追憶の救世主

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第1章 「聖女の面影」

5.

 師匠であるセイラに呼ばれた時、どうせいつものように無理難題を自分に押し付けてくるとか、気分転換にお茶でも淹れてくれとか、そういった話が展開されるものと思い込んでいた。だから、特別緊張も警戒もせずに彼の自室まで付いて行った。セイラがいつになく深刻な表情を浮かべているのも、連日に渡る会議の疲れからくるものだと思った。想像もつかなかったのだ。これを手渡されるまでは。

 「…………」

 それは、花の模様が散りばめられた白色の上品な封筒だった。一目見た瞬間に、祖国エラリアからの物だと分かる。
 花の紋章の封印を開けると、同じ模様の便せんが2枚現れた。ふわりと、香水の匂いがする。一枚は形式ばった堅苦しい文面の手紙。そしてもう一枚は、見覚えのある筆跡で綴られる柔らかい文だった。けれど、そのどちらもアリスの表情を緩ませる事は無い。無表情でそれらの手紙を読み終えてから、丁寧に封筒にしまい、そしてテーブルへと置いた。長くて細い溜息が零れる。
 「……どのような内容でしたか?」
 「師匠の元にも手紙が届けられたのでしょう? ……同じですよ、きっと」
 穏やかなセイラの声にも、今はそっけなく答える事しか出来ない。
 「エラリアのレクト王子も、もう13歳になられるのですね」
 しみじみと告げられた言葉に、黙して頷く。
 13歳は、エラリアでは一人前とみなされる年齢である。古くは成人を意味する年齢であったらしい。それは、王位継承権を獲得出来る年齢である事を意味する。レクト王子はアリスの従兄弟にあたる。現エラリア王の一人息子で、第1位の王位継承権を獲得できる地位にある人だ。
 「継承権授与の儀への招待。僕への手紙はそんな感じでした。……ですが、アリス。貴方の手紙は、それだけでは無かったのではないですか?」
 「…………」
 核心を突かれて、アリスは咄嗟に俯いていた。瞳を伏せて、テーブル上に置かれた手紙を見る。先ほどの文の内容が頭の中に蘇ってきた。
 「魔女に……テティ・リストバーグに、最後の課題を出されたんです」
 ぽつりと呟いた言葉は、一見して今の話題とは無関係なものだった。突然の話の飛躍に、しかしセイラは特別驚く事なく穏やかに構えている。
 「最後の課題ですか。いよいよ貴方も、テティから卒業するのですかね……」

 ――過去と向き合え。セイラの弟子を卒業する事だ。

 普段通りの調子で言ったセイラの言葉に、あの日の魔女の言葉が重なる。たまらなくなってアリスは、椅子から立ち上がっていた。テーブル上に置かれた封筒を手に取り、部屋を去るそぶりを見せる。これ以上、セイラの側に居るのが辛かったのだ。
 「アリス。返事はどうするのです?」
 去ろうとするアリスを、セイラは止める事は無かった。背中越しにそのように質問を投げてくるだけだ。扉の前で一旦足を止め、振り向かずにアリスは口を開く。
 「……しばらく待ってもらえますか? といっても、拒否権は無いに等しいですから、少しだけ気持ちを整理したいだけです」
 言って、セイラの返事は聞かずに、部屋を後にしたのだった。






