+ 追憶の救世主 +

 第11章(5)へ  / 戻る  / 第11章(7)へ


第11章「東の森の魔女」




 「お嬢さん、お名前は何と言うのですか?」
 黒髪の少年は、眼鏡の奥の瞳を優しく細めてそのように質問してきた。もじもじと、初めは母の背中に隠れながら様子を窺っていたが、彼が危険な人物ではないのだと判断すると、少女はゆっくりと歩み寄る。
 「ジーニア」
 幼女らしい丸い顔で、黒髪の少年を見上げる。闇色の瞳もまた、真っ直ぐに自分を見ていた。
 「ジーニア・ティアミスト」
 恥ずかしそうにはにかむと、少年は満面の笑みで応えてくれた。
 「そう、ジーニア……僕はセイラーム。よろしくお願いしますね」



6.

 「――――」

 誰かの声が聞こえる。それは酷く、懐かしい声だった。呼ばれているのだ。ふわふわとした浮遊感の中で、ぼんやり考える。ここは温かくて居心地が良い。

 「――――ン」

 声はしきりに自分を呼んでいるが、今はまだ、この場から離れたくはなかった。心地よいぬるま湯に浸かっていたい。もう少し、このまま――
 「ジーン! ジーニアッ!」
 「きゃぁぁっ!」
 すぐ耳元で、大音量でもって叫ばれたかと思うと、全身に激しい揺れを感じていた。びくりとして、一気に飛び起きる。突然視界が開けて、眩しさを感じて顔をしかめた。眼前には幼い少年の顔があった。自分と同じ焦げ茶色の髪と深い色の瞳。盛大に呆れを含んだ表情で、彼はジーニアを睨みつけている。見知った顔だった。
 「お、お兄ちゃん」
 「全然起きないから、死んでるのかと思った。……母さんが呼んでる。ご飯だって」
 妹の肩を掴んでいた手を離すと、そっけなくそう告げて少年は踵を返す。置いて行かれることに不安を覚えて、ジーニアはそれまで自分が座っていた椅子から慌てて立ち上がる。焦げ茶髪のツインテールを揺らしながら、今まさに部屋のドアノブへと手をかけている兄を追いかける。
 「まってよ!」
 そのままの勢いで、兄の背中にしがみ付いていた。必死の言葉はどうやら聞き入れてもらえたようで、その場で彼は立ち止まってくれる。だが、振り返ってこちらを見つめてくる瞳は決して優しくない。半眼でひと睨みされて思わずびくりとなるジーニアだったが、
 「……片付け」
 「え?」
 兄が右腕を伸ばして一点を指し示す事で、彼女もまたそちらへ視線を向ける。指さされた方には、自分がうたた寝をしていた椅子とテーブルがあった。その上には、彼女の枕代わりとなっていた本が一冊、広いたままの状態で置かれている。その周りにも何冊か、幼児が読むにしては少々分厚い本が散乱している。読書をしているうちに、自分は睡魔に襲われたのだ。何か夢を見ていたような気もする。内容は全く思い出せないが、随分と長い夢だった。
 「待っててやるから、片付けしてきなよ。散らかしたまんまだと、後で母さんに怒られるよ」
 「――――!」
 それは嫌だ。掴んでいた兄の服から手を離すと、ジーニアは慌ててテーブルの方に後戻りする。そうして散乱している本達を、綺麗に積み上げ始めた。最後に、うたた寝の直前まで自分が読んでいた本へと手をかける。広げられたページには、長い金髪をなびかせる美しい女性の姿が描かれていた。
 「……その本、好きだよな。いつも読んでるんじゃないか?」
 背後から兄の声が聞こえる。いつの間にか、彼は自分のすぐ傍まで歩いてきたらしい。ジーニアが片付けようとしていた本を取り上げると、まじまじと見つめ始めた。兄が持ち上げた事で背表紙が露わになる。金文字で『金の救世主伝説』と、本のタイトルは綴られていた。500年前に世界を救った偉大なる勇者、シーナ姫の冒険譚だ。お気に入りの本だった。繰り返し読んでは、大昔の壮大な物語に思いをはせるのが日課になる程に。
 「かっこいいんだもん。お姫さまが冒険して、わるい魔法使いをやっつけたんだよ」
 「格好良い……ね」
 瞳をきらきら輝かせる妹の顔を見て、兄は苦笑いを浮かべると同時に溜息を落とす。どこか物憂げなその様子が、ジーニアは気になった。
 「まぁ今のうちに夢を見ておけばいいさ」
 「? どういう――」

