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第11章「東の森の魔女」




3.

 翌朝、割と早い時間帯にシズク達は宿を後にした。幸いな事に天候には恵まれていた。おそらく雨に見舞われる事はないだろう。
 リストンの森はどこにでもありそうな、特筆するべき特徴の無い場所であった。さくさくと足元の草を踏みしめながら歩むも、同じような景色が続くだけ。木々の間から差し込んでくる光が、少しだけ森の風景に変化を付けているくらいで、おそらく何も考えずに歩くと迷ってしまうだろうなと思う。
 ただ一つだけ、他の森では絶対にあり得ない特徴を挙げるとすれば、それは張り巡らされた結界の数々だろう。リストンの森には、町や村に張られているものと同じような魔物避けの結界が機能している。更に、それだけではない。初歩的な人避けのトラップや、侵入者を拒むための魔法があちこちで働いているらしい。なるほど、魔女を訪ねて行ってもなかなか本人までたどり着けないのにはこういう訳があった。尤も、現時点で魔力ゼロの状態であるシズクには、結界を感知する事などもちろん出来ない。故にこれらは、同行人のアリスからの受け売りである。
 「懐かしいわね。この森の空気を吸うのも久しぶり」
 小一時間経った時だった。いい加減歩き続ける事に飽きてきて、無言になりかけた一行の中で、アリスが口を開いた。歩みはそのままに、シズクはアリスの方へ視線を向ける。緩やかに深呼吸して、彼女は瞳を細めていた。
 「アリスは、魔女に会った事があるんだよね。この森を歩いたことも?」
 「あるわよ。テティは身分や立場なんて気にしない人だから……どんな人間でも、どんな時でも、魔女に会いたければこの森を歩かないといけないの」
 徹底してるでしょう。そう言ってアリスは可笑しげに笑う。森に張り巡らされた結界や魔法の数々も、ズルを許さないためでもあるとか。大国のお姫様であるアリスを歩かせるとは、確かにそれは徹底している。やはり変な人というのは本当らしい。
 「それにしても、随分歩いたよね」
 まだ目的地には着かないのだろうか。足を止めて周囲を見渡すも、相変わらず同じような木々が立ち並ぶのみだ。時間にしたら随分歩いたはずだが、景色はちっとも変っていなかった。これも、何かの魔法だろうかと勘繰りたくなる程である。
 「もうそろそろ着くはずだけどな。そんなに何時間も歩いたりはしないはずだし」
 同じく足を止めて、気だるそうにリースが零す。
 「なら良いんだけど。そもそも、魔女は私に会ってくれるのかな……」
 魔女に会いたいと願う者が多い中で、本当に彼女と会えるのはごく一部だけだというのだ。昨日聞いた、宿屋の夫人の話を思い出して憂鬱な気分になってしまう。
 今更な話だったが、シズク達は魔女に事前に会いに行く知らせなどは行っていなかった。要するに、何の前触れもなく突然押しかける形である。セイラに言われるがままに旅立って、とりあえず夢中でリストンに向かってみたものの、直前のここにきて急に不安が胸を焦がす。セイラの判断が間違っていたとはシズクは思わないが、もしもである。もし万が一、魔女がシズクと会う事を拒否した場合、自分はこの先どうすれば良いのだろうか。ここまで付いてきてくれたリースやアリスにも非常に申し訳ない。そんな感じで、ネガティブな方向に思考が向かうシズクだったが、
 「アホか! 会ってくれるかな、じゃなくて会うんだろーが!」
 盛大な溜息とともに、リースが零した事で思考が中断する。整った容姿を持つ彼に半眼で睨みつけられると、かなりの迫力があった。思わずシズクは怯んでしまう。
 「そうだけど、でも……」
 「大丈夫よ、シズク」
 続いてかけられたのは、穏やかな言葉だった。見ると、シズクのすぐ隣でアリスはほほ笑みを浮かべている。
 「きっと会ってくれるわよ。変な人だけど、そういう所はちゃんとしてるはずだから。だから心配しないで」
 「アリス……」
 「事実、私もリースも、過去に何度か魔女と対面した事があるんだから。私達が証人でしょう?」
 にっこり笑顔で告げられると、本当に心配しなくても良いような気になって来るから不思議だった。なるほど、確かに自分の隣には心強い証人が二人も居る。だからきっと、心配しなくても大丈夫。
 「うん、そうだよね……」
 肩の力を抜いて、シズクも微笑み返す。今はうじうじ悩んでいても仕方がないだろう。前進あるのみだ。そう思い、再び歩を進めようとした。ひゅんと、比較的激しい風が吹いたのは、その時だった。
 今日は陽気で風もほとんど吹かない穏やかな気候であったのに、珍しいなと咄嗟に思う。思わず目を瞑って、風が通り過ぎるのを待つ。だが、風が止んでゆっくりと瞳を開いた時、目の前に広がっていた光景に、シズクはそれこそ間抜けに呆けるしかなかった。
 「――え?」
 それまですぐ傍に居たはずなのに。自分の視界の中から、リースとアリスの姿が忽然と消えてしまっていたからだった。






 「ちょ……嘘。何で? 一体どうしちゃったの?」
 落ち着きなく周囲を見渡しながら、シズクは思った事を次々と口にして行った。そうしなければ、とても平静を保てそうになかったからだ。咄嗟の事にここまで対処できないとは、我ながら情けなさで笑えてくる。油断していた分、衝撃が大きかったのかも知れない。
 どこをどう見ても、リースとアリスの姿を見つける事は適わなかった。気配を感じる事すら出来ない。反面、周囲の景色だけは、嫌になる位先ほどと全く同じものだった。何の変哲もない木々が立ち並び、上空を見上げても、何の変哲もない青空が広がる。森には魔女の仕掛けた結界や魔法が多く存在するらしいから、二人だけ何かの魔法で遠くに飛ばされてしまったのだろうか。それとも、自分だけ何かの罠にはめられたのかも知れない。
 (どうしよう……)
 背筋に冷たいものが下りる。体は異常なほど冷えているのに、頭の中はというと未だ沸騰中だった。こういう場合、今居る場所を動くのは危険であるのが常だ。特に、シズクは今現在魔力が空っぽの状態である。これが魔法の仕業だというのなら、尚更ここでじっとしているのが最善だろう。おそらくリース達も自分が消えた事に気付いているだろうから、彼らが何とかしてくれるのを待とう。そうだ、それが一番良い。
 そこまで結論づけると、少しだけ気持ちが軽くなった。早鐘を打つ心臓を無理矢理押さえつけ、シズクは大きく息を吐く。
 もしこれが、魔女の仕業だとしても、まさか自分達に危害を加える事などしないだろう。歓迎されるかどうかは分からないが、アリスの物言いを思い出す限り、むやみやたらと人を傷つけるような人物ではない。だからきっと、これは何かの事故か、それとも魔女なりの考えがあっての――
 「……って訳でもなさそうな感じ?」
 まるでそれは、狼か犬の遠吠えのような。普通あまり聞く事のない類の声が森中に響き渡った。嫌に聞き覚えがある。出来れば記憶違いであって欲しいと願うのだが、こういう場合の嫌な予感とは、得てして的中してしまうものである。
 表情を引き締めると、シズクは銀の棒を組み立てていた。魔法は一切使えない。リースとアリスも居ない。とすると、この身を守ってくれるのはこの棒だけだった。
 激しく草が鳴いたのは、シズクが棒を構えたのとほぼ同じタイミングの事だ。視界に突如『それ』は出現する。決して当たって欲しくなかった予感。だがそれが、まさに今現実のものとなった。
 「全く、何だっていうのよ」
 緊張で強張る体を誤魔化すように、シズクは小さく吐き捨てる。睨みつけた視線の先には、3匹程の動物が対峙している。パッと見ただけでは、それは中型の犬に見えない事もない。だが、犬などという可愛いものでない事にすぐさま人は気づくだろう。普通の動物ではまずあり得ない、ひと組多い足と、異常な程に伸びた鋭い牙。不気味に広げられた口からは涎がこぼれ落ちる。血走った眼は久々の得物にありつけたとばかりに怪しい輝きを宿していた。
 ――6本足の悪魔。
 シズクの魔法学校があった地域では、そのように呼びかわされている魔物である。正式名称はワービーという。忘れるに忘れられない。菜の花通りで初めてセイラと出会った時、シズク達を襲った魔物の名であった。
 恐ろしい程の既視感。あの時と全く同じように、ワービー達はシズクとの間合いを測りながら低いうなり声を上げ続ける。いや、あの時よりも遥かに状況が悪かった。なんといっても今、シズクは魔法が一切使えないのだ。菜の花通りで彼らと戦った時のように、魔法で撃退する事は不可能である。
