追憶の救世主

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第4章 「前夜祭」

2.

 「アリシア様」
 中庭に咲いた花で冠を作っていた最中の出来事だった。
 いつもアリスと母の世話してくれている使用人が、城の中からそう声をかけてきた。名前は確かサニアと言った。ふくよかな体格で、優しい笑顔がよく似合うはずの彼女は、今に限っては強張った表情を浮かべている。
 「どうしたの?」
 「すぐに御支度なさいませ」
 冠作りを中断して立ち上がると、サニアと目線を合わせる。ずんずんと中庭に足を踏みこんできた彼女に比較的強引に手を掴まれる。咄嗟の事で冠を取り落としたが、拾う事は適わなかった。有無を言わさぬ動きに、彼女が急いているというのが分かる。
 「どこへ行くの?」
 「お部屋を移動するのです。城の奥へ。……心配はいりません。アルティナ様も一緒ですよ」
 心配いらないと言っておきながら、サニアの土色の瞳には不安が揺らいでいた。だが、母も一緒だという事にアリスの心は僅かに浮き上がった。ここの所母はずっと塞ぎがちで、自分の相手をあまりしてくれなかったから。部屋を移って気分を入れ替えるのだろうか。そうしたらまた、一緒に話をしてくれるだろうか。そう、軽い気持ちで考えていた。
 「……なんと嘆かわしい。アリシア様はまだこんなにも幼いのに」
 ほほ笑み、そしていそいそと後片付けを開始するアリスに何かを感じたのだろうか。サニアは表情をしかめると、ぎゅうっと幼い姫君を抱きしめたのだった。まだ子供のアリスには、この時のサニアの気持ちも、己の置かれた状況も全く理解する事が出来なかった。ぽろぽろと大粒の涙を零す優しい使用人を、きょとんとした瞳で見上げる事が精いっぱいだ。
 「心を強くお持ちなさいませ。アリシア様は、何も悪くはないのでございます」
 父ガルテアが死んだと聞いたのは、新しい部屋に移り住んだ翌日の事。それから数日と経たずにサニアは任を解かれ、悲しそうな顔で故郷に帰って行った。サニアだけではない。それまでアリスの周りに居た人間全てが、同じような末路を辿ったのだ。残されたのはアリスと、母のたった二人。その母も、それからすぐに病に倒れ、一年程して亡くなった。

 ――ご自分のお立場を考えれば、結論など自ずと出てくるでしょう。

 先日のヴォンクラウン大臣の言葉が、胸に深く突き刺さる。
 己の立場など、この十数年の間で痛いほどに理解出来ていた。サニアが言ったように、確かにアリス自身には非が無い。それは事実である。けれども、周囲からアリスに向けられる視線は、決して優しくはなかった。王家の裏切り者の血を引く娘。女王になれなかった姫君。同情と畏怖が同居した目で見られる度に、居場所がどんどん狭くなっていくような気がしたのだ。だから結局、自分はこの件に関して心を閉じた。
 己の立場を考えれば、簡単な事。この国に、迷惑をかけない方法で、極力この国から離れてしまえばいいのだ。エラリアで、自分が出来る事はあまりにも少ない。師匠であるセイラにもいい加減迷惑をかける事をやめねばなるまい。良いではないか。他国の王子との縁談話は、決して悪い話ではない。

 ――……アリス、違う。そういう事じゃねーよ。

 「アリス?」
 「――――!」
 暗い思考の海に沈みこみそうになった所で、突然声を掛けられてハッとなる。慌てて顔を上げると、釣り上がった青い瞳が、怪訝な色を宿してこちらを向いていた。黄土色のつんつん頭の幼馴染。アルキル・キエラルト。
 「なんだよ、ぼーっとして」
 「あ、うん。ごめんなさい」
 拗ねたように零すと、アキは手に持っていたパウンドケーキの最後のひと欠片を自身の口の中へ放り込んだ。
 「せっかく食べたかったって言ってたやつ、買って来たってのによ」
 言って、アキはアリスが両手に持っているパウンドケーキを指さす。それは、先程彼が食べつくした物と全く同じお菓子で、エラリアの城下町のお菓子屋で売られている人気商品の一つだった。城の中でも使用人の少女達がよく話題に上げているのを耳にする。今朝方アキに騎士団の練習場まで呼び出された時は一体何だと思っていたが、これを渡されて驚いた。食べたいと、何となく零したアリスの言葉を覚えていてくれたのだろう。
 「で? お味の方は?」
 「うん、美味しい。エラリアだと、あまり城下には出られないから……こういう味って久しぶり」
 素朴で、ほんのりと甘くて、口に入れた瞬間、幸せな気持ちになれる。以前、シズクとジュリアーノの町を散策した時にも、こんな風に二人でお菓子を頬張った記憶がある。あんなに自然体で町を散策出来たのは、アリスにとって初めてに近い経験だった。共に町へ繰り出す女友達など、それまでのアリスには居なかったから。
 「…………」
 急に懐かしさが込み上げてきて、瞳を細める。それ程昔の事ではないはずなのに、あれから随分と時間が経過したような気がした。状況も立場も、大きく変わってしまった。特にここ、エラリアでは――

