追憶の救世主

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第3章 「水と緑の城」

4.

 「いい香りがすると思ったら。ライラの花なのね」

 夕食が済んで、リサの部屋でシズクとアリスだけが参加するささやかなお茶会が開催されていた。昼間、貴族達から招待されたお茶会でたっぷり飲んでいるはずなのだが、親しい者たちと飲むお茶は別腹のようだ。アリスの淹れたのが一番ね、と言いながらリサは嬉しそうにティーカップに口をつける。その矢先に発せられた一言だった。
 ライラの花。そう言ってリサが視線を向けた先には、一輪挿し用の花瓶がある。白色の可憐な花が一本、まるで挨拶するかのように、可愛らしい5枚の花びらを広げてこちらを向いていた。昼間、シズクがリースに渡された物である。捨てる訳にもいかず、かといって他に使い道も無く。仕方なく花瓶に入れて飾っておくことにしたのだ。
 「エラリア国の花よ。紋章にも刻まれているでしょう? 甘くて柔らかい香りがするから、香水の原料にもなるの」
 怪訝な顔のシズクの耳に、アリスの注釈が届く。あぁ、それで見覚えがあるような気がしていたのかと、この花を見た時の妙な既視感を思い出しながら、シズクは納得していた。お茶の香りとは違う、柔らかな匂いが鼻腔をくすぐる。たった1本でこれだけ香り高いのだ。香水の原料にされるというのにも頷ける。
 「白のライラの木は珍しくてね。水と空気が綺麗な場所でしか育たないって言われているの。城の中にも、数本しか生えていないんじゃないかな」
 とすると、かなり貴重な物という訳だ。さすがに、乱暴に手折ったりはしていないだろうが、ぞんざいに投げてよこしてきた所からして、リースはこの花の価値が分かっているのだろうか。と疑いたくなった。
 「シズクちゃんが置いてくれたのよね。どうやって手に入れたの、これ?」
 そんな事を考えていた矢先にリサからの質問が飛んできて、あの時の苛立ちや焦りがフラッシュバックする。
 「昼間、リースに会って。渡されたというか……投げ寄こして来たんですよ」
 「リースが……!?」
 「そんな事より」
 大袈裟なくらい目を見開くリサとアリスの姿が視界に入ったが、これ以上この花を手に入れた時の話題を続けたくなくて、シズクは話を切り換える事にした。
 「何か進展はありそうですか?」
 トーンを落として、真剣な表情で告げた時には、アリスとリサも表情を引き締めていた。和やかな雰囲気の中に、僅かばかりの緊張感が流れ込む。
 進展というのは他でもない。シズク達がエラリアを訪れた最たる理由。『石』の情報に関してだ。
 「……駄目ね」
 お茶をすすりながら、昼間シズクが調達してきた分厚い本を読んでいたリサがゆっくりと首を横に振った。予想していた答えではあったが、一気に肩の力が抜けていくのが分かる。
 「シズクちゃんに頼んで色々取って来て貰っているけど、エラリア城の図書館も、イリスピリアと似たり寄ったりだわ」
 やっぱり、本からヒントを探すには無理があるわね。そう、渋い顔でリサが呟く。世界一の蔵書を誇るイリスピリア国立図書館で、リサの調査能力を駆使しても、有益な情報は見つからなかったのだ。エラリア国立図書館での調査状況は、火を見るより明らかだろう。
 「でもまぁ、そんなに落ち込んでないわよ。予想通りの事だもの」
 一息つくと、リサは持っていた本を完全に閉じてしまう。おそらくそこにも、有益な情報は見当たらなかったのだろう。
 「自ずと答えは現れる――パリス王の言葉からして、こちらから働き掛けても、答えは出てこないのかも知れないですね」
 ティーカップに口をつけた後に、穏やかな声でアリスが告げる。
 「かといって、このまま待っていても、答えが転がり落ちてくるとは思えないけど……」
 あんなややこしい場所にヒントを隠していたパリス王だ。待っているだけで解決するとは、とてもじゃないが思えなかった。それはリサやアリスとて同じだったようで、皆一様に溜息を零す。
 「もちろん黙ってなんかいられないわよ。とにかく、城の中を見て回るしかないわ! と言っても、私とアリスはなかなか身動きが取れないから、シズクちゃんに任せきりになっちゃうんだけどね」
 「リサさんとアリスは、お茶会と挨拶回りで忙しいから仕方無いですよ」
 申し訳なさそうにこちらを見るリサに、シズクは苦笑いして肩をすくめてみせる。滅多に他国に出ないイリスピリアの王女が来たのだ。今日もリサは2件のお茶会に参加し、5人からの訪問を受けていた。これでも少なくなった方なのだ。この部屋の初日の大盛況っぷりを思い出し、シズクは苦笑いを更に深めた。アリスとは直接の接触は少ないが、リサ程ではないにしろ、似たようなものだろうと予想される。アリスがエラリアに長期帰国するのは、実に2年ぶりだというのだから。

