追憶の救世主
第3章 「水と緑の城」
8.
「ご自分のお立場を考えれば、結論など自ずと出てくるでしょう」
背後からかかった声に、アリスは無意識に身を固くする。振り返って声の主を確認すると、大臣服に身を包んだ壮年の男がこちらを見ていた。
「ヴォンクラウン大臣」
やや掠れた声でアリスは男の名を紡ぐ。見るものを弾劾するかのような厳しい瞳を持つ、この国の重臣の一人である。若い時分からエラリア王家に仕えているため、アリスもその人となりはよく知っていた。己にも厳しく他者にも厳しい。冷徹な部分を持つ人だ。
厄介な人物に遭遇したと思った。これから叔母の開催するお茶会であるというのに、浮かれていた気分が一気に地に落ちるのを感じる。
神経質な動きで大臣はアリスに近づいてくると、厳しい目線を無遠慮にアリスへと向けた。
「バーランドの王子を、拒んでおられるようですな」
言われて、先日の王子とのやりとりを思い出す。ここ最近アリスは、バーランドの第2王子からしつこいくらいに言い寄られていた。誘いをはぐらかし続けているのも事実だ。だが、
「拒んでなど……」
「バーランドは」
アリスの言葉などまるで聞こえないというように、大臣はひと際大きな声で告げる。難解な授業を受ける生徒のような気分だ。きびきびとした彼の口調は、厳めしい教師のそれを想起させる。
「エラリアの隣国で、それなりに発展しております。帰国に手間はかからぬ距離ですから、陛下やフィアナ様が寂しがる事もない。おまけに彼は第2王子。王位継承者には兄王子が既に内定しており、彼も継承権の辞退を正式に申し出ている。……貴女の嫌う、権力闘争は起こりそうもない。貴女自身が起こそうと思わぬ限りは」
権力闘争。その4文字を、意味あり気に告げ、ヴォンクラウン大臣は再びアリスを見つめた。灰色の瞳は氷のようだ。背筋に冷たいものが降りる。
「お分かりですかな、アリシア王女」
「何を、でしょうか」
「今の貴女が取るべき最良の道は、あの王子を受け入れる事だ。彼がどうしても気に入らぬというのならば、ご自分で、早急に、具合のよい相手を見つけ、このエラリア王家を去る事だ」
にべもなく、大臣はそう告げた。
「貴女自身に過失が無くとも、あのお方の娘という事実がある限り、ここは住みにくい場所でしょう。水神の神子殿の元へ逃げ込んだ気持ちは理解出来なくもない。しかしながら、いつまでも結論を先延ばしにする事など出来ないのです。貴女もいつまでも子供ではない。いい加減、自覚すべきだ」
ここまで遠慮のない物言いは久しぶりに聞いたなと、どこか他人事のように思った。大臣の言葉は、刃となってアリスの心を容赦なく刺していく。しかし、反論する事など出来なかった。出来るわけがない。確かに、全てがその通りなのだから。ヴォンクラウン大臣は、何一つとして間違った事は言っていない。
「何のために、ここへ戻ってこられたのです?」
「それは……」
従兄弟の王位継承権獲得を祝うため。
正当な理由であるはずのその言葉は、紡ぐ前に消えていく。確かにレクトを祝うためにアリスは招待状を受け取り、エラリアに帰ってきた。これは間違いのない事実だ。その心にも嘘は無い。だが、大臣が聞いている事は、そういう事ではないのだ。
「私が、ここに来た理由は――」
招待状と一緒に入っていた、2枚目の手紙を思い出す。あれは、エラリア王からアリスへ宛てられた直接のメッセージであった。下にフィアナの添え書きもあったから、おそらく二人で綴った手紙であるのだと思う。柔らかな筆跡で綴られた内容を、頭の中で何度も読み上げる。
「私は……」
「――こんな廊下のど真ん中で立ち話されたら、通行の邪魔なんだけど?」
これ以上なく重い空気が降りたところへ、新たな声が舞い込んでくる。言っている内容の割に刺々しい言い方ではあったが、聞き覚えのあるものだった。ほとんど涙目になっていた瞳を、声の主に向ける。両腕を組み、呆れた表情でアリスと大臣を交互に見つめるのは、アキだ。
突然の介入者の存在に、会話は完全に途切れてしまう。それでもお構いなしといった様子で、アキは大臣の存在を完全に無視してアリスの目の前にやって来る。すれ違いざま、大臣と一瞬だけ視線を交わしたようだが、両者言葉を発する事はなかった。
「何ぐずぐずしてるんだよアリス! フィアナ様のお茶会、始まっちまうぞ?」
「え……?」
「ほれ、とっとと行くぞ」
言うと、アキはアリスの肩を掴んで強引に歩きだしていた。若干引きずられる形でアリスも動きださざるを得ない。ヴォンクラウン大臣の事が気になって、振り返って彼の方を見つめたが、特に止めようとするようなそぶりは見受けられなかった。ただ、冷たい光を宿す瞳はそのままに、アリスから離れる事はなかったが。
「…………」
「…………」
廊下の角を曲がって、大臣の視界から完全に逃れても、アキは歩みを止めなかった。アリスの肩に手を当てたまま、しばらく無言で歩き続ける。引きずられるように、アリスも歩くしかなかった。だが、そうして歩くのも、徐々につらくなってくる。
「……アキ」
普段よく喋る彼が黙り込むと、事の重大さがよく理解出来てしまい、たまらなくなる。肩に宛がわれた手に、変な力が込められているのも分かる。今しがた大臣に自分が何を言われたのか思い出し、体の芯が急速に冷えていった。
「アキ……もういい――」
「――いつから?」
アリスの言葉を遮ると同時に、アキはようやく歩みを止めた。肩にあった体温も離れていき、代わりに、痛いほど真剣な瞳に見つめられる。
「いつから、そういう事になってた?」
こちらを見る夏空の青は、静かな怒りに燃えていた。
「…………」
そういう事。とは、あのバーランドの王子の件を指すのだろう。ヴォンクラウン大臣が裏で手をひいて、王子をアリスにけしかけている。今は言い寄るだけの段階だが、先程の大臣の言動を見る限り、いつ彼との縁談話が持ち上がるかも分からないと思った。そういう状況に、いつから陥っていたのかと、アキは訊いているのだ。
青い真摯な瞳に、吸い込まれそうな錯覚に陥る。彼ならば、きっと全てを受け入れてくれるだろう。それくらいの確信を持てる程には、彼との付き合いは長い。だが、
「大丈夫、だから」
喉元まで出かかった言葉を呑みこんで、代わりにそう紡ぐと苦笑いを浮かべる。頼ってはいけない。もう誰にも迷惑はかけられない。直後に交差した瞳が、寂しげに揺らいだ事に気付いたが、それにも目をそらし、アリスは笑った。
「……バーランドの、第2王子って言ってたよな」
「アキ」
「他人の手まで借りて、アリスを落とそうだなんて、いい度胸してるよな!」
「違うの! お願いやめて!」
今にも王子の元へと飛び出して行きかねないアキを、アリスは背中にしがみつく事で必死に止めた。衣服越しにも、アキが震えているのが分かる。あの王子に対する怒りか、それともヴォンクラウン大臣に対するものなのか。
短慮で向こう見ずなところがある彼だが、人一倍正義感が強いのもまた、アリスは知っている。先程の大臣の言葉は、確かに十分アリスの心を切り裂いていた。彼が行おうとしている事も、少々強引過ぎる感がある。でも。
「全部仕方のない事よ……。王子との縁談話も、単純に考えて、悪い話じゃないと思う。……私は、そういう身の上の人間だから」
だからお願い、やめて。
掠れる声で紡ぐと、アキの体の力が抜けていくのが分かった。震えも徐々に収まっていく。やがて、静まり返った廊下に小さなため息が落とされた。アキの放ったものだ。
「……アリス、違う。そういう事じゃねーよ」
絞り出すように零された言葉は、しばらくの間アリスの頭の中に残って、消えなかった。
フィアナ王妃主催のお茶会は、彼女のプライベートな庭のテラスで行われた。王妃の私室に隣接した場所であるため、始めはびくびくしながら足を踏み入れたシズクであるが、庭に咲き乱れる季節の花々を目にした瞬間、緊張も一気に吹き飛んで行った。小ぢんまりとした、素朴な場所だった。水の都の名にふさわしく、小さな水路も通っている。風に乗って流れてくる香りは、ライラのものだろう。初夏の今頃の時期が、開花ピークであると、王妃に教えてもらった。
「え? それじゃあ、フィアナ様と陛下は幼馴染だったのですか?」
淹れたてのお茶を一口飲み、目を丸くしつつ告げたのはシズクだった。向かいの席でフィアナは穏やかに笑っている。
庭の話から、フィアナ本人の話になり、自然、セルト陛下との馴れ初め話へと移行したのだ。ざっと聞いたところによると、フィアナ王妃とセルト陛下は王族貴族にありがちな所謂政略結婚ではなく、純粋な恋愛結婚であるらしい。
「私の父は、セルトの父上の側近だったの。初めて彼と会ったのは、3歳かそこらじゃないかしら。一目で恋に落ちたわ」
「3歳にして既に乙女だなんて、おば様ったらやるわね!」
シズクの隣に座るリサが、にやりとして告げる。それに対してフィアナはふふふと可愛らしい笑い声をたてた。それがちゃんと様になっているのだから、感心するばかりだ。今年13歳を迎えた息子が居るとは、とてもじゃないが思えない。
「大きくなったらお嫁さんにしてねって、会う度に言って、あの人もその度頷いていたんだけど……冗談だと思っていたみたい。やっと結婚できる年になった時、あの人には既に想い人が居たのよ」
