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第11章「東の森の魔女」




7.

 その日は、今にも雨が降ってきそうなどんよりとした空だった。

 湿気を含んだ重たい風が、焦げ茶色のツインテールをかき上げていく。いつ降りだすか分からないから今日は家に居なさいと言う母の言葉をきかず、ジーニアは買出しに向かう母にくっついてきていた。部屋で大人しくしている性分では無かったし、何よりも商店街の活気に満ちた雰囲気が好きだったからだ。威勢の良い客寄せの声があちらこちらに上がる。色とりどりの野菜や果物が目に鮮やかだった。この中から、今夜の食卓に上る食材が選ばれるのだ。
 (今夜の夕ご飯は何なんだろうな)
 そんな、のんきな事を考えていた時である。どおんと、地響きのような音が聞こえた。音そのものは遠くで発生したものだろう。小さく低く響いただけで、轟音という程ではなかった。けれども、不吉な音だった。耳にして、ジーニアの背筋をさっと冷たいものが這い上る。
 周囲を見渡すと、先程と変わらぬ市場の賑やかさがあたりを包んでいた。皆、一瞬聞こえた音に何だろうと動きを止めたくらいで、すぐに日常が回りだす。心配する事はない。自分にそう言い聞かせて、ジーニアは心を落ち着ける。だって皆、何も気にせずにしているじゃないか。
 「――――」
 だが、突然強く握られた手に体を強張らせる。不安げに上を見上げると、自分の手を引く母の顔を視界に入れた。美人で憧れの母は、今は痛いほど真剣な表情を浮かべている。こういう顔をする母を、ジーニアは時々見て知っていた。魔道士と呼ばれる仕事をする時の顔だ。
 「お母さ――」
 「帰ろう、ジーン」
 それだけ言うと、ジーニアの返事も聞かずに母は早足で歩きだした。手を引かれていたジーニアは、咄嗟の事でこけてしまいそうになる。必死で体勢を立て直すと、母の横に並んだ。どうしてと首を傾げる。買い物はまだ終わっていないはずだ。それどころか、何も買っていない。母はつい先ほどまで楽しげに八百屋の店員と話をしていたのではないだろうか。
 商店街を抜けた頃には、いい加減息も切れてきていた。けれども母は、進む速度を緩めたりはしない。何かから逃げるように、無言で歩き続ける。
 「お母さん、ちょっと待って……っ」
 パステルカラーのアーケードを潜り、いつもそうしているように空を見上げた瞬間の事だ。どおんと、今度ははっきりと音を聞いた。それだけではない、音は振動も伴ってジーニアの体に襲いかかる。心臓を鷲掴みにされたような、奇妙な感覚だった。直後、たくさんの悲鳴が空気を切り裂く。
 慌てて後ろを振り返ると、それまで自分たちが居た商店街は無残な姿を晒していた。賑やかだった市場の多くは焼け焦げ、潰れた野菜や果物が地面に転がる。否、転がっているのは商品だったものだけではない。真っ黒に焼け焦げたあれ(・・)は――
 「振り返らないで。前だけ向いて走りなさい!」
 放心するジーニアの耳に、いつもより随分厳しい母の声が届く。頭の中を真っ白に塗りつぶされたみたいな気分だった。今、自分が見たものは一体何だったのだろう。何が起こっているのだろう。理解出来ない。
 「こんなに早く見つかるだなんて……まさか――」
 独り言のような母の呟きも、ジーニアには全く理解する事が出来なかった。唯一、町に恐ろしい事が起こっている事だけは分かった。振動を伴う重たい音がいくつか響く。生ぬるい風が吹いて、焦げくさいにおいをこちらに運んできた。

