死の状態で運ばれた。頭の中が真っ白になったとは、まさにあの事だ。それまで当り前のように周囲にあったはずの光景が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。戻そうと思ってももう戻らない。幸福とは、脆くて儚いものなのだと、あの時初めて知った。
 葬儀が終わって、亡骸が埋葬されて、それでも毎晩のように泣きじゃくるリサに対して、弟は――少なくとも自分が知る限りでは―― 一滴も涙を流さなかった。8歳の子供が浮かべるにしては冷たすぎる光を瞳に宿して、ただ周囲の様子を淡々と見つめ続けた。あれ以来だろうか。リースが変わったのは。
 「……泣いてもいいのに」
 「え?」
 呟きは、シンの耳にも届いたようだった。細められていた瞳を一気に見開いて、こちらの様子をまじまじと窺い始めた。
 胸に僅かに残る痛みを追いだすと、リサは大きくかぶりを振る。しんみりした雰囲気は、自分には相応しくない。快活な母が居なくなった後では、リサが笑っていなければ誰も笑わなくなるから。
 「悲しい時は、無理せずに泣いていいのよ。その方が絶対、スッキリするはずだから」
 言って、やんわりとほほ笑む。悲しい顔は、出来ればして欲しくないけれども、痛みは誰にでも必ず訪れるものなのだろう。だからせめて、悲しむのを我慢する事だけは、して欲しくないと思うのだ。そんな風に喪失を滲ませた表情で、涙を堪えなくてもいい。
 聞こえてきたのは浅い溜息だった。目の前の青年は、急に毒気を抜かれたような表情を浮かべて肩をすくめる。
 「……さすがにこの年で、人前で泣く訳にはいかないだろうが」
 「別に私の前で泣けとか、そんな偉そうな事言うつもりはないわ。誰にも見せたくなければ、一人で泣けばいい。でも今のあなたみたいな顔してる人はね、きっと一人になっても泣かないのよ。……ところで、あなたって一体何歳なのかしら?」
 「…………」
 今度は確信犯の笑みで、リサは唇を吊り上げてみせる。怪訝な表情の青年は、今度こそ呆れ顔に変わった。けれども、短い沈黙ののちに「20歳だよ」と律儀に答えてくれるあたり、人がいいなと思う。
 「……あんたと話してると、見事に雰囲気ぶち壊しだな」
 「褒め言葉として受け取っておくわ。私の一番の特技なの」
 うふふ。と、わざとらしい声で笑う。更に呆れを濃くした表情に変わると、とうとうシンは小さく吹き出していた。彼の笑顔を見たのは、もちろん初めてだった。笑うと意外と子供っぽく見えるんだな。と、リサは心の中でのみ呟いておく。これも、彼に直接伝えない方が賢明だろう。場の雰囲気が一気に緩んで行くのが分かった。その事に、小さく安堵する。
 「パリスに関する調べ物は、上手く行ったの?」
 閲覧机の上を見てみるも、本は一冊も積まれていない。とすると、調べ物は終わったのだろうか。
 和んだついでに、軽い調子で聞いたつもりだった。世間話の延長のような、そんな気分。だが、シンの顔を見た瞬間、リサは浮かべていた笑顔を崩さざるを得なかった。ついさっきまで、人懐っこい笑顔を浮かべていたはずの瞳には、冷たい光が宿っていたからだ。
 「…………」
 深いブルーの瞳が細められる。そこに僅かに顔をのぞかせているのは、苦悩のような気がした。
 「シン――」
 「終わったよ」
 え。と呟いてから、彼が何の事を言っているのか理解するのに数秒程かかった。自分で訊いたはずなのに、この青年と話をしていると、どうも調子が狂う。
 「知りたい事は粗方知る事が出来た。……だからここに来るのは今日が最後。あんたと、こんな風に会う事もないだろう」
 淡々と告げながら、シンは冷えた表情から徐々に苦笑いへと変わる。張りつめていた空気が緩んだはずなのに、何故かリサは泣きたくなった。ちくりと胸が痛む。だが、どうして痛むのか、その原因が理解できない。
 「そう……」
 掠れた声で、それだけ零すのがやっとだった。調べ物が済んで、よかったわね。胸の中でだけ、そんな社交辞令の言葉が虚しく響き渡る。
