追憶の救世主

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第2章 「エラリアの姫君」

4.

 こぽこぽと心地よい音を立てて、薄桃色のお茶が2つのティーカップに注がれていく。立ち上る湯気はほんのりと甘い香りがした。知っている匂い。そう思ったと同時に、強張っていた体の筋肉が緩んでいくような気がする。部屋を満たしていた空気も一気に和らいでいく。
 向かいのソファにアリスが着席したのを見届けてから、シズクはカップを手に取った。香りを運ぶ湯気を楽しんだ後で、そっと口をつける。
 「……これ、何度か飲んだことある」
 やはり知っている味だ。シズクはお茶には詳しくないが、この味に限っては確信を持ってそう言える。爽やかな飲みくちが、旅の間に口にしたものの中でも特に印象に残っていたものであったからだ。幾度かアリスが淹れてくれたお茶である。これが、アリスが一番好きな味。
 「レムサリアのものよ」
 自身も一口飲み、瞳を細めてアリスが零す。
 「レムサリア……」
 それは、大陸の北の果て、セイラが神子をつとめる水神の神殿がある国の名である。長年アリスが生活してきた場所でもあった。
 「私の母の出身国なの。祖国からこのお茶を取り寄せては、毎日のように楽しんでいたわ」
 幼い頃、お茶菓子と共に常にこの香りがあったのだと、アリスは語る。てっきり、セイラの弟子として過ごした期間で見つけた味かと思っていたが、彼女とこのお茶との出会いは、もっと昔に遡る必要があったらしい。
 レムサリアのお茶を飲みながら、昔話を語るように話すアリスは、普段の大人びた表情をしてはいなかった。不思議と、自分よりも幼い少女を見ているような、そんな錯覚に襲われる。
 アリスにとってこの香りと味は、故郷の思い出の味と呼べるものなのかも知れないなと思う。シズクにとってのリコの茶と同じ、いや、ひょっとするとそれ以上の。
 「黒髪黒眼って、大陸の北の方の色なのよ。イリスピリアは金色や茶色を持つ人が多いでしょう? エラリアも一緒。だから……この髪の色も瞳の色も、全部母から受け継いだものよ」
 ああ、そう言えばとシズクは胸中で呟く。アリスの持つ色は、大陸の中部にはあまり無い色であった。レムサリア出身者であるらしいセイラと同じ。夜闇を思わせる、深い黒色なのだ。
 エラリアは、位置的にイリスピリアに近い国である。直接訪れた事はないが、人々の生まれ持つ色彩もまた、イリスピリアに近いだろう。そう考えると、アリスの持つ色は、エラリアでは特殊であると取れる。
 アリスの母は、レムサリアの王女の一人だったらしい。婚約するその日まで、後の夫となるガルテア王子とは一度も顔を合わせた事が無い仲だった。王族同士にありがちな、所謂政略結婚に近いいきさつで、結婚が成立したのだとか。
 「それでも、それなりに仲睦まじく、愛し合っては居たみたい。形として私が生まれている訳だし……人並の愛情は注いで貰えたと思っているわ」
 元気だった頃の母は、優しかったもの。アリスの形の良い唇から、そのような言葉が滑り落ちるのを聞いて、シズクは胸が小さく痛むのを感じていた。闇色の瞳は、冷たい光を宿す。中身が半分ほどまでに減ったティーカップを一旦テーブルに置くと、シズクはアリスと真正面から目を合わせた。アリスの方も、真っ直ぐにこちらへ視線を送って来る。
 「聞いたんでしょう、リースから」
 ある程度予想していた言葉であるはずのそれは、大きくシズクを打った。何かを言おうとしたが、こういう時一体何を言えば良いのか分からず、結局沈黙を保ってしまう。
 「…………」
 先ほどのリースの話が頭の中で何度も再生される。簡素な年表には決して記される事のない、けれど真実に限りなく近いと言われる噂話。王位継承権を巡る争いの結果として、ガルテア王子が、レクト王子を暗殺しようとした。そして、心を病んだアルティナは、悲しみの果てに――
 「全て、本当の事よ」
 瞳を伏せ、小さめの声でアリスが零す。真っ直ぐ彼女を見つめたまま、シズクは視線をそらせなかった。
 全て本当の事とは、一体どこまでの事を言うのだろう。分かりきっている答えが頭の中に浮かんでしまうのが辛くて、シズクは誤魔化すように心の中で自問自答する。
 「父は、厳しく私を育てたの。誰にも負けないように、頂点に立てるように。呪文か何かみたいに、常々そう言ってね。……今にして思えば、あの人は私をエラリア女王にしたかったんだと思う」
 自分の手からすり抜けて行った栄光を、娘が掴む事で取り戻したかったのかも知れない。そして、見返したかったのかも知れない。自分を差し置いて皇太子となった弟や、自分を認めなかった父や周囲の人々を。
 「そんな中、フィアナ皇太子妃がご懐妊。そして、レクト王子が誕生。国中が湧いたわ。幼い私も、可愛い従兄弟が出来たと言って、無邪気にはしゃいだ。……でも、父だけは違った。彼は、諦めの悪い人だった」
 エラリアは、王の長子から順番に王位継承権が決まる国だ。順当に行けば、セルト王子がエラリア王に即位した後、第一位の継承権を獲得出来るのはレクト王子である。王の姪御であるアリスには、エラリア女王の座が与えられる事はない。ある一部の例外――例えば、ガルテア王子がそうであったように、レクト王子の人格が王位に相応しくないものであった場合か、若しくは……不幸にも、王子が命を落としてしまった場合を除いて。
 「…………」
 ティーカップの中のお茶が冷めていくのに合わせて、部屋の空気も冷たく転じていく。話している内容はこんなにも重いのに、それをぽつりぽつりと話すアリスの口調は、淡々としていた。それが尚更、苦しい。
 「ただの噂話じゃないの。関係者が全員自害してしまったから、何の立証も出来なかっただけ。明るみになっていないのは、そうなる事を恐れた当時のエラリア王が、彼らの罪を審議にかけなかったからよ」
 罪に問う事が出来ないから、自害したガルテア王子の妻と娘も、王籍を抹消される事はなかった。最高位の王族として、エラリア城での生活を送らざるを得なかった。だけど、事実は隠せても人の心は隠せない。アルティナ妃とアリシア姫に対する人々の目は、それまでとは明らかに変わってしまっていた。
 「噂なんかじゃない。父がレクト王子の暗殺を企てた事も……母が病んだ末に、私をこの手にかけようとした事も。全部本当の事――」
 「アリス!」
 ただ普通の会話を交わすように、重い事実を語るアリスを見ている事がたまらなくて、とうとうシズクは声を上げていた。凛とした闇色の瞳を見る。酷くあやふやな印象を受けた。

