追憶の救世主

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第4章 「前夜祭」

10.

 「アリス! アリス大丈夫!?」
 部屋が暗闇に包まれた瞬間、従兄弟であるレクトの声がすぐ側で聞こえた。ざわめき、混乱し始める周囲の者達から庇う様に腕を伸ばし、レクトはアリスに幼さの残る手を差し出してくれた。窓ガラスが割れる音が響いて、あちらこちらから悲鳴が上がったのがその直後の事。直感で、ああ始まったのだと、そのような事を思った。今回のエラリア滞在は、アリスが驚くほどに穏やかで、落ち着いた日々を過ごす事が出来ていた。それがきっと、終わったのだ。そして、何かが始まった。

 「――大丈夫でしたか? アリシア姫」

 甘ったるい声でそう言葉をかけられたのは、部屋に灯りが戻り、騒ぎが少しずつ収まろうかという、そんな時だった。緩く波打つ金髪に、整った顔は、最後に見てからまだそれほど時間は経っていない。そう、バーランドの第2王子だ。
 「大丈夫です。貴方こそ、お怪我はありませんでしたか?」
 隣でレクトが静かに警戒心を燃やしているのが分かったが、アリスはあくまで笑顔で王子にそう声をかける。真っ直ぐに、濃いブラウンの瞳を見つめて言うと、少しだけ王子は、目を見開いたようだった。
 「僕も大丈夫ですよ。しかし、せっかくのパーティーが台無しですね。ダンスの相手をお願いしたかったのに」
 やや冗談めかして王子はそのように告げると、大広間の様子を眺め、そうしてある時、瞳を細めた。
 「ねぇ、アリシア姫。……何かが始まるかも知れませんね」
 「え……?」
 それまでに聞いたことがないくらいに、硬い口調だった。バーランド王子の声とは思えぬ、真剣な声色に、思わずアリスは声を上げていた。出会った時から一度だって、彼の顔から軽薄な色が消えた事はないのに。今のこの、鋭利な刃物を連想させる表情は何なのだろうか。そして何より、自分の直感と全く同じ内容を告げる言葉に、一瞬耳を疑った。
 「…………」
 すうっとブラウンの瞳をこちらに戻すと、王子はただ真っ直ぐこちらを見つめてくる。引き締まった表情を浮かべていれば、彼はここまで精悍な顔になれたのかと。そんな事を思う。
 「何が起ころうとも僕の信念は変わりません。僕は祖国の為、そして同盟国であるエラリアの為に立ち上がります」
 紡がれた言葉は、確固たる意志に燃えていた。決して冗談で零した言葉ではないのだろう。これがきっと、バーランド第2王子としての彼。
 「――貴女はどうです?」
 問われて、アリスの胸は小さく鳴いていた。僅かな動揺が体の中を走り抜けるが、ぎゅっと握られた手と、そこから伝わるレクトのぬくもりを感じて、小さく息をつく。明日皇太子となるこの従兄弟は、ただ黙って自分を支えてくれる。自分は独りではない。この国にだってちゃんと居場所は存在する。
 「――――」
 王子の顔を見上げたアリスの黒瞳に、揺らぎは無かった。軽薄な表情ばかり浮かべていた王子が、ようやく違った一面を自分に見せてくれたのだ。目をそらすわけにはいかない。
 視線を受けた王子もまた、片方の眉をぴくりとはね上げて、興味深そうにこちらを見つめていた。ブラウンの瞳に宿るのは、半分は挑戦的な色――もう半分は、歓喜の色だ。
 「貴女の下す決断を楽しみにしていますよ」
 しばらく見つめあった後、バーランド王子はぽつりとそう告げて、去って行った。