 彼が告げた内容は、取り立てて悲しい内容でもなかったはずだ。調べ物が済んだら、図書館に用が無くなるのも、城を彼が訪れないという事は、こんな風に出会う可能性がなくなる事を示すのも、どれも単なる事実を指すだけであるはずなのに。まるで永遠の別れを告げられたような気分になったのだ。
 「イリスの町でだったら、また会えるかしら」
 せめてその不安を否定して欲しくて、引きつった笑みでリサが零す。しかし、シンは少しだけ悲しそうな顔で首を横に振ったのだった。
 「もう二度と、会わないと思う。俺はこの町を離れるから。でももし次、出会うとしたら――」
 そこで言葉を止めると、彼は焦げ茶色の髪を揺らしながら緩くかぶりを振った。
 「出会うとしたら……何?」
 「いや、なんでもない」
 怪訝な顔のリサに、シンはバツが悪そうに笑ってみせた。そうして、リサが見つめる目の前で、それまで腰かけていた椅子から、ゆったりとした動作で立ち上がる。リサは女性としては長身の部類に入る方だったが、青年もまた、割と長身だった。セイラ程ではないだろうが、リースよりは背が高い。お互い立ち上がった状態で向かい合うと、見上げなければ目が合わなくなってしまう。それまで見下ろす立場に居たのに、今度は彼から見下ろされていた。
 「今日は、別に調べ物のために来た訳じゃなかったんだよ。この町を去る前に、見ておきたいものがあったから」
 「見ておきたいもの?」
 「オリジナルの創世記」
 首を傾げていたリサだが、シンの言葉を聞いて思わず眉根を寄せる。
 オリジナルの創世記とは、およそ500年前に出土した石盤の事を指すのだろう。複雑な魔法文字で、現代に伝えられているものとは少しだけ異なる創世記が刻まれている。ほとんど公の場に持ち出される事なく、図書館の奥に厳重に保管されていたはずだ。リサも数えるほどしか見たことがない。許可が無いと見れないものであるし、許可の申請をしてもなかなか下りるものではない。かといって、それ関連の研究者以外にとってはそれほど重要なものでもないはずである。シンが何故それを見たいと思ったのか、皆目見当がつかない。
 「見せてあげたいけど……私が頼んでも、そんなにすぐに許可が下りるものでもないわ」
 「別にもういいんだ」
 それは、分かっていた事だから。肩をすくめてシンは苦笑いを零す。分かっていてどうして、彼はわざわざ図書館に赴いたりしたのだろう。その言葉はどうも真意を突いてはいないような気がして、リサは更に首を傾げる。
 緩い沈黙が訪れ、シンは穏やかに瞳を細めた。深いブルーの瞳を真っ直ぐ向けられた瞬間の事だ。胸が大きく悲鳴を上げる。咄嗟の事で狼狽し、リサは目を見開いていた。
 「まさかあんたと再び会うなんて、思ってもみなかった」
 沈黙を割いたのは、青年の方だった。未だ困惑する頭で納得して、とりあえず小さく頷いておく。リサも、彼と再び出会えるとは思っていなかった。広大な敷地を誇る図書館だ。例え同じ部類の書物を調べているといっても、再会出来る可能性はかなり低かったはずだから。
 「あんたのお陰で……今夜は一人で、涙を流す事が出来るかも知れない」
 細められていた瞳が僅かに潤んだのを、リサは見逃さなかった。無性に手を伸ばしたくなる衝動に駆られて、必死で自身を押さえつける。
 「ありがとう」
 それが、彼の別れの言葉だった。立ちつくすリサの横を通り過ぎると、足音は少しずつ遠ざかって行く。最初に出会った時と同じように、追いかける事はかなわなかった。追いかけるのがおかしいと思ったからではない。彼がそれを拒んでいるような気がしたからだ。
 「私は……またあなたと会いたいわ」
 引きとめる代わりに、背中越しに言葉を投げる。シンに聞こえただろうか。聞こえていたらいいなと、止まらない足音を聞きながら、リサは思った。



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