+ 追憶の救世主 +

 第11章(4)へ  / 戻る  / 第11章(6)へ


第11章「東の森の魔女」




5.


 「名前ってね、単純だけど、その人を形作る最も大きな要素の一つだと思うの」

 ぽつりと、アリスが呟く。それは、リースに語りかけているというよりは、ほとんど独り言に近いものだった。だから、リースの返答がなくとも、彼女は二の句を紡ぐ。
 「私がアリシア以外の何者でもないように、その名を呼ばれて育った人間は、その名以外の何者でもないはずなの。シズクはシズク・サラキスとして育って来たんだもの……ジーニア・ティアミストと呼ばれていた少女とは、同じ人間だけど、全く同一人物という訳でもないのだと思う」

 ――ジーニア・ティアミスト。

 聞き覚えのない名前は、確かにシズクの口から紡がれた。それを口にした時の、なんとも言えない彼女の表情と声が、今も頭から離れない。それらを振り払おうとして、上空を見上げた。今日はよく晴れている。真白な雲が、目に少しだけ痛かった。
 おそらくあれが、シズクがシズクになる以前の彼女の名前なのだろう。いつ頃から悟っていたかは分からないが、彼女がティアミストとしての名を口にするのを初めて聞いた。自分が全く知らない、赤の他人の名前を聞いたような気分だった。
 「ただ名前を知っただけなのに、自分でもびっくりするくらい、私ってば動揺しちゃってるのよね」
 それはリースも同じだった。表情では冷静を装っているが、内心かなり戸惑っている。
 「今までシズクがどうとかあまり意識してこなかったけど……ティアミストとしての名前を告げられると、あぁやっぱりそうなんだなって……否が応でも理解しちゃって――」
 「それでも、今のあいつは、シズク・サラキスだろ」
 アリスの言葉を遮って、比較的強めの声でリースは告げる。目を見開く彼女からは視線をそらして、すぐ前方に建つ小屋を見た。東の森の魔女であるテティの住み家である。シズクと二人で話がしたいとテティが希望したために、リースとアリスは今、外に出てきているのだ。魔女とシズクがどのような話をしているのか、想像もつかない。だが、シズクが過去の自分を取り戻そうとしている事だけは確かだった。
 ジーニアか、シズクか。今はそんな事を考えても仕方のない事だ。不安でないと言えば嘘になる。けれど、自分はシュシュの森で彼女と約束したから。この先誰が彼女を違う名で呼ぼうとも、自分が呼ぶ彼女の名前は絶対に変わる事はない。






 リースとアリスが退室してから、しばらくシズクはテティと話をしていた。他愛もない会話もいくつか交わしたが、リストンの森にシズクが至るまでの大まかな経緯の説明がほとんどの部分を占めた。
 菜の花通りでセイラと出会い、彼の旅に同行した事。自身の正体を知った上で、シズクがイリスピリア行きを望んだ事。辿りついたイリスピリアで、ティアミスト家の娘に向けられる視線は、必ずしも優しくはなかった。水神が下した神託が元で、シズクの存在がシズクの預かり知らぬ所で勝手に独り歩きしていく事になる。ルビーの強襲の後に、星降りを起こし、そして――魔力の暴走を経験する。
 それらを一通り話し終えた後、会話が途切れて急に部屋の中は静かになった。テティはただ椅子に座って黙り続ける。彼女から次にどのような言葉が飛び出すのか、シズクの体にも緊張が走り始めていた。