 「おや。そんな庶民の食べ物、アリシア姫ともあろう者が口にするなんて」

 和やかな空気を断ち切ったのは、聞き覚えのある青年の声だった。休日で前夜祭の日という事もあって、午前の練習場に人気は少ない。それでなくても、ここは騎士団の連中くらいしか足を踏み入れないはずなのに、一体何故彼が居るのだろう。
 「使用人に尋ねるとここだと聞きましたのでね。……今日は前夜祭まで僕とデートするって約束だったじゃありませんか。アリシア姫」
 緩く波打つ金髪に整った容姿。軽薄な笑顔と共にこちらを見つめるのは、バーランド第2王子に相違なかった。ヴォンクラウン大臣が後ろ盾となり、アリスにしつこく迫っている人物だ。
 パウンドケーキを味わう事も忘れ、アリスは身を固くした。隣で、アキが警戒心むき出しの表情を浮かべているのが見える。それに対して、事を荒立てないでと視線だけで告げておく。
 王子はすぐ目の前まで歩み寄ると、しゃがみ込んで、座っているアリスと視線の高さを合わせてきた。まるで騎士が忠誠の口づけをする時のように、彼はアリスの手を厳かな動きで取る。
 「さあ、行きましょう。口直しに、極上のスイーツでも御馳走しますよ」
 「お誘いは、お断りしたはずです」
 手を取られた状態のまま、王子に向かって固く言い放つ。
 デートの誘いを受けていたのは事実である。だが、きっちりと断ったはずである。お誘いの手紙を持ってきた従者に直接アリスが告げたのだから。
 しかし、毅然としたアリスに対して、王子の方もまた譲らなかった。余裕のある笑みを浮かべ、アリスの手を握る。
 「僕の従者がそそっかしいのかな。断るだなんて、聞いていませんね」
 「では今ここでもう一度。お誘い大変嬉しいのですが、生憎と今日は予定がありますので、お断り申し上げます」
 王子に握られている手を、反対の手でやんわりと解く。そうして両者は真正面から見つめあう形となった。
 会話自体は他愛もない男女のやり取りであるはずなのに、空気がこれほどまで重くなるのは何故だろう。瞳と瞳の攻防はしばらくの間続いたように思う。
 「……ふっ」
 やがて、小さな溜息が零れた。バーランド王子の方からだ。
 「貴女もなかなか、強情ですね」
 言うと王子は立ち上がって、上からアリスを見下ろす形となる。デートは諦めたという事だろうか。だが、ほっとするどころかアリスの心は益々重さを増していく。黒い瞳で見上げた王子の顔は、それまでにないくらい、こちらを侮蔑する色を孕んでいたから。苦い記憶の中で自分に向けられた感情に近いそれに、背筋がぞくりと泡立つ。
 「ヴォンクラウン大臣が仰っていたでしょう。僕と一緒になった方が、貴女にとって堅苦しいだけのこの国で居るよりずっと良い、とね。拒んではいても、本当は貴女も、その通りだと思っているのではないですか?」
 「――――っ」
 痛い一言だった。黒瞳をいっぱいに見開いて、アリスはバーランド王子の冷たい視線を受ける。
 「ここに居ても、ただ委縮していくだけなら、完全に逃げてしまえば良い。どうしてそうしないのです? 裏切り者の血、家出王女と揶揄されてまで留まる意味もない」
 「……っ! そんな事は――」
 「違いますか? 向き合う勇気もない。かといって、レムサリアに中途半端な形で逃げたって何の解決にもなりませんよ」
 真正面からこちらを見つめる王子の瞳は、侮蔑の色を濃く宿すものの、それ以上に厳しさを内包していた。先日対峙した、ヴォンクラウン大臣の目に、驚くほどよく似ている。言葉は鋭利な刃物となって、アリスの心に深く深く沈んでいく。
 「水神の神子殿の側に居る事で、貴女はこの国から離れたつもりですか?」
 セイラの話が出た事で、それまで王子に立ち向かっていたアリスに、怯えが生まれた。水神の神子、セイラーム・レムスエス。エラリアで動けなくなって、心を閉じていた自分を、救いあげてくれた人物。
 「呪術の弟子になりたいと、アリシア姫からセイラーム殿へ直談判されたと伺いましたが、利用したのでしょう? 彼を」
 (違う、そんなんじゃない)
 心はそう悲鳴を上げるが、それが言葉になる事はなかった。声に出せなかった理由なんて、分かり切った事だ。本当はもうずっと分かっているのだ。自分が逃げているのだという事に。その道具に、セイラを使ってしまったのだという事に。
 「いい加減、彼も迷惑だと思っているでしょう。そろそろ匙を投げても――」