 結局、騒ぎがきっかけで夜会はお開きとなってしまった。会場の明かりが一斉に消えてしまった原因も、窓ガラスが割れた原因も、全てが不明のままだ。現場には凶器はおろか、石が投げ込まれた跡さえもなかったという。だとしたら考えられるのはたった一つだ。魔法を使われた。そういう事だろう。
 「…………」
 「シズクちゃん、顔色が悪いけど大丈夫?」
 参加者達の大部分が会場を去り、リサ達一行も部屋へ向けて歩き始めていた。そんな折、ずっと黙ったままのシズクを気遣い、リサが声をかけてきたのだ。だが、そういうリサの顔色こそ優れないと思う。彼女にしては言葉少なで、何とも言えない雰囲気の中、こうして歩いていた。
 「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
 我ながらなんて張りの無い声だろうと思ったが、無理矢理笑顔を浮かべてみせる。リサが益々心配そうに眉をしかめるのを見ても、シズクの心中はそれどころではなかった。色々な事が起こりすぎて、訳が分からない。足取りも重いし、体もだるい。
 「念の為、城の警備を強化させております」
 リサの隣を歩きながらそう告げるのは、執事長代理のディランである。先程の騒動からずっと彼は、リサ達イリスピリアの主賓の警護についてくれているのだ。彼によると、明日の継承権授与の儀式は、予定通り行われるらしい。
 「お疲れの様子ですね。今夜は十分にお休み下さい」
 ディランが言葉を向けたのは、シズクに対してである。紳士的な声色で告げると、彼はやんわりとした笑みを向けてくれる。確かにディランの言うとおり、自分は随分疲れているのだろう。ずっと感じている倦怠感が良い証拠だ。メインイベントが執り行われる明日は、今日以上に長丁場となる事が予想される。体調を崩す前に、今夜は早めに床に就かなければ。
 そんな内容の事を頭の中に巡らせながら、再びディランの顔を見つめていたシズクだったが、彼の隣を歩くリースの姿を視界に入れた瞬間、先程とは違った意味で顔色が変わってしまう。顔に赤みが差して心拍数が上がる。即座に目を逸らす事でそれ以上の困惑だけは回避した。
 「…………」
 結局あの騒ぎの後、リースとは一言も口をきいていない。部屋にようやく明かりがもたらされた瞬間、彼の体温は自分から去って行った。まるで世界が変わったように、明るい部屋で二度目に見たリースの顔は、イリスピリア第1王子のそれとなっていたのだ。
 暗闇であった事と、周囲の喧騒が凄かった事もあり、誰からもあの光景を目撃されてはいなかったようだった。衆目に晒されなかったのは幸いだが、反面、こうして独りで悶々と考えるしかないというのが現状である。考えた所で、おそらく答えは出ないというのに。
 (どうして、あんな事をしたの?)
 言いたくても言えない質問は、シズクの胸の中だけで何度も繰り返される。そしてその度に、倦怠感と胸の疼きは増していく。あれはすべて夢だったのではないのだろうか。暗闇の中で、周りも皆パニックを起こしていたし、シズクの記憶に有りもしないおかしな光景が入りこんでいたって不思議ではない。そういう事として片付けようとして、けれどあの時感じた体温や香りを思い出すにつけ、やはりあれは夢にしてはリアル過ぎる出来事だったと、思わずに居られなかった。

 「――では、私はこれで」

 我に返ったのは、ディランの声を耳にした時だった。
 慌てて周囲を見渡せば、見覚えのある廊下と、扉が見える。いつの間にか、リサの部屋の前まで到着していたらしい。ぼーっとしすぎである。周りが見えなくなる程に、思考の淵に落ちていた。
 お礼の言葉と会釈を交わし、緩やかに去って行く執事の後ろ姿を見送った後で、ため息を一つ。今日は本当に色んな事がありすぎて、疲れてしまった。部屋に入って早く休もう。リサを導く形で、シズクは部屋の扉に手を懸けようとした。そんな時だ。

 「シズクちゃん……」

 その声があまりに思い詰めた風だったものだから、一瞬、リサが発したものだとは気付けなかった。
 「シズクちゃんは……シンと、本当に知り合いじゃないの?」
 ぎくりと背中が鳴る。振り向きたくないと直感的に思ったが、そうする訳には行かなくて、仕方なくシズクは主である麗しの王女の方を振り返る。
 普段は勝気な光で輝いているエメラルドグリーンの瞳は、今は随分と不安げに揺らいでいた。リサの後ろで二人の様子をうかがうリースも、彼女とそんなに変わらない表情を浮かべている。彼らもきっと、自分と同じように困惑しているのだ。
 どう答えたら良いのだろう。答えが見つからなくて、シズクはただ緩やかに首を横に振った。否定の意味で、だ。
 「シンという名の知り合いは、わたしには居りません」
 そう、シンという名前には覚えが無い。そのような名前の人間は知らない。それだけは確かな事である。
 「じゃあ、だったら何で……」
 シズクの答えに、リサは納得できないといった表情で首を振る。知り合いでも何でもなければ、先程のパーティーでのあれは、何だったのだと、そう言いたいのだろう。夜会での青年とのやり取りを、おそらくリサもリースも目撃していたのだ。
 「――分からないんです」
 先程よりは勢いよく、首を振る。零した声は、掠れてしまっていた。リサの顔を見ると、彼女は益々怪訝な色を強めている。だが、本当に分からないのだ。
 「シンという名も、あの顔も声も、わたしの知らない人のものである筈なのに……」
 度々感じる違和感と、既視感。名前も顔も声も、何一つとってもシズクの記憶とは一致しない。けれど、城下町で初めて彼の姿を目にした瞬間、するりとその答えは、自分の中に降りてきた。
 「そんな筈ないのに。馬鹿な考えだと思っていたのに」
 「シズクちゃん……?」
 今日は本当になんて一日だろう。体が鉛のように重く感じる。考えても考えても、何が正解か分からない。
 とうとうあからさまに表情をゆがめると、シズクは額に右手を当てる。心配そうな表情のリサを一瞬視界に入れて、すぐに閉じた。くしゃりと前髪を掴む。
 焦げ茶色の髪、不思議な色彩を宿す瞳。鼻筋が通った小奇麗な容姿。
 「――見覚えがあるんです、あの色と面影には」
 リサとリースが息を呑む音が聞こえた。と同時に、廊下をバタバタと走る足音が耳に届く。音はどんどん大きく、近くなる。向かって来ているのだ――こちらへ。

 「シズクさん!」

 名を呼ばれて、弾かれたように瞳を開けた。突然の来訪者は、肩で息をした状態で目の前に立っている。丸眼鏡に黒髪黒目の好青年。先程夜会で再会したセイラーム・レムスエスに違いないのだが、こちらを見る彼の表情には驚くほど余裕というものが存在しなかった。セイラという人は、例えそれが危機的状況だとしても、滅多に焦るという事はしない。少なくとも、シズクの知る限りではそうだ。その彼から、一切の余裕が消えている。
 「セイラ様……」
 「どうしたんだよ、急に」
 普段とあまりに違う様子のセイラに、リサとリースも困惑を露わにした。口ぐちにそう言うと、シズクとセイラへ交互に視線を寄せてくる。だが、セイラは二人の方に視線を向ける事はしなかった。ただ真っ直ぐシズクを見つめて、未だ肩で息をしている。
 彼もシズクと同じだ。咄嗟にそう思った。困惑しているのだ、理解し難い光景に。
 「――カインなのですか?」
 何の前置きもなく、端的にそう尋ねられる。セイラの声は、ほんの少し震えていた。それが困惑から来るものなのか、驚きから来るものなのか、シズクには分からなかったが、紡がれた名前を受けて目を見開き身を硬くする。そんな馬鹿なと思う反面、やはりそうなのかと、諦めにも似た気持ちが胸に沸き起こった。
 「二人で何の話を? ……何故あの子がこんな場所に居るのですか?」
 セイラの言葉を受けても、シズクは泣きそうな顔で首を横に振るしか出来ない。シズクにだって分からないのだ。彼があの場所に居た理由も、目的も。
 「カイン?」
 耳慣れない名前を聞いて、眉をしかめたのはリサだった。見ると、彼女の傍で、リースも同じようにしてこちらを睨んでいた。そこでセイラとシズクの睨みあいは中断される事になる。
 「一体誰の事を言っているの? カインって……」
 彼らにとっては知らない名前。知らなくて当然の名前だ。だってその名前を持つ人間は、とっくの昔に死んでしまった筈だから。シズクもセイラも、少なくともそう思っていた。あの青年が現れるまでは。
 「……シンと名乗る彼を、わたしは知りません。でも――彼がカインという名前の人だというのなら、話は変わってくる」
 ジーニア。と、自分の昔の名を囁かれた時、何故だかしっくり来てしまった。すとんと胸の中に、安定感のようなものが落ちたのだ。
 長い間忘れていた記憶の中に、掛け替えのない人達の存在があった。東の森の魔女の元で取り戻したそれらの記憶の中に、ジーニア。と、少し呆れた表情で、自分をそう呼んだ人物が居た。
 「カイン・シエル・ティアミスト――わたしと同じ色の瞳と髪……そして、あんなに濃く母の面影を宿した人に、わたしは他に心当たりがありません」



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