 「正直なところ、お主の望みがそっちで、心から安堵している」

 しばらくの沈黙の後、テーブルに置きっぱなしにされていたぬいぐるみのうち、猫を模したものを取り上げると、テティは何となしにそう告げてきた。シズクも、自身の手のうちに納まっているブタのぬいぐるみに視線を落とす。
 昔の自分を取り戻したい。そう決意するまでに、シズクなりにたくさんの紆余曲折があった。イリスを旅立った当初は、今とは真逆の願いを持っていたくらいである。星降りを起こして、自身の中にあるあまりに大きな魔力に触れた時、心の底から恐ろしいと思ったのだ。こんな力は自分の中に存在してはいけない。だから、魔女に願って、自身の魔力を全て無くして貰おう。確かにあの時はそう考えていた。
 テティの口ぶりからすると、リース達にすらなかなか打ち明けられなかったその願いを、どうやら彼女は全てお見通しだったようだ。窺うようにテティの顔を覗き見ると、紫水晶の瞳もまたこちらを向いていた。視線の先で伝説の魔女は小さく溜息をつく。
 「実はな、お主らがここに来るより随分と前にセイラから手紙を受け取っていた」
 「セイラさんから?」
 予想外の人物の名前に、シズクは目を見開いた。
 「セイラがイリスピリアに到着して間もない頃だと思う。……あやつは、お主の身を案じておったよ」
 テティの言葉を聞いて、胸が締め付けられる気がした。あのマイペースな水神の神子は、イリスピリアで元気に過ごしているだろうか。
 「近いうちにここへお主を連れてくるつもりだったらしい。セイラの代わりにリースとアリスが来ている所からして、状況は変化したようだがな……いずれにしても、お主を導いて欲しいと。そのように手紙は綴られておったよ。ティアミストやイリスピリアの問題は抜きにして、お主自身が一番納得出来る方法で、助けてやって欲しいとな」
 「…………」
 時期的に言って、セイラの手紙はシズクが星降りを起こすよりも前に出されていた物だろう。いつまで経ってもシズクの進退が決まらず、セイラからの連絡もほとんど皆無の中、自分はひょっとしたら見捨てられているのかも知れないと途方にくれていた頃だ。その頃の自分を叱り飛ばしてやりたくなる。セイラは自分を見捨ててなど居なかった。忙しさの中で蔑にしていた訳でもない。ちゃんとシズクの事を考えて、魔女へ手紙を送ってくれていたのだ。
 「セイラは勘が鋭い。お主がどのような願いを持つか、ある程度予想していたのやも知れぬな。それを承知の上でもあやつは、水神の神子という己の立場より、お主――シズク・ラサキスの意志を大切にしようとした」
 ぬいぐるみの猫耳をいじりながらテティが瞳を伏せる。ぎくりと体が強張るのが分かった。おそらく表情の方も硬いだろう。
 「……ティアミストの魔力。あれは規格外だ。人間が宿す魔力の範疇を超えておる。故に、無くしてしまいたくなる気持ちは分からなくもない」
 表情を強張らせるシズクに気づいていないふりをして、あくまで淡々とテティは言い放った。あぁ、この人は本当に全てをお見通しなのだと、シズクは思う。シズクが何も告げずとも、その心中を悟ってしまっている。
 「だがな、仮にお主がティアミストの魔力を捨てる事を望んでも、残念ながらそれは無理な話なのだよ」
 鋭くそうテティが告げた瞬間、それまで以上に部屋の温度が下がった気がした。
 「せいぜいわしからお主には二つの選択肢しか与えられなかった。今ここで死ぬか、この場でわしと共に隠遁者となるか」
 「…………」
 「生まれ持った魔力は、その者の運命。誰にもそれを捻じ曲げる事は出来ない。お主がティアミストの魔力から解放されたいならば、それは死をもってでしかありえぬ事」
 だから、シズクが選んだ結論がそちらでなくて本当に良かった。囁くように、テティは零す。あまり感情を宿さない彼女の瞳は、今は複雑な色彩を放っている。そのうちの一つは、安堵の色ではないかとシズクは思う。
 「……そっか」
 数瞬の沈黙の後、シズクの唇から零れたのは、そんな言葉だった。苦笑いを浮かべる。
 イリスを出る時、あそこまで固く決意した事は、結局叶わぬ願いだったのだ。ショックだったが、何となく分かっていた事だった。
 生まれ持った魔力というものは、所謂その人の資質と呼べるものであって、ある程度なら努力で増やせるものらしいが、根本的には変わらない。ましてや、手を加えて減らす事は出来ないと言われている。封印という手段で無いように見せかける事が精いっぱいで、完全に消し去ることなど不可能なのだ。だが、世界最高峰の魔女ならばもしやと、あの時のシズクは漠然とそのような事を思った。その思い込みに縋ろうとした。
 「もう、後戻りなんて出来ないんだよね」
 イリスでクリウスに言われた言葉を思い出す。あれが最後通告だったのだと。ティアミスト家の本質に触れず、その資質である魔力も封印されていたあの頃ならば、シズクは知らぬふりを出来ていたのかも知れない。ネックレスを捨てて、ティアミスト家の責任も捨てて、オタニアに逃げ帰る事も許されただろう。
 だが、シズクは知ってしまったのだ。あと戻りの出来ない、先へと進んでしまった。他ならぬ自分の意志で、だ。
 「逃げたいと思うか?」
 淡々とした声が届く。ピンクベージュの髪を揺らして、テティがシズクの顔を覗き込んできた。しばし見つめあったあとで、シズクは肩をすくめる。
 「そんな事ないって言ったら、それは嘘だけど」
 今でも、何も知らずに送っていたオタニアでの日々に戻りたいという気持ちはある。眠りに就いて目が覚めたら、隣のベッドにはルームメイトのアンナが寝ていたらいいのにと。望みとは異なる現実に、目覚める度に溜息を零しそうになる。でも――
 「何も出来ずに嘆くよりは、何かが出来る方がいい。そう思えるようにはなったから」
 後戻りがきかない道なのだったら、誰かに歩かされるよりは、せめて自分の意志で進んだ方がいい。闘っているのは自分だけではないのだ。シズクの事を助けてくれた人たちがたくさん居る。その人たちの背中を見て、今度はシズク自身も前を向こうと思ったのだ。
 「後悔するのは、まだ早いと思う。まずはこの状況をなんとかしないと何も始まらないもの」
 「…………」
 「お願いします、テティ。何かを出来るだけの力を、わたしに取り戻させて下さい」
 紫の瞳を真っ直ぐ据えて、告げる。テティが目を見開いたのが分かった。無表情が基本の彼女に、驚きが浮かぶ。
 部屋の中は一気に静けさを増した。ぴりぴりとした緊張感の中で、やがてテティはそれまで弄んでいた猫のぬいぐるみをテーブルの上に置いた。そして、小さく息を吐く。
 「……二つ」
 「え?」
 「お主には、二つの封印がかけられておる」
 指を二本立てて、テティはそのように言う。
 「一つはセイラだろう。お主の魔力を封じ込める封印。呪術師が用いるものだ」
 ゆっくりと、シズクは頷いた。暴走した魔力を抑え込むために、セイラはシズクに封印を施していた。胸元に印がある。これに関してはシズク自身認識しているものだった。だが、二つとは一体どういう事なのだろうか。セイラから施された封印以外に、もう一つ何かが自分の中にあるというのか。
 怪訝な表情のシズクの肩に、テティの手が乗る。目の前にある紫水晶の瞳は、こちらを向いてはいるが、どこか遠くを見ているようだった。心の中を覗き込まれているような、奇妙な気分になる。
 「もう一つは、古い封印だ。高度で綿密、その上強固。……だが、中途半端に外れかかっておる。施したのは、おそらく人間ではないな」
 「――――っ」
 びしりと、心の中に亀裂が入ったような感覚がする。一瞬、強い頭痛に襲われてシズクは顔をしかめてしまった。心臓の鼓動が早まる。何かとても大事な事を一瞬掴みかけたような、そんな気分だ。
 「ジーニア・ティアミストの膨大な魔力を封印していた魔法だよ。それが不完全に解き放たれたがために、お主の魔力は安定を維持出来ず、暴走した」