 ――家出王女様。

 そんな事を考えているうちに、昼間、中庭で交わされていた使用人達の会話が頭に浮かんで、僅かに胸が痛んだ。
 「あぁ、そうだ。お茶会と言えば」
 眉をしかめていたシズクの耳に、のんびりとしたアリスの声が届く。慈愛を含んだ闇色の瞳を目にして、何故かホッとする。シズクの胸中など知らないアリスは、もう一度お茶に口を付けてから、何やらごそごそと手持ちのカバンから取り出して、テーブルの上に置いた。
 「……これは?」
 大理石で出来たテーブルの上に置かれたのは、シンプルな2枚のカードだった。隅の方に、例のライラの花を模ったエラリアの紋章が刻まれている。柔らかい筆跡で、それぞれにリサとシズクのフルネームが記載されていた。
 「お茶会の招待状よ」
 「お茶会?」
 エラリアに来て、最も聞き慣れた単語となっているものだったが、リサ宛てに招待状が来るのは日常茶飯事でも、シズク宛てに来たのは初めての事だった。というか、普通は使用人にまで招待状は送らない。一体誰が――
 「紋章付きの招待状って事は、フィアナおば様のお茶会ね」
 「フィアナ様って……王妃様!?」
 リサの一言に、思わず大きな声で叫んでしまっていた。
 数日前に見た、柔らかな笑顔を思い出す。大国の王妃が主催するお茶会の一席を、シズクのような庶民に用意してくれるだなんて。予想外を通り越してただただ驚くばかりだ。
 「叔母様が言ってたでしょう。お茶会を開くって。今日、レクトが部屋に来たのよ。嬉しそうな顔をしているから何だろうって思ったらね……これを皆さんにって」
 確かに、出会った初日に王妃はそのような事を言っていた気がする。しかし、本当に開催されて、しかもそこにシズクを招待してくれるとは、さすがに思っていなかった。
 「少人数で行うささやかなものだから、気張らなくても大丈夫よ。多分顔見知りしか来ないわ」
 放心するシズクを見て、アリスは可笑しそうに笑う。カードを手にとって読むと、確かに、末尾にフィアナ王妃の署名があった。正真正銘の本物だ。
 「おば様のお茶会は楽しいから大歓迎よ。にしても……レクトってば相変わらずアリスが大好きなのねぇ。使用人を使わずに、直接招待状を持って来るだなんてね」
 未だ放心するシズクの隣で、リサもカードを手に取った。いかにも高級そうな材質で出来た招待状をひらひらさせて、リサはにやりと意味ありげに笑う。
 「大好きって……姉に甘えてるつもりなんですよ。レクトも私と同じで、一人っ子だし」
 「分かんないわよ。レクトは本気なんじゃないかしらね。しばらく見ないうちに大分しっかりしたみたいだし?」
 あれは将来、良い男になるかも知れないわよ。茶化して言うリサに、アリスはあくまでもレクトは可愛い弟のようなものだと言って、苦笑いするだけだった。普段このメンバーではあまり交わした経験のない類の話に、ようやく放心の解けたシズクは表情を緩める。そして、どうなんだろうなと彼女なりに考え始めた。
 ほとんど初対面に近い間柄なので、シズクにはレクト王子の性格は分からないが、13歳の男の子が、好きでもない相手に抱きついてくるとは思えない。あの時、アルキル・キエラルトと一瞬交わした視線といい、リサの意見の方が真実に近いかも知れない。
 「久しぶりに会ったけど、アキも相変わらずだし。モテモテね、アリス」
 「リサさん! アキはただの幼馴染です!」
 「……アルキル様は、アリスの事が好きなんですか?」
 そう言えば、彼はアリスアリスとやたら煩かった。同年代で、幼馴染という話だし、結果的にシズクと間違えてしまった訳だが、彼が本当に抱きしめようとした相手はアリスだった。そんな事を回想しながら、ただ何となしに質問しただけだったのだが、シズクの言葉を耳にした二人の表情は、こちらがぎょっとする程引きつったものだった。聞いては不味い質問だったのだろうか。
 「アルキル『様』だなんて……! あいつにそんな丁寧な敬称なんて不要よ! 『変態』で充分!」
 「今回ばかりはリサさんの意見に全面賛成だわ……」
 シズクの心配はどうやら杞憂であったようで、次の瞬間には、リサは引きつった表情を爆発させて叫び、アリスはというと、ため息を吐いてうなだれたのだった。
 「キエラルトの跡取りのくせしてあの体たらく。身長だけはいつの間にか私を追い越してガンガン伸びたけど、中身の方はまだまだってところね」
 キエラルト家というのは、王族に次ぐ名門貴族の事で、現在の当主は騎士団長も務める人物なのだとか。やはり、かなり身分の高い人間であるらしい。しかし、その跡取り息子に『変態』の呼称は……そんなに変な人物なのだろうか。
 「あれ以来変な事されてないわよね? アリス一筋だから大丈夫とは思うけど、一度ある事は二度あるって言うでしょう? 一人でうかつに近寄ったら駄目よ」
 変な事をされるどころか、あれ以来出会ってすらいません。そう告げようと思ったが、知らない人について行ってはいけませんと幼子に諭す親のような目で言い募られては何も言えなかった。大袈裟に言っている部分があるにしろ、リサの表情にはある程度の本気が見てとれる。
 「悪い人じゃないんだけど……軽率な行動や言動が多いから。不用意に関わって、シズクが変な事に巻き込まれないか心配なのよ」
 追い討ちをかけるように、アリスがやや疲れた表情でそう言った。