 薄青い光で照らされた廊下に、窓は存在しない。だからだろうか、天井は高く、道幅も広いのに、リースは妙な閉塞感を感じていた。おそらく、この空間へと続く扉は、そう頻繁に開けられるものではないのだろう。外界とは明らかに様相の違う空気が満ちている。
 それにしても、大がかりな隠し通路である。廊下の続く先に何があるのか知らないが、ここまでの仕掛けを施して隠すのだ。さすがに、何もないというオチはないだろう。
 ふと、そこまで考えてからリースははっとする。そして、すぐ隣を歩くシズクを見た。魔法の光に照らされた彼女の横顔はほぼ無表情に近かったが、僅かに滲むのは緊張なのではないかと思う。
 「…………」
 そういえば、肖像画を見たいと言いだしたのはシズクだ。そして、パリスの肖像画を見た直後、この隠し扉の存在を察知したのもまた彼女だった。封印こそリースが解いたが、続く廊下を歩く足取りにはためらいは見られない。まるで、この場所の事を知っているかのようだ。否――事実、彼女は知っているのではないだろうか。自然、そういう予想が頭に浮かぶ。
 「シズクは、来た事があるのか? この場所に」
 「え?」
 歩きながらなんとなしに聞いたつもりだった。特別考えもせずに、思った事を口にしただけだ。しかし、シズクの反応は予想以上にあからさまなものだった。突然足を止めてこちらを見ると、青い瞳を見開く。まるで、悪戯がばれた時の子供のようである。
 シズクがそんな風だから、リースとしても焦ってしまう。言葉を無くして黙り込むと二人はしばらくの間見つめあう事になった。気まずい沈黙だ。
 「……前に、一度だけ」
 数秒の静寂の後、張りつめた空気をやんわりと割いたのはシズクの控え目な声だった。
 「あの時は必死で……よく覚えていないけど、多分ここだったんだと思う。表の封印は、パリスさんが解いたんじゃないかな」
 あの時とはいつの事なのだろう。そんな事が頭に過ぎったが、それよりも更に大きな疑問が浮かぶ。
 「……パリス?」
 パリスと言われて頭に浮かぶのは、現在話題に上っている賢王以外に居ない。だが、500年も昔に存在した人物である。シズクと邂逅出来るはずがない。
 怪訝な表情を浮かべるリースを見て、シズクはあぁ、と小さく零した。深刻そうな表情は薄まり、彼女のそれは苦笑いを宿したものへと変わる。
 「シーナの弟、パリス王。彼が現代に存在していたって言ったら……リースは信じないかな」
 「――――」
 こちらの様子を窺うように、シズクが控えめに視線を合わせてくる。どう説明して良いものか、彼女自身迷っているような感じであった。目の前のリースが、あまりに呆けた表情を浮かべていたからかも知れない。
 件の賢王は精神だけの存在と化して、つい最近までこの城を彷徨っていたらしい。城内で迷っていたシズクに声をかけてきたのが最初のきっかけ。その後、彼は例の秘密会議を彼女に知らせにきたのだという。この怪しげな通路へ導いたのも彼。そして、星降りの晩、シズクの魔力を解放して彼女を救ってくれたのもまた、彼――パリス・ルルフォス・ラグエイジ・イリスピリア57世だった。
 にわかには信じられない内容であった。シズクの口ぶりからして、嘘を言っているとは思わないが、そのあまりの真実に、驚かされる。だが、そんな気持ちよりも――
 「…………」
 伏し目がちに言葉を紡ぐシズクを見つめながら、人知れずリースは拳を強く握りしめていた。
 出会ってから今までの時間、自分とシズクはほぼ一緒に行動していたはずなのである。それなのに、彼女から語られる言葉のどれもが、リースの預かり知らない事だった。
 今まで話してくれなかった事に対する怒りではない。苛立ちはむしろ自分自身へと向けられていた。空白の時間なのだと思う。セイラを連れてイリスに帰還してから星降りが起こるまでの間、思えばシズクとほとんど接する事がなかったのだ。近くに居たのに、何も知らない。知ろうとしなかった。……それが、今は無性に悔しい。
 「リース?」
 名を呼ばれて、自分がいつの間にか思考の淵に沈んでいた事を知る。慌てて顔を上げると、心配そうな表情のシズクと目が合った。魔法の光を浴びた彼女の瞳は、今は深い藍色をしている。しばしの間その色に惹きこまれるが、やんわりと息をついて思考を整える。
 「……まぁ、パリスの件を信じるとして……それで? この通路の先には何があったんだ?」
 なんとも言えない空気を誤魔化すために、リースは話題を切り換えることにした。言って、石壁の道の先を見る。ここからではまだ遠くて分からないが、天井がやたらと高いこの廊下の先は、小さめの部屋へ通じているようだった。そこで道は行き止まりである。
 シズクの話を信じるとすれば、パリスによって彼女はここを一度訪れているのだ。この先にあるものが何かを、知っているはずである。だが、返事を待つリースの耳に届いたのは、良く通るシズクの声ではなく、こつんと床を鳴らす彼女の足音だった。
 「実際見た方が早いよ」
 感情を押し殺したようなそっけない言葉を聞いて、一瞬それがシズクが発したものだとは分からなかった。え、と小さく零したリースの目の前で、シズクは既に歩き出していた。焦げ茶髪のポニーテールが視界に揺れる。背中から感じる雰囲気が重みを増している事を感じて、嫌な空気を誤魔化すための発言が、かえって逆効果だったのだと理解する。
 「…………」
 どうにも最近、上手くいかない。特にここ一月……イリスに帰還して、シズクがジーニアと呼ばれるようになってからの事だ。喧嘩をしている訳でもないのに、こんな風にシズクとの間に妙な壁が出来る。彼女の方から作り出している壁なのか、それとも自分が勝手に思い込んでいるだけなのか。

 「――シズク」

 あれやこれやと答えの出ない思考に耽る頭とは裏腹に、リースの口からはその名が滑り落ちていた。歩きだしていたシズクも自身の名を呼ばれて立ち止まる。再び訪れる沈黙。彼女の背中越しに感じるおかしな距離感に苛立ちが湧きあがってくる。
 「……無理してないか?」
 その妙な距離を埋めたくて、気がつけばリースは言葉を紡いでいた。
 言葉に出すと、絡まっていた思考が実にあっさり解けていく。この一月間感じていた違和感の正体は、毅然としたシズクの姿を見て感じるものだ。飄々としている姿も、冷静に物事を受け止めている姿も、一言で言うと似合わないのだ。少なくともリースの知るシズク・サラキスは、そんな大人びた対応が出来る少女ではなかったはずだから。
 びくりとシズクの肩がわずかに震えたような気がした。だが、こちらを振り返る事はない。

 「……大丈夫だよ」

 石壁の廊下に響いた声は、普段通りのシズクの声だった。強がるのでも、震えるのでもない、良く通る高めの声。しかし、違うとリースは胸中で零していた。違う、無理してる。募る苛立ちに任せて、リースがシズクの方に歩み寄ろうとした時だ。ふっと、小さく息をつく音が聞こえる。
 「ごめん、嘘。……本当は、結構無理してるかも」
 否定の言葉と共に零された声は、若干苦笑いを含んだものだった。踏み出そうとしていた足を止めて、リースは目の前でさらりと揺れるポニーテールを見つめる。それまで感じていた壁が、突然薄くなったような気がした。廊下の先を見つめる彼女は、今どんな表情を浮かべているのだろう。
 「テティが言ってたの。わたしの中には、シーナが混じっているって。容姿が瓜二つなのも、水神に予言された事も、今、色々な事に巻き込まれているのも、全部そのせいなのかも知れないなって……色々考えた」
 そこで一旦言葉を止めると、シズクは再び溜息を零す。
 「わたしはシーナじゃない。だけど、皆ジーニア・ティアミストに、シーナがやったような事を求める……それを受け入れようって覚悟したはずだし、こうなるのも分かってたはずなのにね……でもね、なんかこう、本当に時々――」
 たまらなくて泣きたくなる。
 「――――」
 掠れた声が耳を撫でたと同時に、無意識に体は動いた。僅かに残った壁を打ち破るように、踏み出しかけたまま止めていた足を動かすと、目の前で震える少女を両腕で包んでいた。突然の事でシズクは盛大に体を強張らせたようだったが、構わず腕に力を込める。ようやくこちらを向いた瞳は、僅かに潤んでいた。
 「な――ななななっ!」
 「少し、安心した……」
 「――へ?」
 間抜けな声を上げるシズクに向かって、軽い溜息を落とす。こつんと、焦げ茶髪の頭に自身の額を当てた。
 「イリスに帰って来てからのお前は、気持ち悪いくらい完璧に色々こなしていたから……一人で全部、抱え込むつもりなのかと思ってた」
 「…………」
 シュシュの森でシズクの決意を聞いた時、強いなと感じると同時に無理して笑う姿が非常に危ういと感じてしまった。このままどこかに消えてしまいそうな気がしたのだ。だからあの時、たまらずリースは彼女の手を取った。けれどあの時と今とでどちらが不安と問われたら、それは間違いなく今だった。イリスに帰って来てからのシズクは、強すぎたのだ。苦言を零さず、瞳を曇らせず、淡々と状況を受け入れる様子の方が、シュシュの森で笑った彼女より見ていてうすら寒かった。不安定で仕方がない。一人で全てを抱えているのではないかと。そうならざるを得ない状況に、彼女が追い込まれてしまったのかと思ったのだ。
 「けど、それだけ外に吐き出せるのなら、大丈夫か」
 全身の力が徐々に抜けていくような気がした。体を強張らせていたシズクも、徐々に緊張を解いていく。
 「……まだ俺は信用されてるって事かな」
 思わず零れた、自分でも驚くほど弱気な発言に、シズクは激しい反応を見せる。突然首だけでこちらを振り返ってくる。心外だと言いたげに眉は寄せられていた。
 「あ……当たり前じゃない! リース達が居なかったら、わたし、こんな事出来てないよ! 一人きりだったらわたし――」
 「じゃあ、格好なんか付けるなよ」
 シズクの言葉を途中で遮ると、双眸を細めて厳しい視線を送る。睨まれて、シズクは息をのんだようだった。不機嫌そうな表情は一気に影を潜め、青い瞳を見開いて、それきり何も言わなくなる。
 「お前はお前でしかないんだから、自分に出来る範囲の事をすればいいんだよ。無理なら無理って言えばいいんだし……頼むから、俺達の前でまで平静を装うな」
 最後の方の言葉は、懇願に近かった。放心するシズクを何故だか見ていられなくなって、リースは瞳を閉じる。それきり、両者から言葉は無くなっていた。隠し通路に自分たち以外の通行人が居る訳も無く、静寂があたりを包む。
 シズクの肩にかけていた右手に温もりを感じたのは、そんな沈黙がしばらく続いてからの事だった。エメラルドグリーンの瞳を開けると、目の前にはポニーテールにした焦げ茶髪が見える。右手を包む温かさは、他でもないシズクの手だった。
 「……あーもう。やっぱり駄目だなぁ」
 自嘲気味に呟いて、シズクは溜息を落としたようだった。
 「弱音は吐かないって思ってたはずなのに、結局わたしってば、情けない姿見せて、迷惑かけてるよね」
 「その方がシズクらしいだろ。弱音吐かずに、毅然としてるお前なんて、違和感あり過ぎて見てられねーよ」
 おどけた調子で告げると、シズクが小さく吹き出すのが分かった。ぴりぴりとした静けさが去り、いつもどおりの穏やかな空気が戻ってきている事に、リースは密かに安堵する。感じていた違和感も距離も、今は存在しない。
 「わたしらしい、か……確かにそうだね」
 ぎゅうっと、リースの右手を包む手に力が込められる。届いた声は、酷く弱々しいものだった。
 「たまには、こんなんでもいいのかな」
 いいに決まってると答える代わりに、腕に力を込めた。俯き加減のシズクは、ひょっとしたら泣いているのかも知れない。こうなるまで我慢するなとか、慣れない事をするなとか、呆れと切なさがない交ぜになったような感情が浮かんできたが、上手く言葉に出来ず、結局何も言わなかった。
 魔法の明かりに包まれた空間に、ある時ありがとうと、小さく零された声がリースの耳を撫でた。



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