「まったくこれだから男ってのは駄目よねー。何でもない約束と思って甘く見てたら、後で痛い目見るんだから」
言って、リサは半眼になって、隣のテーブルにつく男共を見る。それに対してリースは無視を決めたようだ。うんざりした顔でリサを見つめた後、何も言わずにお茶に口をつける。代わり口を開いたのはアキだ。
「結婚できる年ってったって、フィアナ様、それって13歳だろ? さすがに当時18歳の男が手を出すにはちょっとなぁ」
「じゅ、13歳……!?」
「あら、シズクちゃん知らなかった? エラリアでは、13歳が最低結婚年齢なのよ」
「とはいっても、今時13歳で結婚する人間は稀だけどね」
リサとアリスからそう説明されても、若干シズクは呆けたままだった。そういえば、エラリアでは、古くは13歳を成人とみなしていたらしいという話を思い出す。レクト王子も、13歳となった今、王位継承権を獲得しようとしている。
いやしかし、結婚するにはそれはちょっと、若すぎる気がする。
「今なら別に違和感ないけどさ、13歳と18歳の5歳差はヤバイと思うだろう? って言っても、その3年後には結婚している訳だし、陛下も大概だと思うけどな」
「アキ!」
かなりの勢いで不敬に値する台詞を、アキはさらりと述べる。それに対してアリスが激しく非難の声を上げた訳だが、当のフィアナ王妃はからからと笑っただけだった。しかし、思わぬところから反論の声が上がる。
「――関係ないよ。年の差なんて」
比較的低い声で呟いたのは、それまで大人しく会話を見守っていたレクト王子だった。かちゃりと白色のティーカップをソーサーにつけて、王子はアキに挑戦的な視線を向ける。
「5歳差なんて、大した事ないよアキ。アリスと僕も、4歳差だし」
「ほぉ……。言うようになったなぁ、レクト」
言うと、挑戦を受けて立つとばかりに、アキも唇の端を釣り上げて笑う。たった今、男二人の間に不穏な空気が流れ始めた。ちなみに、リースは完全に他人のふりだ。
「…………」
何やら予想もつかぬ方向に話が流れていっているようで、シズクはどうしたものかと視線をうろうろさせたが、リサとフィアナは、また始まったわね、と楽しそうに呟き、既に傍観者の体勢に入っていた。その横でアリスが溜息を零している。どうやらこれは、日常によく見られる光景のようだ。
「残念ながらだな、レクト。アリスにとってお前は、可愛らしい弟君なんだぜ」
「弟じゃないよ、従兄弟! 従兄弟同士は、結婚出来るんだよ。そういうアキこそ、何時までたっても『精神年齢の低い幼馴染』の地位から脱却出来てないくせに」
「な……!」
いいところを突くわねレクト。とリサが呟く。確かに、4つも年下の少年と大真面目にこのような問答を繰り広げている点からして、間違ってはいないとシズクも思った。
「年の差を考えたら絶対に俺との方がバランスが良い!」
「だから年の差は関係ないって言ってるじゃないか。あと3、4年もすればそんなの気にならなくなるよ。絶対僕の方がアリスに相応しい大人になれる! ねぇ、リースもそう思うでしょう?」
「……何故俺に話を振る?」
レクトに尋ねられて、心底うんざりした顔でリースが告げる。それまで無視を決め込んでいたのが水の泡である。
「まだまだ俺に剣で勝てないクセして何が相応しいって?」
「絶対そのうち勝つよ! リースに教えて貰ってるし。自分でも練習してるし!」
「何ぃ! リース! こいつに手を貸すって事か!? 俺というものがありながら何て奴だ!」
「気色の悪い事をぬかすな! そして俺を巻き込むな!」
しな垂れかかってくるアキを、うざったそうに引き剥がしながら、リースは叫んだ。男3人のばか騒ぎに、とうとうリサとフィアナからは笑い声が漏れる。つられてシズクも立場を忘れて吹き出してしまっていた。ちらりとアリスを見ると、彼女もまた、呆れた表情を浮かべてはいるが、瞳を細めて笑っている。王女として取り繕った笑みではない。普段通りの、シズクのよく知る自然な笑みだ。その事に気づいて、密かに安堵した。
「…………」
エラリアに来て、アリスを取り巻く環境を少しだけ知り、それが必ずしも優しいものではないという事も知った。けれど、今この場所に限っては、おそらくそうではない。エラリアにも、アリスが笑える場所があるのだ。それが、今は無性に嬉しかった。
BACK |
TOP |
NEXT
** Copyright (c) takako. All rights reserved. **