 そんな話をした翌日に、近寄るなと念押しされた当人に出会う事になるとは。噂をすればなんとやらだ、とシズクは思う。

 午後の一番忙しい時間帯が少し過ぎた頃だった。北方国の王女主催のお茶会にリサを送り届けた後、人々に怪しまれない範囲で回り道しながら、シズクは自室へと向かっていた。エラリア滞在も数日が過ぎると、リサ王女の付き人の顔と名前は、ある程度の範囲に広まるらしい。時折呼びかけられ、相手から名乗られ、自分も一応名乗り、手紙やら招待状やらカードやらを手渡される。もちろんシズク宛ての訳はなく、どれもこれも全て、リサに宛てられた物だった。王族貴族同士の手紙のやりとりも、どうやら使用人の重要な仕事の一つであるようだ。
 右手に持った手紙類が5つを超えたあたりから、さすがにシズクもうんざりしてきた。『石』のヒントを探る目的で城内を広く移動するようにしているのだが、肝心の手がかりがまったく見つけられないのに対して、呼びかけられる回数が半端無く多い事を考えると、最短ルートで帰った方が良かったかも知れない。
 (早く帰ろう……)
 軽く息をつき、歩みを早めようと顔を上げた時だ。何やら騒がしい喧騒が聞こえると共に、小さな人だかりを認めてシズクは首をひねる。城の中庭のはずれにある、少し開けた場所だった。
 「?」
 近寄って行くと、その場に集まった人々が実に多様である事に気づく。使用人の格好をした者もいれば学生服姿の者も居る。やや女性の数が多かった。皆が皆、一様に目の前の光景に視線を奪われている。硬質な物同士がぶつかり合う、独特の音。荒いかけ声が時たま聞こえ、その度に感嘆の声が上がった。
 人々の頭の間から、シズクは喧騒の正体を見定めるべく、軽く背伸びする。視線を向けた先には、円形のよく整備された砂地があり、そのほとんど中心付近に、鋭い表情で睨み合っている二人の男が見えた。両者とも手に携えているのは剣だ。時折上がる鋭い音は、剣と剣がぶつかり合う音だったのだろう。要するに、剣稽古か何かの現場だ。そういえば、この辺りは騎士団の宿舎と練習場があったのだと気づく。
 (あの人は……)
 しかしその事実よりもシズクの気を惹いたのは、打ち合いをしている男の片方が見覚えのある人物だった事だ。黄土色のツンツン頭に、鮮やかな青い瞳。酷く引き締まった表情であったが間違いない。エラリアを訪れた初日にとんでもない出会い方をした少年――アルキル・キエラルトだ。更に驚いた事に、彼の剣さばきは驚くほど速く絶妙なのである。打ち合いの相手の力量を遥かに凌駕している事は、素人目からでも分かる。
 一際鋭く空気が戦慄いた瞬間、剣が宙を舞っていた。アキが激しく剣を薙ぎ、相手の少年が取り落としてしまったのだ。勝負あったようだ。
 「10人抜き達成!」
 観客のうちの誰かがそのように叫ぶと、拍手と歓声が上がった。ほとんど終盤しか見ていないシズクだが、どうやらこの少年を打ち負かしたことによって、10人抜きが達成されたらしい。見ると、円形の砂地の外側にはベンチが供えられており、そこに、アキと同じ格好をした男性が10数人程腰かけていた。騎士団の連中だろう。アルキル・キエラルトは、彼らを10人も打ち負かしたというのだろうか。だとしたら、相当剣技に長けていると言える。
 ぽかんと呆けるシズクの目の前で、アキは打ち負かした少年と握手をし、肩を叩きあう。そして、騎士団の面々に向かって白い歯をむき出しにして笑んだ。その瞬間、すぐ隣で観戦していた使用人の少女達から、甘い溜息が洩れたのを、シズクは聞き逃さなかった。憧憬の眼差しを向ける横顔を見て、オタニア魔法学校にいるミーハーな親友の事を思い出す。手の届かない者への憧れの表情だ。
 (変態、か……)
 昨日のリサの台詞と、目の前の光景とのギャップに、苦笑いせざるを得なかった。
 エラリアでも上位に位置する貴族の跡取り息子。充分整った容姿に、先程の抜群の運動能力を見せつけられたら、少女たちの多くが憧れを抱くのも無理はない。シズクだって、先日のあの出来事さえなければ、ここにいる少女たちの一人になっていたかも知れない。事実、リサに『変態』と言わしめたアルキル・キエラルトと、今目の前で見事な剣さばきを見せつけた少年とは、容姿がそっくりの別人ではないかと錯覚しそうになっているくらいだ。
 そんな事を考えていると、仲間達からふと視線をそらしたアキと目が合う。真っ青な鮮やかな色の瞳は、シズクを捉えた瞬間僅かに見開かれた。シズクもシズクで、なんとなく彼から視線を逸らせずに、そのまま両者は見つめあう形となる。
 「リサ姉の使用人!」
 張りのある声でアキが告げ、騎士団のメンバーを含むその場のほぼ全員の視線を浴びた所で、シズクはこの場に来るべきでなかったのではないかと思った。そうこうしているうちに、目の前の人だかりが二つに割れる。ぽかんと呆けるシズクに向かって、飄々とした様子で歩み寄って来るのは案の定アキだ。人々の興味深げな視線を浴びながら、そんなものを全く意にも介さぬといった表情で、彼は目の前までやって来る。
 「…………」
 こんなに至近距離で真正面から向き合うのはもちろん初めての事だった。リースより若干背が高い。釣り上がり気味の瞳で見下ろされて、どうにも落ち着かなかった。場には妙な緊張が張り詰め始める。アルキル・キエラルトが、使用人に声をかけている。一体どういうつもりだと、観客として来ていた人々は二人に好奇の視線を浴びせてきた。そのプレッシャーを受け、シズクもまたアキがどういうつもりで自分の元にやってきたのかと身構えたのだが、
 
 「リサ姉に言づけを頼みたいんだけど、この後少し時間あるか?」

 何の事はない。彼の口から出た言葉は、今日部屋へ帰る道すがら、多くの使用人や使いの者から掛けられ続けた言葉と、ほとんど変わらないものだった。



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