追憶の救世主
第2章 「エラリアの姫君」
3.
4420年 ガルテア・ラント・エラリア王子 アルティナ様とご成婚。
4423年 セルト・ラント・エラリア王子 王位継承権を獲得、皇太子として即位。
4424年 セルト皇太子 フィアナ様とご成婚。
同年、ガルテア王子とアルティナ妃の間にアリシア姫誕生。
4428年 セルト皇太子とフィアナ皇太子妃の間にレクト王子誕生。
同年、ガルテア王子死去。
4429年 アルティナ妃死去。
「…………」
本に綴られた年表を食い入るように見つめ、シズクは小さくため息をついていた。エラリア国の最近の史実について纏められている本だ。リースが図書館から適当に見繕ってきてくれた代物である。世界史が苦手なシズク用にと、かなり初心者向けの内容だった。
ガルテア王子死去。アルティナ妃死去。この2文が頭の中で何度も再生される。
「セルト王子ってのが現エラリア王の事。ガルテア王子は、6つ歳の離れた彼の兄王子。そんでもってアリスの父親だよ」
ベッドに腰掛けた体勢のリースがそう告げた。部屋にあるソファはシズクが使用していて、テーブル上にはエラリア史の入門書が広げられている。要するに、彼の自室にシズクは今居る訳だった。話の内容が内容なだけに、外で出来る訳もなく、こうして押し掛けて来ているのだ。アリスが残した言葉が、意味深過ぎて頭から離れない。一体どういう事だとリースに詰め寄ったのが先ほどの事である。
「…………」
リースに一瞬視線を向けた後で、シズクは再びテーブル上に広げられた本を見た。ガルテア王子が死去した翌年、アルティナ妃もこの世を去っている。年表から判断して、アリスは4歳で父親を、5歳で母親を失った事になる。
「王位継承と一口に言っても、国によって色々なやり方がある。王の長子から順番に継承権の順位が決まる国もあれば、現代のイリスピリアみたいに、ある程度の年齢になってから王や議会が次の王を決める国も多い」
そういえば、リースは第一王子だが、未だに皇太子ではない。順当にいけば恐らく彼が次のイリスピリア王となるのだろうが、今は何も正式決定していない。その者の資質を見た上で、しかるべき時に議会と王が判断するのが通例らしい。
「エラリア国はというと、前者に当たる。年功序列に継承順位が決まる国だよ」
「え?」
次なるリースの言葉に、思わずシズクは声を上げていた。
エラリア王家が、長子から継承順位が決まる国なのだとすれば、セルト王子が皇太子となる事はおかしい。彼の上には、6歳上の兄――ガルテア王子が居たはずなのだから。
怪訝な表情を浮かべるシズクを見て、リースは肩をすくめ、渋い顔をする。
「あくまで通例であって、絶対じゃない。何も考えずに長子ばかりを王に選んでいたら、困った事になる場合もあるだろ? ……要するに、どう大目に見ても器じゃなかったって事だよ。ガルテア王子は」
頭は確かに良かった。容姿にしても体力にしても、優男風で幼い頃は病気がちだったセルト王子より遥かに勝っていた。しかし、利己的だったのだ、彼は。国の頂点に立つ者としての人格。その一点においては、絶対的にセルト王子の方に軍配が上がっていた。
「周りが見えない人だったって話だ。周囲からそれとなく何度も継承権放棄を勧められたらしいけど、彼は自分が後継者と信じて疑わなかった。結果、そういう部分では冷徹だった当時のエラリア王が、半ば強引にセルト王子に継承権を渡した。……まぁ、国の将来のためとはいえ、そこまでされたら兄弟の溝は深まるよな」
歳が離れていたという事や、性格の不一致などから、元よりそれほど仲良くない兄弟だったらしい。継承問題で関係が更に悪化するのは火を見るより明らかな事だった。
「ガルテア王子は……自害だったらしい。以降、アルティナ妃も心を病んで……自害ではないらしいけど、夫の後を追うようにして亡くなった」
問題が核心部分に差し掛かると、リースの口調は歯切れ悪くなる。彼にしても、生まれる前や幼い頃に起こった話だ。間接的に聞き知ったものに違いないだろう。特に、アリスに関わる話題だ。それもあまり良くない内容の。話し難いのだろう。
「人望の薄いガルテア王子が亡くなった事に安堵した人間の方が、悲しんだ人間よりも多かった。だから、その娘であるアリスの保身を本気になって考えた人間なんて、極少数だったはずだ。……難しいんだよ、アリスの立場は」
瞳を細めると、シズクから視線を逸らして呟く。アリスとリースは又従兄妹同士だ。でもそれ以上に、幼馴染だと彼は言う。一時期、共に生活をしていたとも聞いていた。これはシズクの憶測に過ぎないが、ひょっとすると、居場所が見つからないアリスをイリスピリア王家が一時的に匿っていたのかも知れないと、そんな事を想像する。
「でも」
打ち消しの言葉を紡ぎ、独特の色合いの瞳を、リースに据える。
「お父さんの人格や、ご両親の亡くなり方の事があっても、あそこまでエラリアを避けたがるものなのかな……。王籍をはく奪される程の事を、誰も犯してはいないんじゃないの?」
王籍をはく奪されてもおかしくない人間。先ほど廊下で、アリスは自身の事をそのように表現していた。
父親が弟との仲違いの末自害したのだ。確かに、決して穏やかではない状況ではある。しかし、どうにも腑に落ちない部分もあった。ガルテア王子とアルティナ妃は、リースの話を聞く限りでは、亡くなり方こそ壮絶だが、特に大変な事をしでかしてはいないように思う。王籍抹消など、よほどの理由が無い限り行われない事ではないのだろうか。
「確実に起こった事として表沙汰になってるのは、これだけだよ」
表情をしかめると、リースは小さく息をつく。テーブルに広げられた本に、シズクはもう一度視線を注いでみた。簡易な年表が、淡々とその年毎に起こった出来事を伝えている。何の悲劇性も宿さずに、極めて無表情に。アリスの父母の死の記録も、その中の一つだ。けれど、現実はそんなに簡単なものではなくて、もっと複雑で様々な事が絡みあっているのだと思う。
「直接知る訳じゃないから……これ以上は俺の口から言うべき事じゃないと思うけど」
そう注釈を入れた後で、リースはぽつりぽつりと語りだす。
「いくつかの噂話がある」
「噂?」
「そう、あくまで噂話。史実になる程はっきりした事じゃない。けど……きっと嘘ではないんだと思う」
ぎくりと背中が鳴ったのが分かった。聞かされる前から、あまり良い内容の話ではないだろうという事が分かる。恐る恐る視線をリースに向けると、厳しい表情の彼がそこに居た。弾劾する者の目だ。
「ガルテア王子は、やってはいけない事を犯した。それが原因で、アルティナ妃は心を病み、アリスの立場も危うくなった」
これ以上は聞かない方がいいと、心のどこかで警告の声が響く。早まる心臓の音を聞きながら、けれど、それでもシズクは知りたいと思った。
「一体……何をしたの?」
零れおちた声は、予想以上に低かった。深く長く、息をつく音が部屋に響く。ほんの少しの時間だけ、本当に言ってしまって良いものかどうか、逡巡しているような表情を浮かべてから、やがてリースは口を開いた。
「当時、生まれて間もなかったレクト王子の暗殺未遂だよ」
「…………」
無言のまま、アリスはテーブル上に置かれた手紙を見つめていた。美しい小花模様が散りばめられた封筒と便箋。この白い花は、エラリア国の紋章と呼べるものだった。甘い香りが特徴で、水と空気が清らかな場所にしか咲かない。まるで、あの人のようだと思う。
――仕方が無いのよ……。
虚ろな目で言い、操り人形のようなぎこちない動きで、母は娘をその手にかけようとした。首筋を這う細い指の感覚を思い出して眉をしかめる。思わず手を首に持って行くが、今はそこに痕は残らない。生々しい感触だけが残り、それが時々アリスの心を乱すのみだ。
絶望が滲んだ瞳で、あの人は全てを諦めきっていた。人から望まれ、愛される事が当たり前だった彼女には、耐えられない事だったのだと思う。夫が犯した罪と、その汚名を背負わねばならない己の運命が。