 ――アルティナ妃は病んだ末、アリスと一緒に、この世から消えてしまおうとした。

 ここに来る前、リースの口からも同じような事を告げられていた。その言葉と、意味する内容が頭に浮かび、背筋が冷えて行く。
 夫の自害と犯した罪とを背負いきれなくなった妃は、段々と心を病むようになる。そして遂には、愛娘と無理心中しようとした。つまりはそう言う事だ。
 噂話でしか語られていない、事実かどうかは分からない。リースはそう言っていたが、おそらく彼も、それが真実である事を知っているのだろうと思う。他ならぬ、当事者であるアリスが『本当の事だ』と言うのだから。
 「今更過去がどうとか、そういう事じゃないの。両親が犯した罪を、私は受けとめて生きていかなきゃいけない。でも、シズク達を巻き込むのは嫌なの」
 迷惑をかけたくない。俯いて、先ほど廊下で零したものと同じ言葉をぽつりと呟く。しかしやがて、アリスは緩やかに首を振って自身の言葉を否定する。
 「ううん、違うわね……本当は……怖いのよ」
 「え……?」
 「エラリアに行って、あの国での私の立場を目の当たりにして、シズク達がどう思うのか……きっと、それが怖いの」
 シズクの目の前で、細い指を強く絡ませて、アリスは両手を握りしめる。酷く弱々しい声だった。些細な言葉も凛としていて、時にはそれが、シズクを奮い立たせるきっかけになった事もある。そんな彼女が発する言葉とは、とてもじゃないが思えなかった。
 ……だが、きっとこれもアリスの一部なのだ。今までシズクが知らなかっただけで、か細い声で震える少女もまた、アリシア・ラントという一人の人間なのだ。
 「エラリアで果たさなければいけない役割も、背負わなければいけない罪も、何もかも放棄して、結局私は逃げてばっかり居る。そんな姿を見られて、私は貴方とそれから先も一緒に居られる自信がない。資格すらないんじゃないかって! ……ねぇ、シズク。だからお願い――」
 「アリス」
 次第に支離滅裂になっていくアリスの言葉を止めたのは、他でもないシズクだった。飛び出した声は、思いのほか落ち着いている。
 ゆっくりと顔を上げて、こちらを見る彼女の瞳は、今にもこぼれ落ちそうな程の涙で潤んでいた。――混乱してしまっているのかも知れない。
 ふうっと肩の力を抜く。そうしていると、気持ちも落ち着いてきていた。
 「……昔ね」
 「え……?」
 「小さい頃の話。母さんに連れられて、テティの小屋に行ったことがあるの。その時、そこに居た女の子と、少しだけ話をしたんだよ」
 そう告げた瞬間、アリスの瞳が大きく見開かれる。同時に息を呑む音も、僅かに聞こえてきた。
 過去と向かい合った時、頭の中に蘇ってきた景色の一つだった。あれは確か、冬に近い季節の事だったと思う。何のために訪れたのか、どれくらい滞在したのか、全く覚えていないが、やけに印象に残った事が一つある。テティの森で出会った、黒髪黒眼の女の子の事だ。
 「凄く綺麗な子なのに、少しも笑わずに、闇色の瞳はどこか遠くを見ていた」
 きっとアリスは、覚えていないのだろうけれど。
 「笑ったらどんなに綺麗だろうって思ったの。笑って欲しいなって……」
 ここ最近、極たまに見せるアリスの表情を目にして、心のどこかでずっと何かが引っかかっていたのだ。冷たい瞳はアリスらしくないのに、シズクの心はそれを心配する反面、不思議と納得してしまっていた。知っていたからだ。同じような表情で、すべてを諦めきっていたあの日の彼女を。
 「シズク……」
 「ねぇアリス。アリスから貰った言葉、今のアリスに、そのまま返すね」
 言って、すうっと大きく息を吸い、部屋の空気を肺に満たして行く。独特の色をした瞳を、潤んだ黒瞳に向ける。
 いつだって凛として、シズクを認めて、励まして、見守ってくれた光は、今はどこかに隠れてしまっていた。だから今度は、シズクが彼女を支えられたらと思う。それは、おこがましい事なのかも知れないけれども、与えてもらった事を少しでも、自分からも返せたらと思うから。