 「カイン、ジーン。何をしているんだい? ご飯だよ」

 扉が開く音と同時に、穏やかな声が二人にかけられる。兄妹同時に振り返って、声の主を視界に捉えと、背の高い、眼鏡をかけた優しそうな男性がドアノブに手をかけた状態でこちらを見ていた。髪の色も瞳の色も、自分たちと全く同じ。その姿を捉えて、ジーニアの胸は一気に切なさで締め付けられる。おかしいなと思う。この顔は、毎日と言ってもいいほど見続けている顔なのだ。何故ならこの人は――
 「父さん」
 兄であるカインが、正解を告げるように声を上げる。直後、視界が少しずつ彩を失っていく。父と兄が何事か言葉を交わしている。確かに昔あったはずの、家族の会話だ。ジーニアもそれに加わっているのだが、自分の意識は徐々にその場から離れて行った。また、浮遊感に襲われる。この人達の側にずっと居たい。そう思うのに、願いは聞き届けられない。真白な空間の中に、投げ出される。


 (――――)


 「――わよ! 降りれば……んでしょ、降りればっ!」

 また、声が聞こえる。初めは途切れ途切れに、徐々に鮮明に頭の中に響く。明るいトーンの少女の声だ。

 「あぁ! 動かれては危険です!」

 続いて、やや焦り気味の男性の声が意識の中に割り込む。どこかで聞いたことがある気がする。それも、つい最近の事だ。

 「今城の者を呼んできますので、そこで大人しく――」
 「うきゃぁっ!」

 (――――っ!)
 甲高い叫び声がして、ジーニアははっと意識を取り戻した。つい先ほどとは全く違う空気が自分の周囲にあるのを感じる。風が、焦げ茶髪のツインテールをかきあげていく。豊かな芝生と美しい花々が見える。ここはどうやら部屋の中ではない。
 見上げると、背の高い木の上から少女が盛大に足を滑らせて落下するのが見えた。小さな肢体が空中に投げ出される。緩やかなウェーブの金髪がなびいた。
 「こんの、馬鹿姉っ!」
 「リサ様っっ!」
 必死な絶叫が聞こえ、二人の人間が慌てて走り出す。このままではいけないと、ジーニアも思う。あまり時間は無い。あれこれ考え事をしている場合でも無かった。だから思いをそのままに、力ある言葉に乗せる。

 『――風よ(ロウヴ)!』

 ジーニアの呼びかけに、風の精霊は快く返事をくれた。落下する少女の周りに集まると、優しく彼女を受け止める。ぽーんと空中でバウンドした後に、金髪の少女は背の高い男性に受け止められていた。まさに危機一髪といったところ。
 ほっと胸を撫で下ろすジーニアに、突き刺さる視線が二つあった。一つは、金髪の少女を受け止めた男性の物だった。厳しそうな顔をした長身の男性。そして、もう一つは自分と同じ年ごろの少年の視線。
 「――――」
 鮮やかなエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、体中に奇妙な感覚が走り抜けるのを感じていた。金髪を短く切りそろえた、整った顔の少年。ジーニアにとって見覚えがあるはずないのに、どきりとすると同時に安堵感が胸に広がっていく。この気持ちは、一体どこから来ているのだろう。知らないのに、知っている。だって、こちらを驚愕の表情で見る彼は――
 「リー――」
 その名を紡ごうとしたところで、再びの浮遊感が体を包む。景色が一気に彩を失って、また意識が投げ出されていく。手を伸ばして必死に駆け寄ろうとするが、無理な話だった。少年の姿も、男性に抱えられる少女の姿も、白い靄にかき消されていく。


 (待って――)


 ようやく右足が動いたかと思うと、踏みしめた反動で、落ち葉がぱっと舞いあがった。景色はその瞬間色彩を取り戻す。だが、豊かな芝生も、咲き誇る花々もそこにはもう存在しなかった。あるのは無表情な森の木々達だ。また違う場所に来たのだと漠然と思う。ぼんやりと周囲を見渡すと、目の前に、小さな小屋が建っているのが見える。それを視界に入れてまた、どきりと胸が鳴る。
 「――――」
 徐に自身の右手を見ると、小さな可愛らしいぬいぐるみが抱えられていた。子ブタを模ったそれは、手造りだと言われて先ほど手渡されたものである事を思い出す。それを持って遊んでおいでと、母は言った。ここまで一緒に来た母は、ジーニアにぬいぐるみをくれた女性と共に小屋の中に入ってしまった。要するに、締め出しをくらった状態だった。そこまで思い出して、突然ムッとする。
 大人の話に口出ししては駄目なのだという事は、日頃から言われているので知っている。だが、母の言葉は好奇心旺盛な年頃のジーニアの前に無意味だった。締め出された事を不満に思う気持ち半分、もう半分はちょっとした冒険心が占めていた。
 あどけない足取りでかけて行くと、小屋の入り口を前にする。木で出来た扉に耳をあて、中の会話に耳を澄ます。