 シズクが考えを纏める時間をワービー達が与えてくれるはずがなかった。ひと際鋭く吼えると、そのうちの一匹が勢いよく飛びかかって来た。鋭い牙の迫力に気おされそうになるが、すんでのところで喉元に棒を突きつけていた。きゃうんという、犬のような悲鳴を上げてワービーは地面を転がって行く。
 「――――っ!」
 嫌な予感が全身を駆け巡り、無意識に地面を蹴って跳んだ。直後、ごぉっという音が耳元を通り過ぎる。同時に熱気も飛んできて、ちりちりとシズクの肌を焼いた。重い衝撃音と焦げくさい臭いが後方で上がり、振り返れば地面が黒く焼けただれているのが見える。
 (冗談じゃない!)
 直撃していたら地面の代わりに黒焦げになるのは間違いなく自分だった。ワービーの恐ろしさの真骨頂とも言える、口から吐き出される火炎球である。先ほど棒で跳ね飛ばしたのとは別の個体が放ったものだろう。
 どうしようとか何故とか、様々な事が頭に浮かんだが、悠長に考え事をしている場合ではなかった。反射的に走り出すと、またもや火炎球がそれまで居た場所を直撃する。振動に足を取られて若干もつれるものの、足を止めたらそれこそ終わりである。ワービーは立ち止まらないと火炎球を放てない。最も厄介な炎を退けるためには、彼らから離れるのが一番である。この場から動いてしまうのは得策でないと先ほど結論付けたが、もう既にそんな事を言っている場合ではなかった。とにかく必死で走るのみである。
 重い咆哮の後、直にワービー達もシズクの後を追い始める。知能が低い彼らとて、このまま動かずに居たらせっかくの獲物に逃亡を許してしまう事くらいは理解しているだろう。火炎球を吐く事を諦めると、素早く地を蹴る。獣と人間の足では、どう考えても前者の方が有利である。だが、シズクとしても他に策は見当たらなかった。リース達が気づいて助けに入ってくれるのを期待するしかない。
 疾走が少し続いたところで、後方の一匹が大きくジャンプしてシズクの目前へ躍り出る。そのまま跳びかかってくる所を、棒を横薙ぎにして跳ね飛ばす。だが、後方には残りの2匹が迫っていた。衣服が裂ける音と、少し時間をおいてから背中をぬるりと温かいものが伝う感覚がやってくる。同時に伝わる痛みと、異常な重量感。背中に跳びかかられたのだ。感覚だけでそれを認識するも、シズクには更に迫って来るワービーを棒で突く事が精いっぱいだった。後方に力をかけられて、無理な体勢で転倒する。
 「……っ」
 激しく腰と胸を打ちつけて、息が詰まる。こうなる結果は分かりきった事だというのに、情けなさで胸の中がいっぱいになる。魔物3体を相手にするには、明らかに自分は力不足。それを何とかするためにここまで来たのに、目的地を目の前にして自分は終わってしまうのだろうか。諦めの色が瞳に色濃く宿る。すぐ目の前で、鋭い牙をシズクの喉元に突き立てようとしているワービーが見えた。万事休すか。
 「――――!」
 覚悟を決めた瞬間、また強い風が周囲に吹き荒れる。いや、先程より更に勢いを増している。嵐さながらの勢いで吹き荒れる風は、砂埃と同時にシズクの焦げ茶色の髪も巻き上げて行く。かと思えば次の瞬間、突然に風は吹くのをやめた。恐る恐る閉じていた目を開けると、視界の先には何故かワービーは居ない。代わりに居たのは――まだ年若い女性の姿だった。

 「……は?」

 あまりの急展開に、シズクはただまぬけな声を上げるしかない。風が起こる前に自分を押し倒していたのは間違いなくワービーだった。だがどうだ。風が止んだ矢先、自分を押し倒しているのは明らかに人間の女性である。……まぁ、押し倒されているというより、無様な体勢で転がっているシズクに駆け寄っていると言った方が正しいだろうか。いやしかし、距離が近い。近すぎるのだ。紫水晶のような女性の瞳の奥まで見通せてしまう。
 「大丈夫か」
 クールな外見によく似合う、女性としてはややハスキーな声が届く。その表情は見事なまでに無表情だった。これだけ至近距離で見る無表情というのも、迫力があるものである。感情を宿さない瞳に見つめられ、シズクは思い切り怯んでしまう。
 「一応生きてはいるようだが、無事か?」
 「は、い。なんとか」
 はらりと、女性のピンクベージュの巻き毛が、重力に従ってシズクの上に降りてくる。こちらを見つめる紫の瞳が、更に接近してきて、危機を脱したというのにシズクの心中は決して穏やかとは呼べない状況に陥った。相手の体温が伝わってきそうなくらいの至近距離である。どうしたら良いのか分からなくなる程、熱心に見詰められて、こちらの方がどこに視線をやって良いのか分からなくなる。ややあってから、ようやく女性は気が済んだらしい。シズクから顔を離し、肩をすくめた。
 「これはまた、とんでもない成長を遂げたものだな」
 「えーと、何の事――」

 「お前ら……何やってるんだよ」

 シズクの言葉を割って入ってきたのは、聞き覚えのあり過ぎる声だった。声の主を確認しなくても分かるが、一応目だけそちらへ向けておく。案の定、視線の先には呆れ顔のリースの姿があった。その後方には、驚いた表情のアリスが居る。二人が放心するのも無理はない。傍から見た限り、若い女性がシズクを押し倒しているというのが現在の状況であるからだ。一瞬微妙な沈黙が一同の間に流れたが、アリスが二人の前に歩み寄ると、やや緊張した空気が舞い込む事になる。シズクを組み敷いた体勢のまま、女性は視線をアリスにくれる。紫水晶の瞳は薄く細められた。
 「……お久しぶりです、テティ。――テティ・リストバーグ」
 言って、深々とアリスは腰を折る。さらりと揺れる彼女の黒髪を見つめながら、シズクはというと驚愕を露わにしていた。
 「テティって……」
 アリスの口から放たれた名には聞き覚えがあった。そして間違いなくそれは、今自分の上に圧し掛かっている女性へ向けて放たれた。上を見上げると、彼女の方もまたシズクを見つめている。
 「東の森の魔女?」
 「いかにも」
 さも当たり前といった風に、淡々と女性――テティ・リストバーグは言い放つ。相変わらず表情は冷たいままだった。そこに感情はほとんど宿らない。唯一存在感を主張していたのは、テティの額にぴったりと納まる真っ赤な石だけだ。

 これが、東の森の魔女との出会いだった。



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