 「――飲み込まれないで」

 声は真っ直ぐに出た。伏せられていた長い睫毛が上を向いて行くのが分かる。曖昧な光を宿すアリスの瞳は、しばしの沈黙の後、ゆっくりとこちらを見た。真正面から視線がぶつかった瞬間、シズクは表情を緩める。
 「生まれた家やその身に宿る血は変えようのない物で、エラリアのお姫様が難しくて重いものを背負わなければいけないのだとしても……心まで持って行かれないで。アリスっていう一人の人間は、何にも縛られる必要なんて無いんだよ」
 難しい事はシズクにはよく分からない。アリスがエラリアでどういう立場なのかも、彼女が抱えた過去も、全てを見て知っている訳ではない。むしろ、知らない部分の方が多すぎる。けれど、この数か月、彼女と一緒にいくつかの危機を乗り越えて来た中で、これだけは胸を張って言えると思う。
 「アリスは、わたしなんかじゃ足もとにも及ばないくらい、凄く素敵な女の子だよ! アリスが笑うとね、見惚れるくらい綺麗なんだから。自信を持ってよ……。シズク・サラキスの前に現れたアリシア・ラントは、人形のように無表情な女の子じゃない……貴方はちゃんと笑えてるんだよ」
 「――――」
 見開かれた黒瞳から、ぽたりと雫が落ちるのを見た。堰を切ったように後から後から。呆けた顔のまま、無言でアリスは泣いていた。初めて見る彼女の涙に戸惑いの気持ちも起こったが、それ以上に強く言葉を紡ぐ。
 「過去に何があろうが、周りからどう見られていようが、友達として、仲間として、一人の人間として、わたしはそんなアリスを信じてる。だから――アリスもわたしの事を信じてよ」
 言って、泣き顔のアリスに笑いかける。涙で濡れて少し目が赤かったが、そんな事は気にならないくらい彼女は変わらず綺麗だった。美人には涙も映えるのだなぁと心の片隅でそんな考えが過ぎる。しかしそれと同時に、やはりアリスには笑っていて欲しいと、シズクは思う。
 「……本当は」
 「ん?」
 ややあってから、嗚咽も漏らさず静かに泣いていたアリスが口を開く。弱々しく掠れた声だったが、先程までの冷たい雰囲気は消えていた。黙って見守るシズクの横で大きく息を吐き出すと、少し落ち着いたようだった。
 「本当はね、あの招待状を受け取った時、一人で行くのが怖かった。だから……一緒について来て欲しいって、シズクに頼みたかった」
 「え……」
 アリスがそんな事を考えていたなど、もちろん初耳だった。予想外の言葉に、目を丸くする。
 「だけど、両親の事を話した上で、同行者として来てくれって頼んだ時、貴方がどんな顔をするのかって想像すると……それもまた怖かった。結局私は、一人で勝手に全部抱え込もうとして、シズク達の事を信じようとしなかったのかも知れないわね」
 自嘲的な言葉ではあったが、重さは感じられない。その事にシズクは安堵を抱く。
 「……抱えようとして見事に自爆しちゃった人間が一人、アリスの目の前にいるよ。そんなに強くないもん、誰かに少し預けないと難しい事もあるよ」
 つい先日までの自分の様子を思い出して、苦笑いが込み上げてきた。迷惑をかけまいと思って慣れない事をして、結果的にリースに諭されたのだ。
 シズクから何かを感じたのだろう、アリスは瞳を細めると、泣き顔のまま可笑しそうにほほ笑む。
 「ここまでずっとわたしの面倒事に付き合ってくれたじゃない。アリスも、たまにはわたしに預けてくれてもいいんじゃない?」
 「そうなの、かな……」
 「そうだよ!」
 言って、すっかり中身の冷めきったティーカップを手に取る。冷えたレムサリア産のお茶を最後まで飲み干した後で、再び視線を真っ直ぐアリスへ向けた。うわべだけの言葉にならないように、彼女にちゃんと伝わるように。
 「先に行くなんて言わないで、一緒に行こうよ、エラリアへ」
 鼻の中をお茶の僅かな残り香がくすぐったのと、涙目を輝かせてアリスがゆっくり頷いたのとは、ほとんど同時の事だった。



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