 「――で? ……どうするつもりなのだ、キユウよ」

 多少くぐもってはいたが、ハスキーな女性の声がしっかりと耳に届く。ぬいぐるみをくれた、クールな顔立ちの人のものだ。テティと、母はそのように彼女を呼んでいた。
 「決まっています」
 声の様子からいって、どうやら楽しい世間話をしているという訳ではないらしい。
 「直接ご覧になって、貴方もお分かりでしょう」
 「ジーニアの事か?」
 自分の名前が飛び出した事に、ジーニアの胸は跳ねていた。好奇心と不安がない交ぜになったような、独特の緊張感が体に走る。これ以上聞いてはいけない。心のどこかで警笛が鳴った気がした。しかし、もう片方の心がもっと知りたいとしきりに叫ぶ。好奇心を抑えられる程、ジーニアは年齢を重ねて居なかった。結果、その場から動かず盗み聞きを続ける事となる。
 「そうです。ですから、家督は全てカインに継がせようと思っています」
 「それが賢明な判断だろうな。あの子に家督は、気の毒過ぎる」
 「……せめてジーンには、ティアミストの名を背負わない道を歩ませてやりたいのです。それ以上に重いものを持って生まれてしまったから……だって、あの子は――」
 (だって私は、何?)
 どきどきと心臓の鼓動が早まる。冷や汗が背中を伝ったところで、突然肩を叩かれて飛び上がる程に驚いた。危うく悲鳴を上げてしまうところだったくらいだ。すんでのところで上げかけた声を飲み込むと、素早い動きで後方を振り返った。母達の会話は物凄く気になるが、目下、真っ先に確認しなければならないのはこっちの方だろう。すなわち、ジーニアの肩を叩いた人物は誰か、という事だ。
 「――――」
 「大人の話に、子供が立ち入ってはいけないわ」
 振り向いた先には、自分と同じ年くらいの少女の姿があった。肩くらいの長さで切りそろえられた艶やかな黒髪に、くりくりとした黒眼。お人形のように綺麗な顔立ちの女の子だ。目があって、ざわりと胸がざわめいた。初対面のはずなのに、自分は彼女の事を知っているような気がしたからだ。喉元まで何かが競り上がって来るが、それが言葉になる事はない。
 (悲しそうな瞳……)
 少女の瞳は、驚くほど冷たい光を宿していた。同年代の友達には、こんな風に儚げな表情を浮かべる子など一人も居ない。皆無邪気に笑って、ジーニアと共に野山を駆け回っている。だが、彼女は違う。風に吹かれたら一瞬でかき消えてしまいそうな、危うい空気を持つ子だった。
 硬直するジーニアの顔を、少女はまじまじと見つめてくる。
 「聞かない方がいいの。大人の話なんて」
 「……どうして?」
 純粋に浮かんできた質問を、少女に向けて放つ。何気ない言葉のつもりだった。しかし、黒髪の少女は一瞬酷く傷ついたような表情を浮かべて瞳を伏せてしまう。
 何故そんなにも悲しい顔をしているのだろうか。綺麗な子なのに。笑ったらきっともっと可愛いに違いないのに。まるで本物の人形のように、彼女は表情を和らげることはない。
 「聞いても聞かなくても、どうせ巻き込まれる時は一緒だから。せめて、悲しい思いをするのは一回だけにしておいた方がいいの」
 「?」
 首を傾げたところで、突然小屋の扉が音を立てて開かれた。思わずぎょっとするジーニアの目の前に、ピンクベージュの巻き髪が出現する。続いて、額に真赤な宝石を埋め込んだ、クールな外見の女性が顔を出した。
 「そんなところで何をしておるのだ。ジーン、アリス――」
 紫水晶の瞳は、少しだけ非難の色を乗せて二人の少女を見ていた。ぞくりと、体を衝撃が走り抜ける。こちらを半眼で見るテティを無視して、ジーニアはすぐ隣に立つ少女を視界に入れた。とても綺麗なのに、ちっとも笑わない子。何かを完全に諦めたような、悲しい瞳を持つ子。
 (アリス?)
 胸中でその名を紡ぐ。少女の方も、ゆっくりとジーニアに視界を向けた。その瞬間の事だ。真正面から目が合って、また奇妙な浮遊感に襲われる。一気に彩を失う景色を目にして、あぁまた離れなければならないのだと理解する。この少女の事をもっと知りたかったのに、どうやらそれは出来ないらしい。



 「――――」



 断片的に経験しては、景色は彩を失って、またあの浮遊感に襲われる。ひたすらにその繰り返し。ジーニアは懐かしい光景を転々とした。そのほとんどに、自分と周囲の笑顔があった。幸せな、満たされていた時間。だが何故だろう。時を追って行けば行くほど、心の中の不安が肥大していく。
 「誕生日おめでとう、ジーン」
 5歳の誕生日を迎えた時、家族が囲んだパーティーの場に居る事がとても嬉しいはずなのに、これ以上時が進まないで欲しいと、揺れるろうそくの火を見ながら本気でそう思った。この奇妙な旅をこれ以上続けると、何かとても悲しい事が待っている。足取りが重くなる。だが、拒絶するジーニアの願いは聞き届けられる事はなかった。時は止まってはくれない。流れるものだから。

 やがて、幸せな時間の先に待ち受ける絶望へと、旅路は至る――



第11章(5)へ  / 戻る  / 第11章(7)へ
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **