+ 追憶の救世主 +

 第11章(1)へ  / 戻る  / 第11章(3)へ


第11章「東の森の魔女」




2.

 シュシュを発ったのは、惨事から3日目の早朝だった。それまでの大混乱が嘘だったかのように、道中特に大きなトラブルには見舞われなかった。間の町で一泊しただけで、翌日の夕刻にはリストンに到着出来てしまう。あまりのあっけなさに、正直なところ拍子ぬけしたくらいである。だが、常時ならばこれは当たり前の事なのだ。改めて、シュシュとリストンは近かったのだとシズクは実感していた。
 半月程あの町に閉じ込められていた時は、遠い異国の地のようにも思えたリストンだが、到着してみると何のことは無い。どこにでもある賑やかな普通の町である。乗合馬車の終着点であるこの町は、イリスピリア東部の中枢都市だそうだ。イリスより規模は劣るが、なるほど確かに栄えている。しかし、どこか牧歌的な雰囲気を感じるのは、周囲を豊かな緑に囲まれているからだろうと思った。夕日に照らされて、今はオレンジ色に輝くのは、リストンの町の背景に広がっている森。――リストンの森と呼ばれる場所。目的とする場所に、ようやくここまで近づけたのだ。
 「とりあえず、宿をとらないとな」
 ぼんやりと森を眺めていたシズクの隣で、リースが告げる。
 日が沈んでから森に入るのはどう考えても得策ではない。魔女の元へ赴くのは翌朝以降にして、今夜は町に泊まろうというのが全員一致の意見だった。幸いな事に宿はあっさりと見つける事が出来た。ここのところ治安の悪化と街道の封鎖で、旅人の数も減っているのだと受付の夫人が零す。
 「お客さん達は、魔女に会いに来たのかい?」
 そんな会話の中で、突然核心を突く言葉が飛び出たものだから、シズクは返事をする事も忘れ、大きくうろたえてしまった。ふくよかな夫人は、ははーんと零して可笑しげに笑う。後方で、リースは絶対に呆れ顔でこちらを睨んでいて、アリスは苦笑いを浮かべて肩を竦めているはず。振り返らなくても容易にそんな様子が想像出来てしまう。
 「イリス方面から来たんでしょう? 主要な街道が封鎖されている中、わざわざこの町を訪れたんだ、ただの観光じゃないって思って。……会えるといいね。魔女を訪ねて来る旅人は時々居るけど、会ってもらえる人はなかなか居ないみたいだよ」
 世界的に有名な魔道士である東の森の魔女は、歴史が動く時に表舞台に出ると言われている。実際、主要な大国のトップは相談役の一人として魔女をおいているという噂だし、呪術師と魔道士という間柄であったが、4神殿の神子達とも深い繋がりがあるのだという。そんな彼女に会いたいと願う一般人は少なくない。訪問の目的も、彼女に会って何を求めるのかも人それぞれだったが、最も多いのが永遠の生に関する願いだそうだ。神から受け継いだとされる『石』を使って、魔女はおよそ500年もの生を維持している。伝説でもおとぎ話でもなく、これは事実なのである。神のみが持つ永遠の生を、人間にして手に入れた唯一の人物。それが東の森の魔女だ。
 「魔女のお弟子さんに、割と若いお嬢さんが一人居るけど。彼女なら月に一度くらい買出しのために町に出てくるよ。時々見かけるからね。でも、魔女本人はずっと森の中に籠ってるって話だよ。生半可な願いでは、会う事も出来ないって」
 長きにわたって森に住んでいるにも関わらず、彼女自身が人前に姿を現す事は滅多にないらしい。リストンに昔から住んでいる老人たちでさえ、魔女の姿はおろか、その真の名前を知っている者もほとんど存在しない。まさに隠者と呼べる人物である。



 「――ねぇ、東の森の魔女ってどんな人物なの? アリスとリースは会った事がある?」

 だから、部屋に入った途端シズクがこんな質問を投げかけたのは、無理からぬことだった。
 永遠の命を持つ偉大な魔女。世間一般の人間達は彼女の事をそのように認識している。シズクもまた、そんな大衆の一人だった。彼女に会う事が今回の旅の目的であるはずなのに、ほとんど魔女に関する知識を持ち合わせていなかった事に今更ながら気づいたのだ。というか、それどころではなかったというのが本音だ。
 質問を向けられたリースとアリスはというと、きょとんとした表情を浮かべて、お互いの顔を見合う。
 「会った事はあるけど。俺の場合、もう10年以上前に会ったきりだし……アリスの方が俺より詳しいけど……」
 ベッドの上に荷物を置きつつ、リースが告げる。彼の視線は、同じく抱えた荷物をベッドに置かんとしているアリスに向いていた。シズクも見守る先で、アリスは自身のカバンを軽やかな音を立てながらシーツに沈みこませる。そして、黒髪を翻しながらこちらを振り返った。
 「一言で言うと、変わった人ね。師匠とはり合えるくらいに」
 悪びれもせずにアリスはそう告げる。だが、それを耳にしたシズク達の反応はあからさまなものだった。リースは一気に顔を引きつらせる。きっと、自分も似たような表情だろうとシズクは思った。
 セイラの性格は、短い付き合いのシズクでも、ある程度認識出来ているという自負がある。決して悪い人ではない。むしろいい人の部類に入る人物だとすら思う。しかしである。彼、かなり厄介な性格をしている。究極のマイペースにして、トラブルメーカーであるのだ。そのセイラと張り合えるくらいに変な人とは……相当な人物を指すのではないだろうか。
 「まぁ、ほぼ隠居の身だから自らトラブルを作り出すような事はしないわ。そこのところでいうと、師匠よりマシかしらね」
 二人の反応の意味を悟ったのだろう。苦笑いをうかべつつアリスが言う。変わった人物であるのは間違いがなさそうだが、少なくとも奇行に走るような事はないらしい。その事を確認して、シズクはほっと胸をなでおろした。
 「名前はテティ。テティ・リストバーグ。年齢は、今年の春で491歳」
 「テティ……」
 人間としては驚異的な魔女の年齢よりも、シズクは何故かその本名に強く心を惹かれた。初めて知る名前のはずである。けれども、喉に何かつかえた時のような、独特の違和感がシズクの中を満たしていた。テティ・リストバーグ。胸中で呟けば、より強い既視感に包まれる。どこかで――
 「まぁ、実際会ってみたら分かるわよ」
 思考の海に沈みこんでいたシズクを呼び戻したのは、軽い調子で告げたアリスの言葉だった。






 明日は早朝から発つ事になり、今晩のところは早めに寝て、明日に備えようという意見で全員一致した。
 同室のシズクは、夕飯を摂って入浴を済ませた直後には眠りに就いていた。疲れているのだろうなとアリスは思う。本人は、自分は少しも頑張っていないから平気だと言うが、この一連の騒動の中、最も大きな心労を強いられてきたのは間違いなくシズクだろう。
 イリスで星降りを起こした夜から、およそ半月が経っていた。だが、その間ほとんど休養を摂っていない。明日、魔女の元を訪れて、今現在の中途半端な状況を打破して貰えたら、少しはシズクも気が休まるだろうか。規則正しく続く寝息を聞きながら、そんな事を思う。
 軽く息を吐くと、アリスは部屋を後にしていた。
 「――――」
 廊下の空気は少しだけひんやりとしていた。窓の外を見ると、星空が広がっている。夜も更けてきた事もあって、町の明かりは少しずつ減っていた。それらを視界に入れて、アリスはもう一度小さく息を落とす。
 妙に気持ちが高ぶって、眠れなかったのだ。ふっと苦笑いがこぼれ落ちる。当事者ではないはずなのに、何故こんなにも自分は不安を抱えているのだろう。
 魔女に会う事はイリスを出た時からの目標であったし、それを実現させる事がシズクにとって最善の処置なのだ。だから、その事に関しての不安はほとんど無い。むしろ、期待で胸を膨らませている方が心情的に近いくらいである。
 アリスの胸に僅かに宿る不安。おそらくそれは、自分が魔女に会う事に対しての不安だろう。
 (まったくもって馬鹿馬鹿しいわね)
 胸中で自分を叱咤する。シズクと一緒に着いて行くと言った夜、セイラは少しだけ心配そうに自分を見ていた。他に頼める人間などもちろん居なかったのだろうが、テティ・リストバーグの元にアリスを向かわせる事に彼が不安を抱いていた事は確かだった。
 ざわめく気持ちを落ち着かせるために、アリスは階下の食堂へと向かう。宿の夫人に温かい飲み物でも淹れてもらおう。ぼんやりとそんな事を思いながらカウンターの席についた。冷えた廊下とは異なり、ここには暖かな明かりと空気が満ちている。
 夜の食堂は、どちらかというと酒場の様相を呈していた。静かに酒を飲みかわし、囁き合うような声で客達は言葉を紡ぐ。それらを何となしに眺めてから、カウンターの夫人に何か注文しようと顔を上げた。その時だ。かたんと、自分の隣の席に腰を落とす者が居た。更に目の前に、温かいミルクが入ったマグカップを差し出されると、驚きでアリスは闇色の瞳を見開いていた。
 「…………」
 「どうせ、眠れないんだろ?」
 視線の先には、リースの姿があった。少し光量の落とされた明かりの下で、彼の瞳は普段より若干深い色に見える。その顔に宿るのは、端的に言ってしまえば心配の二文字だった。
 「ありがとう」
 それには気付かないふりをして、アリスはホットミルクを口に運ぶ。蜂蜜が混ぜられているのだろう。ほのかな甘みが口の中に広がって、緊張した体を解してくれるようだった。ほっと一息つく。
 「リースも眠れないの? 酒の席に出てきてるなんて珍しい」
 状況からして、リースはアリスが下りて行くより先にこの場に居たのだろう。あちこちで酒を飲みかわしている場に彼が出てきているのは非常に珍しい。酒の匂いすら苦手な彼は、そういう場所に自ら進んで出る事はないのだから。
 「長く旅をしてたら、いい加減酒の匂いにくらいは慣れてきたよ。何か飲もうと思って……眠れないから」
 「気が合うわね。それもまた珍しい事だわ」
 明日は雪か雹でも降りそうだ。そんな事を考えると、自然笑みがこぼれ落ちる。だが、和やかな雰囲気はリースには伝わらなかったらしい。彼は物憂げな表情で瞳を伏せると小さく息を吐き出した。
 「……今更聞くけどさ。お前、本当に良かったのか?」
 「何が?」
 「今回の旅だよ。そりゃ、セイラが頼れるっていったらあの状況ではアリスしか居なかっただろうけど。……リストンの森には、あまりいい思い出はないだろ?」
 リースの言葉に、ぎくりと体を強張らしている自分が居た。それを悟られまいとして、アリスは笑みを作る。
 「シズク以外の人間の心配も、してくれるのね」
 「はぁ?」
 真剣な表情から一転、あからさまに怪訝な顔をしたリースを見て、思わずアリスは吹き出してしまった。しっとりとした空気が流れる酒場に、明るい笑い声が零れる。隣の席で、笑われた当人は不服そうに眉間にしわを寄せていた。
 「ごめんごめん、冗談よ」
 止まらない笑いを追いだそうとして、大きく息を吸い込んでそれらを吐き出す。再び喉にホットミルクを流し込むと、どうにか笑いの波は去ってくれたようだ。涙目を細め、アリスは小さくため息を零す。
 「……2年前、私とリースの婚約話が出た時の事、覚えてる?」
 言って、幼馴染の表情を窺う。突然の話の方向転換に、リースは若干付いていけていないようだった。眉をひそめて首を傾げている。だが、そんな事には構わずにアリスは更に言葉を紡ぐ事にした。少し、喋りたい気分だったのだ。
 「リースもそうだったように、私も絶対に嫌だって思ったし、そのための行動も起こした。……でもあの時ね、ほんの少しだけ。それもいいかも知れないなって、そうも思ったのよ」
 「…………」
 突然の婚約話が浮上した時、リースとは絶対に無理だと、率直にそう思った。何というか……彼と自分は近すぎるのだ。どう頑張っても恋愛対象としてはなり得ないし、彼と夫婦になる自分の姿など考えられない。だが、そこまで思っていてもあの婚約話が少し魅力的に思えてしまったのには、理由があった。
 「逃げられるって、思ったのよね。もちろん、そんな考えは絶対に間違っているって、すぐに思い直したけど」
 逃げられる。婚約話を打ち上げた張本人である叔父とイリスピリア王も、少なからずその辺の事を考慮にいれていたのだとアリスは思っていた。エラリアの名を捨てる事が出来れば、おそらく自分はあの国から解放される。でも――
 「他国に迷惑は絶対にかけてはいけないのよ。例えそれが、イリスピリアであったとしても。だから私は、他国には絶対嫁がない。あの時、決めた事よ」
 「アリス――」
 「ねぇリース。貴方は、シズクの心配だけをしていて。他に構ってる余裕なんてないくせに。……好きな子くらい守りなさいよ」
 最後の方はほとんど茶化して言ったつもりだったのに、リースは否定どころか反論すらしてこない。ちらりと横目で彼の方を見ると、いつになく真剣な顔をしている。誤魔化すなと、言いたいのだと思った。
 なんだかんだで彼とは長い付き合いだ。表面上の性格はひねくれていても、根の部分では優しい事はよく知っている。エラリアに居られなくなって、扱いづらい立場となってしまったアリスを、リースもリサも温かく迎え入れてくれた。立つ位置がどう変わろうとも、今でも彼らは自分を幼馴染の一人として見てくれる。
 「私なら大丈夫だから」
 そう、きっと大丈夫だから。心の中で何度も、そう言い聞かせる。リースはもう何も言ってはこなかった。囁くような客達の会話だけが耳元を通り過ぎて行く。
 ゆっくりとした動きで、アリスはホットミルクを再び口に運んだ。ほんのりと甘い香りにつつまれて、無性に泣きたくなってしまったのは何故なのだろう。



第11章(1)へ  / 戻る  / 第11章(3)へ
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **