追憶の救世主

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第4章 「前夜祭」

9.

 「よ。色男!」
 軽快なワルツが終わり、オルトロスの姫君が去って行った後、にやにや笑顔全開でこちらに声をかけてきたのは、勿論の事アルキル・キエラルトだった。
 「お前が誰かと踊るなんてな。さすがオルトロスの美姫」
 「……誘われて、断る訳にもいかないだろうが」
 肩に乗せられたアキの腕を邪険に払うと、リースはため息をつく。
 夜会で踊るなんて、いつぐらいぶりだろうか。こういう席で目立つ事は、極力やらないようにしている。だが、女性の方から誘ってきて、断る事も出来なかった。
 「王女の方から誘って来るなんてな。それだけ本気って事か?」
 「さぁな」
 さして興味もなさそうに呟くと、リースは飲み物に口を付ける。冷たいものが喉を通りぬけて行く感覚が、火照った体には丁度良かった。

 「――で? 誰に贈ったんだよ。ライラの5枚花」

 二口目を含んだところで急にトーンを変えてかけられた言葉に、リースは盛大に喉を詰まらせてしまう。不意打ちとはこの事だ。
 咳き込みながら、半眼でアキを睨みつけると、当の本人はしたり顔で笑っている。それにしても――
 「何で知ってるんだって顔だな。答えは簡単。レクトがうっかり口を滑らした」
 アキの言葉を受け、視線をレクトの方へ巡らせる。曲が終わった今、夜会の主役である王子は、アリスと談笑していた。年下相手に咎める気分にもなれず、ため息を落とす。
 「剣稽古中に偶然見つけたらしいな。最初は大して興味なさそうに見てたってレクトは言ってたけど……贈ったんだってな。誰かに」
 さすがに誰の手に渡ったかまではレクトも口を割らなかったらしい。その事に、ひとまず内心安堵する。
 あの白いライラは、レクトの練習に付き合って剣を振るううちに、リースが誤って傷つけてしまったものだ。珍しい自らのミスに苛立ちを覚えたが、手折ってしまったライラの花を目にした途端、そんな苛立ちも吹き飛んでしまった。5枚花の白のライラとは、奇跡のような確率でしか出会えないというのだから、もちろんこの目で見るのは初めてだったのだ。
 「オルトロスの百合姫に贈ったかと思ったけど……その様子だと違うみたいだしなぁ」
 「そういうのじゃないよ」
 自分でも驚くほどに硬い声がこぼれおちた。
 そう。別にそういうつもりで渡した訳じゃない。言い訳じみた言葉が胸中で響く。アキの持ち出してきた話題が引金となり、様々な事柄が頭の中で惹起されて、苛立ちの度合いは益々増した。
 「へぇ……もしかして断られたか? だからレクトも口を割らねーのかな」
 からかいの色を薄めて、ほんの少しだけ気遣うような声でアキが告げる。真実を言い当てた訳ではなかったが、不正解とは言い難い内容を受け、頭に血が上る。
 「だから、そういうのじゃな――」
 しっとりと、夜の空気に寄り添うようなワルツが流れ始めたのは、そんな時の事だ。
 楽団による2曲目の演奏が始まったらしく、踊りが再開された。紳士淑女達が手に手を取り合い、緩やかなステップを踏む。しばしぼんやりとその光景を目にしていたリースだったが、小さなざわつきが大広間の隅で起こった事で、意識がそちらに向いた。そして、視界に飛び込んできた光景に、無意識に身を固くしてしまう。
 「――――」
 翻ったのは、焦げ茶色の長い髪の毛だった。使用人の衣装もエラリアに来てから随分と見慣れたものとなっていて、髪型こそ普段と違っていたが、見間違えるはずがない。
 (シズク)
 だが、見知った少女の手を取っている人物には、心当たりが無かった。
 すらりとした長身で、身にまとった衣装は、周囲の貴族達と大して変わらないものだ。どことなく冷たさを宿す表情。視線を受けるシズクは、驚いたような困惑したような、何とも言えない表情を浮かべていた。
 拳を固く握りしめる。夜会の喧騒が急に遠くなったような気がした。
 「なぁ……お前さ、もしかして」
 だから、リースとその視線の先とを交互に見て、アキが困惑気味に呟いた声も、きちんと耳には入ってこなかったのだ。






 ステップを踏んで優雅に踊る男女の間で、シズクと青年は黙ったまま互いを見つめ続けていた。握られたままの手が、どんどん熱を失っていくのが分かる。頭の中の整理が追いつかない。否定と肯定を何度も何度も頭の中で繰り返すが、目の前の人物は夢でも幻でもない。その姿形が変わるわけでもない。
 焦げ茶色の髪に、不思議な色彩を放つ青い瞳。鼻筋の通った容姿は、確かに男性のものであるが、綺麗という言葉がぴったりと来る。見覚えが無い顔だ。けれど、確信にも似た気持ちが、シズクの中に沸き起こる。同時に、心臓が嫌なリズムで鼓動を打ち始めた。
 「あ……」
 呆けた声を零した時には、青年に手を引かれてステップを踏んでいた。緩やかなワルツに合わせて、その他の男女に混じりシズクは踊る。ダンスなど知らない筈なのに。足は自然と動いた。まるで体のどこかで覚えているかのように。
 踊れてしまっている自分自身に、激しく混乱してしまう。ふわふわとして落ち着かなかった。ぐにゃりと床が曲がり、宙に浮いているような錯覚さえ覚える。
 「――何故、この国に来た」
 ぼんやりとしていたシズクの意識の中に、その声は突然飛び込んできた。誰が発したものかなんて、今更探る必要もない。改めて前を見つめると、深い色のブルーがシズクの瞳に映り込んだ。
 「っ……人違いじゃないですか」
 そうにきまっている。そうであって欲しい。
 青年の視線から逃れるようにして、シズクは瞳を逸らした。どくどくと早鐘を打つように心臓が暴れる。今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。それ程に、シズクにとっては受け入れがたい事態だったのだ。しかし――

 「ジーニア」

 紡がれた己のもう一つの名に、これが逃げようもない現実なのだと、思い知らされた。その名で自分を呼ぶ人は、今となっては本当にごく一部に限られている。
 「…………」
 泣きそうな表情で青年の顔を見ると、あの人によく似た容姿の上に悲しそうな表情を浮かべて、彼はこちらを見つめていた。
 「今すぐここから去れ」
 「え……」
 「お前は、これ以上もう関わるな」
 青年の動きに導かれてターンする。曲は最も盛り上がる箇所に差し掛かっていた。周囲の男女は熱で浮かされて、夢見るような表情で踊りを踊るのに、自分のこの、緊迫した状況は何なのだろう。
 「イリスピリアに、ジーニア・ティアミストあり」
 青年の口から紡がれた言葉に、いよいよ全身が悲鳴を上げた。
 それは、少し前にイリスピリア王が放った声明文の一節だ。魔族(シェルザード)の挑発を受けて立つ形で、彼らへと贈ったメッセージ。全世界に向けて放たれたこの声明は、イリスピリア城内でももちろん噂になった。中には、シズクがジーニア・ティアミアストではないかと言い当てる者まで現れたくらいである。だが、それら全てが、シズクの予想の範疇であった。何を言われても、しらを切り通すつもりでいた。承諾した瞬間から、それなりの覚悟をしていたつもりであるし、その必要も感じていたから。――けれど、こんな事は予想していなかった。
 「お前が、救世主だって?」
 「……いや」
 首を振って拒絶を示しても、彼は会話を切るつもりはないようだった。逃れようとするシズクの手を、ますます強い力で握りしめると、シズクと同じ色をした瞳で、怒りを露わにする。
 「ティアミストの次期当主は、ジーニア・ティアミストじゃなかったはずだ」
 「それは……」
 「お前は、シーナの再来になんて、ならなくていい」
 「やめて――!」
 ジャンッと、ひと際甲高いバイオリンの音が会場に響いた。2曲目が終わりを告げたのだ。
 再び歓声が上がると、大広間を暖かな拍手が包み始めた。しかし、シズクに場の雰囲気を楽しめる余裕などあるはずがない。全身が鼓動を打つように波打ち、息が上がっている。涙目で件の青年を見つめると、彼は実に冷静なものだった。少しも表情を変える事なく、人形のような顔で冷めた視線を浴びせて来る。その首筋にきらりと光る銀色を見つけて、シズクは戦慄した。
 「なんで……」
 伸ばしかけた手を、大きな手で阻まれる。でも、見間違える訳がない。それは、取り戻したいと、強く願っていたものだから。
 「……お前は表舞台に必要ない。今すぐエラリアを去れ」
 「なんで貴方が、それを――」
 「これが本当の最終警告だ。間もなく世界は荒れる。流れ出した時は、もう元には戻らない。これも……ほんの序章に過ぎないんだよ――」
 ひと際強い調子でそう紡がれた直後、大広間のランプが一斉に消える。会場は突然暗闇に包まれて、王族貴族達の中から悲鳴が上がる。がしゃんがしゃんと、派手にガラスが割れる音が、参加者をより混乱へと導いたようだった。
 それまできつく握りしめられていた手が解放される。同時に青年の気配も遠くなった。このままでは、行ってしまう。
 「待って!」
 パニックを起こして騒ぎ出す参加者達を押しのけて、気づけばシズクはそう叫んで走り出していた。暗闇の中では、大広間の出口がどこかもよく分からない。何度も人と接触するが、それが誰かも判断がつかなかった。走り去る足音はあっという間にざわめきに呑みこまれる。後ろ姿を目で追う事も、この状況ではかなわなかった。
 「皆様、落ち着いて下さい! すぐ灯りをお持ちします――落ち着いて!」
 そう大声を張り上げる男性の声も、酷く狼狽した様子で、掠れてしまっている。
 (ほんの、序章にすぎない)
 青年が放った最後の言葉を、頭の中で反芻する。人々の波を掻い潜って前進しながら、シズクは酷く愕然としていた。追いかけたいのに、追跡はきっと無意味に終わるだろう。それは分かっている。だが、足を止める訳にも行かなかった。
 (あぁ、そうだ……)
 これは、現実に起こっている事だ。夢でも幻でもなく。
 東の森の魔女に会って、イリスピリアへ帰還してからのあの数か月は、嵐の前の静けさだったのだ。エラリアでずっと続くかに見えた穏やかな時間も、とうとう終わろうとしている。
 割れた窓ガラスの破片が床に散らばり、月明かりを受けて鮮やかに輝く。その光景をぼんやり見つめながら、もう幾度目になるだろうか。また人と衝突してしまった。闇に目が慣れてきたとはいえ、やはり誰だか咄嗟には分からない。

 「シズク」

 けれど、耳元を撫でた声は、聞き覚えのあるものだった。
 思わず足を止めて、青年を追いかける事を完全に放棄してしまうと、シズクは声の主の顔を見上げる。弱い月の光だけが唯一の灯りである状況で、普段知っている色彩とは大きく異なっていたけれど、恐ろしい程に整った顔の少年がリース・ラグエイジである事は確かだった。夢中で走っているうちに、王族達が数多く居る辺りまで来てしまったのだろうか。
 「リース……」
 困惑した頭の中では、リサの付き人としての身分を取り繕う事はもはや出来なかった。慌てて口を噤むが、この大騒ぎの中、シズクの声が耳に入っている者など、声を向けた人物以外に居ないだろう。感じる彼の雰囲気は、夜会の席でひと際目を引く王子のそれではない。よく知る少年の空気を感じて、強張っていた体の力が緩んでいく。
 背後から淡い月明かりを受け、リースの表情はよく見えなかった。しかしある時、思い詰めたように口を引き結び、瞳を細めたのを認めて、それが酷く憂いを帯びていたものだから、シズクはとても気になった。彼が何を思っているのか。もっとよく確認しようと、リースの顔を覗き込もうとしたが――
 「…………?」
 すとん、と。急激に力が加わった次の瞬間には、人肌のぬくもりに触れていた。自分のものとは違う匂いが身を包み、それが困惑の度合いを大きくする。
 早く灯りをと叫ぶ男性の声が遠くに響く。不安と恐怖でざわめく婦人達の姿も、どこか違う世界で起こっている出来事のように見えた。闇に包まれた大広間の中で、パニックを起こす人々とは別の意味でシズクは狼狽し、そうして思考を完全に遮断せざるを得なくなっていた。
 つい先程、現実を突きつけられたばかりだというのに。もはやこれが夢か現実か、分からない。
 「―――――」
 ランプが徐々に灯りだし、人々が落ち着きを取り戻し始める頃まで、ずっとリースはシズクを抱きしめたままだった。



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