 ――この方法は正攻法ではないのです。

 星降りの晩の、パリスの言葉が突然頭の中に浮かぶ。この方法は無理やりなのだと、シズクの中に秘められているという魔力を解放する時、彼は複雑な顔をしてそのような事を言っていた。
 「魔力は極めて繊細なバランスの上に成り立つものなのだよ。中途半端に破られた封印から、ジーニアの魔力だけが解き放たれた。残りの部分――ジーニアの記憶の大部分は未だに封じ込められたまま、お主の中で眠り続けておる」
 「昔の、記憶……」
 鸚鵡返しのように呟く。そんなシズクを見て、テティはゆっくりと頷いた。
 「お主がセイラと出会うまでの12年間、シズク・サラキスとして生きてこられたのは、この封印のお陰だな。ジーニア・ティアミストとしての魔力と記憶を完全に封じられた娘は、既にジーニアにあらず。シズクという、一人の少女だ。ジーニアの魔力は記憶と寄り添うようにして大切にしまわれていた。……封印の不完全な解除は、その長年の均衡を破ってしまった」
 「…………」
 ずきずきとした痛みが胸を侵す。ジーニアもシズクも自分である事には違いないのに、両者は非なる存在というのもまた事実だった。シズクとして生きていくはずだった自分は、蓋が開かれた事で過去に触れてしまった。ジーニアというもう一人の存在を知ってしまった。
 ルビーと対峙して、過去の記憶を垣間見た直後から、魔法の制御が前にも増して苦手になっていた。イリス魔法学校に編入する時測定した自分の魔力は、それまでとは比べものにならない程跳ね上がっていた。それらは皆、兆候だったのだ。――でももう、後戻りは出来ない。
 「お主が望むお主になるためには、この封印を完全に解き放つ以外に道はあるまい。言うは易しだが、過去と向き合う事は決して容易な事ではない。……覚悟は出来ているか」
 問われて、一瞬怯むものの、すぐにシズクは頷いていた。封印を解いて、ジーニアの過去と向き合った時、自分が一体どうなるのか。考えても答えは出ない。だが、もう決めた事だ。
 「鍵となる言葉は二つ。一つは封印された者の名――ジーニア・ティアミスト。これを知り、認める事が第一段階」
 テティの細長い人差し指が、シズクの額に触れる。星降りの夜の、パリスとのやりとりと同じだった。だからシズクもあの時のように、静かに瞳を閉じる。ふらりとした浮遊感がやってくる。
 「そして二つ目は、封印を成した者の名」
 (封印を、成した者の名前……)
 ジーニアとしての過去を隠し、シズクをシズクにした張本人の名前。記憶の糸を手繰り寄せると、それは案外とあっさり見つける事が出来た。端からシズクの中に答えはあったのだ。封印を解く鍵となる、もう一つの名前。それは――

 「……カロン」

 繊細に輝く銀色の髪と、血の色のような真っ赤な瞳の人。魔族(シェルザード)と呼ばれる一族の、長とも呼べる人物。
 「――カロン・L・サード」
 もう一度はっきりと、その名を紡ぐ。閉じられた瞳では、テティの表情を確認する事は出来なかったが、彼女が僅かに息を呑んだ事だけは確かだった。だが、それを認識した直後には、浮遊感に意識が絡み取られて行く。眠りに落ちる直前のまどろみのような、ゆらゆらと揺らされているような気分。近くに感じていたテティが徐々に離れていく。
 「行っておいで」
 穏やかに告げられた声は、随分遠くで聞こえたような気がした。



第11章(4)へ  / 戻る  / 第11章(6)へ
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **