追憶の救世主

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第1章 「聖女の面影」

2.

 早朝の中庭に、風を切る音と、時折固い物同士がぶつかり合う音が響く。聞きなれた者ならば一瞬でそれが、剣を打ち合う音である事に気づくだろう。だが、早朝であるが故に、気づく者は居ない。
 朝日が上ったばかりの庭に、二人の影が落ちていた。淀みのない動きで、両者は剣を打ち合う。戦況は拮抗状態。それはまるで演武のような安定感。どちらも一歩も譲らぬ動きで、互いに速度のある一撃を打ち出していた。永遠に続くかに思えた打ち合いだったが、ひと際早く空気を切り裂く音と共に、唐突に決着を迎える。
 「大分腕を上げられましたな」
 息を切らしながら言ったのは、ネイラスだった。薄茶色の前髪は、所々汗が滲む額に張り付いて居る。右手に剣は持っていたが、左手は降参を示す意味で頭の高さに挙げられていた。
 「それは盛大な嫌味と取っていいか?」
 ネイラスの眼前に突きつけていた剣を引きながら、渋い表情で言ったのはリースだ。彼もまた、肩を上下させている。
 「嫌味などではありませんよ。確実に3回に1回は私から勝ちを取れるようになったのですから、目覚ましい進歩です」
 それを嫌味と言わずしてなんと言う。にやりとした笑いを浮かべるネイラスを見て、リースは胸中でそう毒づいていた。
 「本当ですよ。何よりも、『右腕』を暴走させる事なくこれほど打てるようになったのですから。……最初、稽古をつけて欲しいと言ってこられた時はどうなる事かと思いましたが、その成長ぶりには関心するばかりです」
 「それはどうも」
 ネイラスが剣を収めた事で、リースもそれに倣う。時間も時間だし、そろそろ終了という訳だろう。
 リースがイリスに帰還して、およそ一月が経過していた。帰ってきたその足で、ネイラスに剣の稽古を付けてくれと頼み込んだ訳だから、彼との手合せを始めてからの期間も一月という事になる。稽古はネイラスの仕事に支障が出ない時間帯にと決めてあった。リースにしても国立学校に通学しなければならないので、必然的に日が上る前の数時間がそのための時間として割り当てられた。ほとんど毎日リースとネイラスはこのようにして剣を合わせている。
 この一月の間、それ以外にも様々な事があった。
 「近々また、会議が行われるみたいですよ」
 会議という部分をやけに強調して、ネイラスは告げてくる。12大臣として日頃忙しく走り回っているネイラスは、会議の席につく機会も数えきれない程多いだろうが、彼がこんな風にして告げてくる『会議』は一つだけだった。――魔族(シェルザード)絡みの話し合いだ。この一月のうちに、リースの身辺を大きく変えたものの一つである。
 決まって夜に開かれるその話し合いの席には、イリスピリア王や12大臣の幾人か以外に、必ず出席している人物が何人か居た。水神の神子セイラがその一人。リースもまた参加者の一人だった。そしてもう一人――
 「ジーニア・ティアミストが救世主らしい。……そのような噂が、城内に出回り始めているようです」
 次なるネイラスの言葉に、リースは眉間にしわを寄せた。その名も、この一月の間に嫌という程聞いたものだ。一人の少女の名前であるそれは、数週間前イリスピリア王の言葉で出された声明によって、人々の間に急速に広まった。
 「イリスピリアに、ジーニア・ティアミスト有り。ねぇ……」
 表向きは民衆に向けて、真の目的としては魔族(シェルザード)達に届けるため、父が声高に宣言した言葉を呟いて、リースは肩をすくめる。あれだけはっきりと名前を告げたのだ。城内でそのような噂が立つのは特別驚く事ではない。東部の混乱は悪化の一途を辿り、加えて魔族(シェルザード)側からと思われる意味深な声明文。イリスピリア国民だけではなく、世界中が戦々恐々としているというのが現在の状況だった。不穏な空気が流れ始めた世の中で、勇者シーナのような存在を誰もが望んでしまう。その中で湧いて出てきた存在が、ティアミストだ。人々が『彼女』を救世主と言いだす気持ちも分からなくはない。
 「シズク様は大丈夫なのでしょうか?」
 「さぁ、本人としちゃバレなきゃ大丈夫って思ってるみたいだけど? 例えバレそうになっても、あの調子じゃシラを切りとおす気だよ」
 仲間である焦げ茶髪の少女の姿を頭に浮かべながら、気だるそうにリースは言った。
 ジーニア・ティアミストとは、勿論の事シズクのもう一つの名前である。イリスに帰還した彼女は、表向きは再びイリス魔法学校に編入して魔道を学ぶ日々を送っている。だが、それと同時に、ジーニア・ティアミストというもう一つの名前で、リース達と共に話し合いの席についているのだ。立場としては、ティアミスト家の当主代理といったところ。救世主という訳でもなければ、光でも闇でもない。あくまで、魔族(シェルザード)との因縁ある一族の一人として、会議の席についている。……尤も、本当にそれだけだと思っている者は、話し合い参加者の中では少数派かも知れない。
 「リース様の変化にも驚かされましたが、シズク様が声明の件を了承された時、私はひっくり返るかと思いましたよ」
 つい数週間前のやり取りを思い出したのか、苦笑いを浮かべてネイラスが言う。まぁそれはそうだろうと、リースは胸中でこぼしていた。
 イリスを旅立つ前と後とで、シズクの姿勢は180度ひっくり返った訳だ。あの父ですら、そんな彼女に初めは絶句していた。それまで頑なにティアミストである事を拒絶していた彼女が、自らをティアミスト家の魔道士だと認めたのだ。シズクと共に旅立たなかった者の多くの目には、それはいわゆる開き直りだと映っただろう。それだけ、今現在のシズクは、少なくとも表面的には飄々としている。表情に影が落ちる事もない。だが、それらが全て、散々悩んだ末の覚悟だとリースは知っていた。何でもなさそうな顔で事態を受け入れているが、シュシュの森で見せた涙こそがシズクの本心だと、リースは思う。
 「シズク様は強くなられたと思いますよ。けれども、彼女が堂々と振る舞えば振舞う程、そこに危うさも感じるのです」
 薄茶の瞳を細めて、ネイラスが呟く。彼の隣で、リースもまた小さく頷いていた。






 「ジーニア・ティアミスト? 誰それ?」

 怪訝な顔でジャン・ストライフは声を上げていた。首を傾げて、目の前に立つ人物を見る。自分と同じ紺色のローブに身を包んだ少女が3人、目をらんらんと光らせてこちらを見つめているというのが現在の簡単な状況説明。いずれも違うクラスの子達だった。場所は、始業前の教室である。
 「ジャンも知ってるでしょう? 国の重要会議に顔を出している少女が居るって噂」
 「もちろん知ってるけど、それとシズクがどう関係あるって訳?」
 つとめて淡々と告げる。ジャンの言葉に少女達は僅かにうろたえだしたようだ。貴方が言いなさいよいいや貴方がと、互いにこそこそと何かを押し付けあっている。だがやがて話はまとまったのだろう、真ん中のボブカットの少女が前に歩み出ると、彼女はこう告げたのだった。
 「だから、その……シズク・サラキスがジーニア・ティアミストじゃないのかって事よ」
 ああまたかと、胸中でジャンは零していた。最近この手の質問を受ける事がやけに多いのだ。
 「王様の声明は知ってるでしょう。ジーニアっていう名前の人物が現れたって事も。それが一体誰なのか、城内はその話でもちきりよ」
 「彼女、リース王子とも親しいみたいだし、再編入した途端、絶妙なタイミングであの声明でしょう?」
 「なるほど、それでシズクがねぇ……」
 ボブカットの少女以外の二人が口々にそう説明するのを聞いて、ジャンはわざとらしく頷いてみせた。この手の質問をされる度に決まって行うことだ。
 「ジャンってシズクと仲が良いじゃない。彼女から何か聞いてないかなぁと思って」
 言って、ボブカットの少女が顔を寄せて来る。濃いブラウンの瞳には、好奇心の3文字がありありと見てとれた。右手でそばかすだらけの鼻頭をかきながら、ジャンはさてどうしたものかと考える。彼女らの期待する答えなどもちろん自分は持ち合わせていないし、たとえ持っていたとしてもそう易々と話したりはしないだろう。だが、こと噂話となると、女の子というのは非常に厄介な存在なのだ。思いもかけないところで墓穴を掘る訳にもいかない。どうやってこの話を収めよう。

 「シズクが救世主かも知れないだなんて、随分ぶっとんだ意見よね」

 思案していたジャンの耳に、鈴を転がしたような声が届く。はしばみ色の瞳を声のした方へ向けると、そこにはよく見知った少女が両腕を組んだ状態で立っていた。ミレニア・エレスティンこと、ミレニィである。魔道士の名門貴族家系に属する彼女は、その可愛らしい容姿も相まっていろんな意味で有名人である。ミレニィの登場に、ジャンに詰め寄っていた少女たちは大いに怯みを見せた。
 「シズクのどこがそう見えるっていうのよ。この前の小テストも、私の方が成績良かったわよ?」
 「いや、それはシズクのせいじゃなくて、君の成績が良すぎるだけだよ。ミレニィ」
 「うるさいわよジャン。救世主になるような人物だったら、私に負けてちゃ駄目じゃない」
 こちらに歩み寄って来ると、ミレニィはしかめ面でそう反論してくる。いやしかし、本当の事である。クレア程ではないが、ミレニィはかなり優秀なのだ。学年順位も常にトップクラスを維持しているし、この前の小テストに限っては確か学年1位だった気がする。彼女を追い抜かすのはなかなかの難題である。というかそもそも、救世主の要件に小テストの成績が関係するものなのか、かなり疑問だ。
 「まぁ、成績の話はともかく。あなた達、そんなに気になっているのなら、ジャンじゃなくて直接本人に訊ねてみたらどうかしら? ――ねぇ、シズク?」
 噂をすればなんとやらだ。ミレニィの背後から、新しい声が舞い込んでくる。落ち着いたトーンの声は、聞き間違えるはずはない。顔を向けると案の定、そこにはブラウンヘアを丁寧に三つ網にした、眼鏡少女が佇んでいる。クレア・アリーヌ。ジャンの友人だ。更に彼女の背後には、今まさに渦中の人であるシズク・サラキスの姿があった。
 焦げ茶髪のポニーテールに、深い青色をした瞳。美人というよりは可愛らしいという印象を受ける少女は、クレアの背後からきょとんとした表情でこちらの状況を見つめている。紺色のローブに袖を通した彼女は、一般の魔法学校生と何ら変わらない。本当に一人の、ごく普通の女の子だった。
 「あ、えっと。その……」
 しかし、3人組の少女たちは当事者の登場に明らかに顔色を変えた。未だよく分かっていない表情で首を傾げるシズクを前に、大いにうろたえだす。
 「や、やっぱりいい! この話、聞かなかった事にしておいて!」
 やがて、ボブカットの少女が大声でそう告げると、3人組はそそくさとその場をあとにした。脱兎のごとく生徒達の間をすり抜けて、教室を出て行く。ジャンはのんびりと彼女らの後姿を見送っていたが、ふんっと不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえて、そちらへ視線を向ける。ミレニィだ。
 「まったく! 向かってくるなら真正面から来なさいよ」
 腰に手を当てると、少女たちが出て行った方のドアを睨んでいる。相当ご立腹のようだ。怒りっぽい幼馴染に苦笑いが零れるが、ジャンとしても正直そろそろうんざりしてきたなと思う。
 ジャン達がこのような状況に遭遇するのは初めてではなかった。特にここ1週間は、様々な状況で色んな人から質問を受けた。シズク・サラキス=ジーニア・ティアミストなのではないのか、と。しかしその反面、シズクに対して真正面からその質問をぶつけた者は皆無である。まぁ当事者を前にして露骨な質問など出来る訳ないだろう。人として当然の心理だ。自分がその立場であったとしても、同じ事をするのだろう。
 ちらりと、シズクの方を見た。彼女もまた、こちらに歩み寄ってきながら視線をこちらへ向けてくる。
 「ごめんね、ジャン」
 言って、彼女の顔に浮かんだのは申し訳なさそうな苦笑いだった。こういう風にして彼女から謝られるのも何度目になるだろう。
 「気にしないでよ。厄介な噂だけど、きっと皆そのうち飽きるし」
 「うん、本当にごめん……」
 二度目の謝罪は、幾分憂いを帯びていた。細められた瞳が、ほんの一瞬だけ曇る。噂に振り回してしまってごめん。その意味ももちろんあるだろうが、彼女のごめんにはもう一つの意味が込められているような気がする。
 本当を言うと、ジャンも他の生徒達と同じ事を考えていた。いや、生徒達が噂をするよりもっとはっきりとした確信を持って、その通りなのだろうと思っている。
 シズクがイリスを発つより少し前、彼女と一緒に図書館で調べ物をした事があった。展示室のトロフィーに刻まれていた名前の人物について、彼女は知りたがっていたからだ。その人物の名は、キユウ・ティアミスト。それらの事を思い出した瞬間、自然と結論は導き出されていた。だが――
 「シズクはシズクだろう?」
 きょとんとした表情を装って、ジャンはシズクに告げていた。
 ジーニア・ティアミストが救世主。それがどうしたというのだ。シズクが自身の事をシズク・サラキスだと言っているのだから、ジャンにとってもそれは同じだった。彼女がイリス魔法学校で望んでいるのは、普通の学園生活だ。そう思うからこそ、ジャンは気付かないふりを続けている。
 「まぁ、今後もしまたイリスを出て行くような用事が出来たとしてもさ。僕らが誤魔化しておいてあげるから。安心してよ」
 にやりとした表情で言った後、傍で佇むクレアとミレニィを見た。彼女らもまた、自分と同じような顔で笑っていた。おそらく、ミレニィ達も自分と同じ事を思い、同じことを考えているのだ。
 「ありがとう」
 しばらくの沈黙の後、困ったような苦笑いと共にシズクが告げる。丁度その時だ。マリーヌ教官が出席簿を携えて教室に入ってきた。皆を席につくよう促し、きりりとした表情で教壇に立つ。一瞬ざわざわとなる教室も、すぐに緊張感ある沈黙に包まれ始めた。今日もまた、授業が始まる。いつもと同じ日常が流れていくのだ。



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