 ――やめて!

 アリスがそう叫ぶ前に、空気が鳴っていた。風でふわりと前髪が持ち上がる。突然の事で、咄嗟には状況が掴めなかったが、バーランド王子の整った顔に、白銀の剣が突き付けられている事だけは理解出来た。柄の部分にエラリア国の紋章であるライラがあしらわれた、騎士団の剣――アキの物である。落ち着いて考えれば難しい事ではない。それまで黙して座り続けたアキが、王子に剣を向けた。要するにそういう事だ。
 「アキ!」
 だが、その行動が意味するところまで考えが至って、悲鳴のような声を上げる。いかに上流貴族と言えど、騎士団の人間が王族に剣を向ける事など、あってはならない事だ。
 「良いのかい? 僕は、バーランドの王族だよ?」
 狼狽するアリスとは打って変わって、真剣を目の前に突きつけられているはずの王子は落ち着いたものだった。普通では腰を抜かす程の状況であるのに、そのまま悠然と佇み続け、土色の瞳を、険しい表情のアキに向ける。
 「君は、騎士団の人間だろう?」
 「ああそうだな。けどね、騎士団はあんたら王族を守るためにあるんじゃない。エラリアを守るためにあるものだ」
 アキの事だ。感情を露わにして怒鳴り散らすかと思いきや、王子に剣を向けたまま、彼が紡ぐ言葉は冷静そのものだった。
 「アリスはエラリアの大切な宝だ。その宝が脅かされて、剣を抜いただけだよ。何か問題でも?」
 「エラリアの宝ねぇ……ふふ、はははっ」
 アキの言葉を耳にした直後、余裕の笑みを浮かべたまま、バーランド王子は声を立てて笑い始める。面白い事を聞いたと、まるでそう告げるかのように。
 青ざめるアリスの横で、アキは表情を崩さずに剣を引く事はない。王子だけが一人、声を上げて笑い続けているという、何とも奇妙な空気が訓練場の中に流れた。やがて笑う事にも飽きてきたのだろう。茶色の瞳を細めると、バーランド王子は真正面からアキではなく、アリスを見た。
 「良いでしょう。デートは諦めます。けれどアリシア姫。……貴女が決断しないというのなら、僕は強行手段に出るしかない」
 口調は至極丁寧で穏やかで。けれども語っている内容は、決して穏やかなものではなかった。口元にどれだけ笑みを乗せても、こちらを真っ直ぐに見つめる瞳は、ちっとも笑っていない。
 「よく考えておいて下さい」
 甘い声でそう囁くと、アキの向ける剣に背を向けて、王子は颯爽とその場から立ち去って行く。ここに現れた時も突然の事だったが、居なくなるのもまた、突然である。ぼんやりと呆けるアリスが見守る中、やがて歩き去る背中も遠くなる。
 「…………っ」
 荒く息を吐いて、アキが乱暴に剣を納めたのは、バーランド王子の背中が、曲がり角に消えた瞬間の事だった。



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