 「キユウ・ティアミスト様ですね」

 困惑して逃げ惑う人々の悲鳴を割いて、その声はまっすぐこちらへ飛んできた。初めて、母が足を止める。
 声の主は、通りを挟んだ建物の前に居た。乳白色のローブに身を包んだ銀髪の女性である。綺麗な顔立ちの人だった。けれども、どこか冷たい印象も受ける。こちらを真っ直ぐに見据える瞳は、夜の湖面を思わせる深いブルーだ。
 「……魔族(シェルザード)の者ですね」
 硬質な声は、母だった。普段の優しい印象とは程遠い。まるで別人のような声だ。自分と同じ色の瞳を吊り上げると、母は乳白色のローブを纏った女性を睨みつけていた。こつんと地面のタイルを鳴らして、女性はこちらへ一歩、歩みを進める。ジーニアを庇うように、しなやかな右手が目の前に広げられた。
 「我々の目的は、お分かりでしょう。寡黙なる左腕(ミクラテ・イノジク)を渡して頂けませんか」
 かなり近くで轟音が響く。右向かいの建物が火を吹いて、窓という窓から人が降っているのが見えた。空の色が、燃えている。夕方でもないのに、真っ赤な色が視界に広がる。
 「渡すだけでいいのです。そうすれば、すぐに我々はこの町から手を退きます」
 「お断りします、と言ったら?」
 「その時は、残念ですが――力づくでねじ伏せるまでです」
 ばっと、女性が右手を広げた時だ。真っ赤な光がジーニア達を狙って真っ直ぐに飛んでくる。感じた事がない程の悪意が、その光には込められていた。

 『――氷よ(レイシア)!』

 確実に狙いを定めた光は、ジーニア達にぶつかる前に、後方から飛んできた氷に阻まれ、はじけ飛ぶ。熱と氷がぶつかって、蒸気が周囲に飛散した。じとりと、一気に湿度が増す。
 「キユウ、ジーン、無事か!?」
 突然の状況変化に付いていけず、目を白黒させるジーニアの目の前に二人の人影が現れた。無骨な顔をした男性と線の細い女性だ。見知った顔だった。ジーニアにとってそれは伯父と伯母にあたる人物だったからだ。状況から判断するに、先ほどの魔法は、伯父の方が放ったのだろう。
 一族が魔道士の家系である事はジーニアもなんとなく知っていた。しかし、彼が魔法を使う姿を見たのはこれが初めての事だった。いや、彼だけではない。周囲を見渡せば、町人の格好をした者たちの多くが、魔法を行使して建物の消火活動を行っているのが見える。何者かと戦う者も居た。小さな町なので、町人の多くは知り合いだった。けれども、そのほとんどが魔道士であったとは、ジーニアは知らされていない。自分の目の前に広がる光景が信じられなかった。だっておかしいじゃないか。花屋のお姉さんも郵便配達のお兄さんも、魔法なんて使わない。使う必要が無い。これは夢だ。現実じゃない。必死に心の中で否定を繰り返す。
 「ここは私達に任せて、貴方達は行きなさい!」
 伯母は、叫んだ直後には呪文の詠唱に入っていた。悲痛な顔で頷いて、母はジーニアの手を引き走り出す。よろめく足を無理矢理奮い立たせ、ジーニアも走った。
 「させません――『衝突(アッシュ)!』」
 『火炎よ(レイヴ)!』
 逃げるジーニア達を追撃するように放たれた魔法は、伯母の魔法によって打ち砕かれた。魔法同士がぶつかり合ってけたたましい破裂音が鳴る。後方を振り返ってはいけない。まっすぐ走らなければ。先ほど母に言われた言葉を、ジーニアは頑なに守ろうとした。振り返ったら、これ以上走れなくなってしまいそうだから。伯父と伯母の無事を心の中でだけ祈る。
 「逃げても無駄ですよ、キユウ様。あの方は、必ずティアミスト当主の首を求め、貴方の前に現れます」
 走り去る背中に向けて、冷たい声が突き刺さる。まるで呪詛でも吐くような女性の言葉が、たまらなく不吉だった。



 その後、街路を一体どう走ったのか。
 母に手を引かれるがままに、ジーニアは無我夢中で走り続けた。乳白色のローブの連中は、あの女性以外にもたくさん居るようである。ある者は魔法で、ある者は剣で、彼らの誰もが例外なく、この町に危害を加えていた。そして、彼らに立ち向かって戦う町人の多くは魔法を行使していた。
 寒くもないのに体の震えが止まらない。走りながら、涙目で町の様子を見る。どこを見渡しても酷い状況である事には変わりは無かった。よく友達と遊んだ公園の噴水も打ち砕かれ、その周囲に血を流して倒れる人の姿がたくさん見える。瓦礫の下敷きになった人もいた。魔法で焼かれた人もいた。年寄りも子供も関係なく、突然の惨事に巻き込まれている。
 「お、お兄ちゃんとお父さんは?」
 ようやく出た声は、酷く震えていた。家で自分たちの帰りを待っていたはずの兄と父の事が気がかりだった。だが、この騒ぎでは彼らに会う事はかなわないだろう。それどころか、生きているかどうかも分からない状況だった。ひょっとしたら、もう――
 「お父さんが付いているから、カインはきっと大丈夫」
 最悪の想像が浮かんだジーニアの心に、芯のある声が響く。母は、潤んだ瞳で力強く告げたのだった。きっと大丈夫。ジーニアは強く自身に言い聞かせる。自慢の母がそう言うのだから間違いない。
 「でも」
 赤い空を見上げて、次に聞こえた母の声は、少しだけか細かった。
 「時間が、無いわね……」
 「――――」
 ぞくりと、心臓が震える。
 (嫌――)
 原因の分からない不安が纏わりついて離れない。それどころか、益々肥大化していって重さを増した。冷や汗が背中を伝う。これ以上は駄目だと、心の中の何かが悲鳴を上げた。
 「ジーン」
 いつの間にか母は、歩みを止めていた。金色に近い土色の髪が翻る。独特の色彩を宿した青い瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていた。決意を込めた、強い光が宿る。真剣な顔をした母は、ぞっとするくらい美しかった。
 (嫌だ、嫌だ……っ!)
 時間が止まって欲しい。これ以上進ませないで欲しい。絶望的な気持ちになって、ジーニアは心の中で叫んでいた。この光景は駄目だ。もう母の言葉を聞きたくない。この先には、悲しみしか待っていない事を、自分は知っている。
 「大丈夫よ」
 違う。大丈夫じゃない。首を振って否定しても、時は止まってくれはしなかった。
 「お母さん」
 「大丈夫だから」
 言い聞かせるようにして、母はジーニアの頭を撫でた。涙が溢れ出る。何の涙なのか、もう分からなかった。轟音が響く中、無我夢中で母にしがみ付き、思い切り母の香りを吸い込んでいた。優しい匂いに余計に涙が零れる。悲しいやり取りだ。
 「首都のイリスに向かいなさい。これを見せたら力を貸してくれるはずだから」
 ほら、また母はその言葉を紡ぐ。
 「本来は、カインに託すべきなのだろうけど……」
 シャランという繊細な音と同時に、ひんやりとした感覚が首に走った。母の手によって銀のネックレスがかけられる。もうこの冷たさを思い出すのも一体何度目だろう。受け取りたくなんて無かった。だってこれは、母が持っているべきものだから。幼いジーニアにはまだ早いと、ほかならぬ母自身が言っていたものではなかったか。
 「さぁ、走って!」
 背中を勢いよく押され、ジーニアは駆け出していた。零れる涙をぬぐう事もせずに、夢中で走る。振り返っては駄目だと何度も言い聞かせた。後戻りをしてはいけない。自分は母から大切な物を託されてしまったから。走って走って、首都のイリスに向かうのだ。そうして王様に会わなければいけないのだ。
 燃え上がる建物の間を泣きながら走り続ける。胸が痛い。だけど止まる事は許されない。走らなくてはいけない、走らなければ――

 「きゃあっ!」

 まともに前を向いて走っていなかった。だから、何かにぶつかってしまったのは道理だろう。全身に衝突の振動が走った直後、成すすべなくジーニアはそのまま地面に崩れ落ちる。こけた拍子に膝を盛大に擦りむいてしまった。涙と埃にまみれて、もう無茶苦茶だ。余計に涙が溢れる。

 「ねぇ、どうしたの?」

 痛む膝を抑えながら、ジーニアは割と素早い動きで立ち上がっていた。そんな彼女の耳に涼やかな声が届く。破壊の場に全くそぐわない、純粋で綺麗な声だった。
 「――――」
 目を見開くジーニアの視界に銀色が踊る。心配そうな顔でこちらを覗きこんでいたのは、乳白色のローブに身を包んだ子だった。驚くほど綺麗な顔をしている。一瞬女の子かと思ったが、服装と喋り方から言ってどうやら男の子であるらしい。星屑をまいたような銀髪に、湖面の色を思わせる青い瞳が印象的だった。
 何もかも忘れて、ジーニアは一時放心して立ち止まる。
 「君は……」
 こちらを真正面から見つめる少年の顔がある時突然引き締まったのを見てハッとなる。彼の視線が、胸元に光るネックレスに向いていたのは気のせいだろうか。
 「え?」
 直後、すぐ近くで轟音が響いた。ぶち抜かれたのは、目の前の建物だったらしい。大量の瓦礫が間上から降って来る光景を、半ばぼんやりと眺めていたジーニアだったが、少年が咄嗟に手を引いてくれた事で難を逃れられる。瓦礫が地面にぶつかってはじける音と同時に激しい震動が届く。同時に舞い上がった埃や塵は、少年がジーニアを抱きくるめてくれたので彼女を襲う事はなかった。
 「時間が無いね」
 地面の揺れが完全に収まった後、ジーニアを抱く力を弱めて少年はそのように告げる。妙に大人びた声だった。そういえば、先ほど別れた母も、確かそのような事を言っていた気がする。町の破壊は際限なく続いている。壊滅するのは時間の問題。幼いジーニアにも、それは痛いほどによく分かった。
 「いやだ……」
 大好きだった町が、人たちが消えていく。昨日まで当り前にあったものが、今は跡形もない。その事を認めたくなくて、これは夢であってほしくて、気がつけばぽつりとそんな言葉を零していた。震えが止まらない。涙も止まらない。
 「いやだ、なんでこんな……っ」
 「…………」
 少年は黙って身をかがめると、泣きじゃくるジーニアと視線の高さを合わせてくれた。深いブルーの瞳は、すうっと薄められる。涙で歪んだ視界は定かではなかったが、今にも泣きそうな顔をしているのではないかと思った。
 「僕に付いてきてくれる?」
 「――――」
 そっと肩に、温かい手が触れる。泣く事を一瞬忘れて、きょとんとした顔で銀髪の少年を見る。
 「どんなものからも逃げられるところへ、連れて行ってあげられる」
 それはまるで、悪魔のささやきのような言葉。けれど、誘惑しているにしては、彼の声は純粋で真剣過ぎた。そして何よりも優しかった。
 「でも、私はイリスへ行かなきゃ」
 そう、母と約束したのだ。ネックレスを持って、自分は王様に会わなければいけない。そして助けを求めなければ。
 必死で言うジーニアの目の前で、少年はやんわりと首を左右に振る。絹糸のような銀髪がさらさら揺れた。
 「首都へ向かうより、君は身を隠した方がいい。悲しい連鎖の渦から抜け出した方がいい」
 「でも――」
 「悲しみを閉じてあげる。これ以上辛い思いをしなくて済む」
 もう泣かなくて良くなる。そう言って少年は、真剣な顔でジーニアを見た。真正面から見詰める青い瞳は、どこまでも澄んでいて、美しかった。
 「さあ、付いてきて」
 言って、自分よりは少しだけ大きな手を差し出してくる。
 「…………」
 手を取るかどうか、しばらくの間ジーニアは躊躇していた。その間も轟音と悲鳴はやむ事なく続く。こうして迷っている間にも、驚異は自分の元へやってくるかも知れない。
 (悲しいことが、なくなる?)
 見開いた目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。枯れる程泣いても、状況は全く変わる事はなかった。大好きなものたちが壊れていく。それを止める事は出来ない。
 (もう、泣きたくない)
 そう願った瞬間、小さな手でジーニアは少年の手を取っていた。安堵したような、それでいて少しだけ切なそうな顔で少年が笑う。
 「こっち」
 言うが早いか、少年はジーニアの手を引いて走りだしていた。大混乱に陥った町に、幼い少年と少女の影が落ちる。
 真っ赤な空は、いつしかくすんだ鉛色が混じるようになっていた。重苦しい雲からぽつりと、割れたタイルの上に水玉模様が落ちる。雨が降り出したのだ。



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