―― 一緒に逝きましょう……アリシア。
だから、全部終わらせて捨ててしまおうとしたのだ。
それでも良いと、あの時のアリスは思った。幼い時分、詳しい事は何も知らなかった。ただ、父が亡くなって、毎日泣き暮らす母を見るのが辛かったから。そうする事で母が安らげるのなら、一緒に居てあげたいと、心からそう思ったのだ。
「――――」
泥水のような回想の海に沈んでいたアリスを浮上させたのは、軽いノックの音だった。咄嗟の事で声は出なかった。しかしゆっくりと、アリスの見つめる先で部屋の扉は開けられて行く。
「…………」
若干緊張した面持ちで、ドアノブに手をかけた状態のまま、入っても大丈夫だろうかときょろきょろする少女は、アリスの良く知った顔だった。
「……シズク」
ようやく出た声は、少しだけ掠れてしまっている。
「お邪魔して、いいかな?」
後ろ手に扉が閉じられる。懇願するようにこちらを見つめてくる彼女の深い色の瞳を見て、どきりと胸が跳ねていた。ティアミスト家の魔道士のみが持つという、独特の色彩を帯びた青だ。不思議と懐かしさと切なさがこみ上げるのを感じて、内心アリスは首をひねっていた。菜の花通りで初めてシズクと出会った時にも、そういえば似たような感覚が体を走っていたのを思い出す。
「どうぞ。座って」
胸中の動揺を悟られないように、アリスは努めて柔らかい笑みを浮かべる。入室を許可された事への安堵だろうか、シズクは強張った表情を緩めると、毛の長い絨毯を踏みしめながらこちらに近づいてくる。丁度アリスと向かい合う形で、彼女はソファに腰掛けた。しかし、テーブルに置きっぱなしになっていたエラリアからの手紙を目にした瞬間、再びシズクの表情に影が落ちる。
「……ねぇ、アリス――」
「お茶でも淹れるわ」
言葉の続きを聞くのが怖くて、割と素早い動きでアリスは立ち上がっていた。何か言おうとしていたところを中断されたにも関わらず、シズクは特に気に障った様子はないようだった。それどころか、お茶を淹れようと簡易なキッチンへ向かうアリスを、恐縮そのものといった表情で見つめてくる。
「いいよアリス。なんか悪いよ。わたしが押しかけて来たんだし」
「構わないわ。お茶を淹れるのは好きだもの」
遠慮の言葉をさらりとかわしながら、アリスは既にポットとティーカップの準備を進めていた。何かしていた方が今は気分が落ち着く。それに、温かいお茶を飲みながらの方が、シズクとの間に感じるぎくしゃくした空気が緩むのではないかと思ったのだ。出来れば壁は作りたくない。他ならぬ、その壁を作り出している自分自身を励ますように、胸中で呟いてみる。
断ることを諦めたのだろう。未だに申し訳なさそうな表情を浮かべてはいたが、苦笑いして肩をすくめると、シズクは大人しくアリスの動作を眺め始めた。
「何かリクエストでもある?」
選択権はシズクに委ねる事にする。
彼女が選ぶのだから、飲みくちの柔らかい甘めのタイプか、故郷でもあるオリア名産のリコ茶でも選ぶのではないかと考えていた。
「じゃあ、アリスが一番好きなお茶」
「え?」
だからそんな言葉を耳にした瞬間、思わず作業の手を止めて、アリスは声の主であるシズクを振り返っていた。
ソファに腰掛けたまま、幼子が珍しい物を見るような瞳で、彼女はお茶が出来上がっていく様を見つめている。
「気分が乗らない時、アリスはいつもわたしの好きなお茶を淹れてくれるから……だから今は、アリスが一番好きなお茶を」
「…………」
シズクの優しい笑みを見ていると、何故だろう、取り繕うようにして浮かべていた自分の笑顔がみるみる剥がれていくのが分かった。悟られないようにと、隠していたはずだったのに。視界が不自然な形に曲がる。
「……了解」
曝け出された泣き笑いの素顔で告げると、アリスは作業を再開させていた。
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