追憶の救世主

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第4章 「前夜祭」

 ――思い出すのはあの日の光景。

 初夏の風が舞う自宅の庭を、ジーニア・リル・ティアミストは歩いていた。今年で4歳になった彼女の足取りは、未だに少し危なっかしい。
 かさかさと、足を踏み出す度に芝生が躍る。お屋敷と言える程大きくはないが、セーレーの町の中では広い部類に入るこの家の庭は、彼の憩いの場だった。
 「――お兄ちゃん」
 目的の人物をその独特の色合いの瞳に捉えて、ジーニアは声を放つ。大きな切り株に腰を懸けた少年が、彼女の探し人だ。呼びかけに答えてこちらを振り返る少年の瞳の色も、髪の色も、ジーニアと全く同じ。それもそのはず、二人は兄妹だった。ただ一点、大きく違うところを挙げるならば、両親どちらの面影も受け継いだジーニアに比べて、3つ年上のこの兄は、断然母親似の容姿をしているところだろうか。鼻筋が通った綺麗な顔立ちをしている。将来は美人になるぞと、伯父からからかわれる事があるくらいだ。
 ――カイン・シエル・ティアミスト。それが、兄の名前だった。
 「ジーン? そろそろ出発だろ、用意は出来てるのか?」
 兄の質問に、ジーニアは不機嫌そうに眉根を寄せる。今日からしばらく、ジーニアは母と外出する予定になっていた。目的地は、イリスピリアの首都であるイリスである。母の話によると、何年かに一度の大事な用事をしに行くらしい。イリスピリアの素敵なお城に滞在する事が出来ると聞いて、ジーニアは上機嫌になった。しかし、
 「なんで、お兄ちゃんは一緒に行かないの?」
 不機嫌そうな声でもって、最大の不満であり、疑問を零す。
 そう。大きな町へのお出かけなのに、兄は一緒に行かないのだと言う。自宅には父が残るので、もちろん何も問題はないのだが、大抵どこに行くにしても自分達と行動を共にするカインが、今回は自ら行かないと言ったらしい。
 表情を曇らせるジーニアを見て、カインは苦笑いを浮かべた。そして、読みかけていた本を閉じると、首をゆっくり横に振る。
 「……イリスには、行きたくないんだ」
 「なんで? お祭りがあって、楽しい事がたくさんあるってお母さんが――」
 「イリスピリア城に行って、何が楽しいもんか」
 棘のある言葉にハッとなって兄を見つめると、彼は眉を寄せて表情を歪めていた。いつになく不機嫌だ。何か、言ってはいけない事を自分は告げてしまったのだろうか。そう思い、おろおろしだすジーニアの頭を、カインはぽんと軽く叩いてため息を一つつく。
 「どうせ僕は、そのうち王家に仕える。今回参加しなくても、いつかは祭りに出なきゃいけなくなるさ」
 「王家……? 仕える?」
 訳のわからない単語をたくさん並べられて、今度は首を傾げるしかなくなる。兄は、自分と違って頭がいい。普段から難しい本をたくさん読んでいるし、大人が使うような単語もたくさん知っている。だから、ジーニアが知らない言葉をわざと使ってからかわれる事も、たまにあった。けれど、今のこの状況は、普段のからかいとは少し違う気がする。
 「……ごめん。ジーンは何も知らなくていいんだよ。知る必要なんてない」
 困惑を露わにする妹の姿に、兄は小さく吹き出すと、深い色をした瞳を細める。悲しそうな、そうでないような、曖昧な表情を見て、ジーニアは少し不安な気持ちになった。
 「母さんの後を継ぐのは僕だから、お前は何も背負わなくてもいい――」

 ――お前は、これ以上もう関わるな。

 そう告げた青年の顔は、あの日の兄のものに酷くよく似ていた。



11.

 「キユウ・ティアミストには、二人の子どもが居た」
 セイラの言葉を耳にした瞬間、リサは酷い既視感に襲われていた。
 あれはいつだっただろう。そう、シズクがイリスピリアを初めて訪れた時だ。彼女に対する父の態度があまりにおかしかった上に――ティアミスト、と。父の口から零された耳慣れない単語に疑問を持って、リサは国立図書館の特別な保管庫へと侵入したのだ。その時、セイラから聞かされていた内容である。
 イリスピリア王家に仕えた最後のティアミスト家の魔道士、キユウ・ティアミスト。彼女には、二人の子どもが居た。
 「一人はジーニア・ティアミスト――シズクさんです」
 セイラが告げると、その場の者達の視線は一斉にシズクの方を向いた。未だ使用人の衣装に身を包んだ彼女は、身を硬くしてソファに深く座りこむ。
 先程のやり取りの後、内容的に、そのまま廊下で立ち話をする訳にもいかなかったので、リサが一同を自身の個室に招き入れたのだった。程なくして、アリスも顔を出した。夜会で着ていた水色のドレスのまま、慌てた様子で部屋のドアを叩いたところからして、騒動の後、自分やシズク達がどうなっているのか気になっていたのだろう。彼女だけではない、リサも未だに紅色のドレス姿のままであるし、この場に居るリースやセイラもまた、パーティー用のスーツ姿のままだった。傍から見れば、異様な光景に見えない事もない。
 「――もう一人の子どもの名前が、カイン・ティアミスト」
 凛としたセイラの声で、リサは周囲を眺める事を中断させる。エメラルドグリーンの瞳を水神の神子に向けると、彼の闇色の瞳は、一瞬揺らいだように見えた。
 カイン・ティアミスト。リサにとっては聞き慣れない名前と響き。しかし、今夜になって突然、頻繁に聞かれるようになった名前。困惑気味な表情で、先程シズクの唇から零されたのも、この名前だ。
 「ジーンの3つ年上の兄で、ティアミスト家の長男――次期ティアミスト当主の座が約束されていた人物です」
 次期ティアミスト当主。その名が意味する重みを理解出来るくらいには、リサも様々な事に足を突っ込んでいた。
 もし12年前、ティアミスト家が滅びていなければ、今頃イリスに出向いていたのは、キユウではなくその跡取り息子だったかも知れない。イリスピリア王が世界に向かって放った名前は、ジーニア・ティアミストではなく、彼のものだったかもしれない。
 「……それが、シンだというの?」
 未だに信じられないという表情を浮かべて、リサが告げた。セイラの口から語られる人物と、リサが出会い、幾度かの邂逅を経て少しだけ親しくなれてきた青年とをいきなり結びつける事など困難だ。けれど、心の片隅では妙に納得してしまっている自分が居るのもまた、事実だった。
 シンの姿を初めて見た時、どことなく違和感のような、不思議な感覚が体に走ったのを覚えている。
 「はっきりとは分からないですよ。わたしの思い違いかも知れないし……」
 「あそこまでキユウに似ていて、あの色の瞳を持つ青年が、そうでないとは僕には到底思えません」
 戸惑い気味に零したシズクの言葉を、セイラは穏やかな声でしかしはっきりと否定したのだった。それを受けて、シズクの瞳が僅かに揺らいだのが分かる。
 「彼はカインだ」
 迷いなど一切ない、断定する言い方だった。凛としたセイラの宣言に、部屋の中は一気に静まり返る。続いて沸き起こる、妙にぴりぴりとした緊張感。
 死んだと思われていたティアミストの次期当主が、実は生きていた。普通ならば感激したり、喜んだりするところを、セイラはずっと深刻な表情をうかべたままである。彼の妹であるシズクですら、先程からずっと視線を右往左往させて混乱を露わにしている。
 「何故今頃になって、彼はこんな形で姿を現すような事をしたのでしょうか」
 彼らが素直に喜べない原因は、偏にカイン・ティアミストの動きにあるのだと、リサは思った。ティアミスト家が滅びたのは12年も前だ。しかし、今日までカイン・ティアミストの死を、誰も疑う事がなかった。その間ずっと、彼は己の存在を隠してどこかで生き延びていたという事だ。そして、魔族(シェルザード)の不穏な動きや、ジーニア・ティアミストという存在が顕在化してから、突然セイラやシズクの前に飛び出してきた。……いや、正確にはもう少し以前からだろうか。リサがシンと名乗る青年と初めて出会ったのは、およそ2月前。イリスピリアの国立図書館の中だった。少なくともその頃には、彼は何らかの動きを開始していた。
 「……夜会の席で、彼とどのような話をしたのですか? シズクさん」
 セイラの言葉で、一同の視線は再びシズクへと集まる。使用人の衣装に身を包んだ少女は、ティアミストブルーの瞳を細め、小さくため息を落とした。
 「――これ以上関わるなと」
 ぽつりと零された声は、妙に落ち着いていた。
 「シーナの再来になんてなる必要がないから、今すぐエラリアを去るよう言われました」
 「エラリアを去れ……ですか」
 苦々しい声を零したのはセイラだ。普段、ほほ笑みを絶やす事がない彼らしからぬ苦笑いを浮かべて、漆黒の瞳でどこか遠くを見るようになる。
 「カインは、ひょっとしたら、全ての事を把握しているのでしょうかね」
 「……何か、気になる事でもあるのですか? 師匠」
 心配そうに告げるアリスの声を受けて、セイラは小さく肩をすくめる。そして、軽く身を起こすと、居住まいを正した。浮かべるのは、先程よりも濃い苦笑い。そして――苦悩だ。
 「イリスピリアの情勢は、少しずつ悪くなっています。魔物絡みの事件や事故も、ここにきて東部から横に伸び、西部へと拡大している上、徐々にイリスピリア国外に広がり始めた。……もちろん、エラリアにも」
 部屋の中の空気が、また一段と重くなったような気がした。
 イリスピリアとエラリアは、イリスピリアの北東部でその領土が接している関係にある。だからこそ国交も盛んで、第一の友好国となり得るのだが、その反面、良くない事もまた、陸伝いに真っ先に流れ込みやすい。
 イリスピリア東部から始まった情勢不安が、国境を超えてエラリアにも及び始めている。
 事件に絡んでいるのは、状況的に見て魔族(シェルザード)達である。この国に、彼らの足が伸びてきているという事だろうか。
 「――更に、不可解な事が起こりました。つい先日の話です」
 「不可解な事?」
 「イリスピリア王の元に、ある国の王から書簡が届いたのです。国際会議の参加国に、自分の国も加えてくれという要請で、それ自体は別段珍しい内容ではありません。ですが……問題は、その国の名前です」
 静かな口調でセイラが告げた。何か、嫌な事を告げられる前触れのような、ぴりぴりとした緊張感が漂う。
 「ファノス。と、書簡には国名が記されていました」
 「……ファノス?」
 言って、リサは眉をしかめる。
 現状、国際会議への参加が適っていないくらいの国だ。有名な国である筈がないのに、ファノスという名にリサは聞き覚えがあった。当たり前だ。
 「13年前の紛争の、引き金になった国の名前だな」
 その場の全員が辿りついたであろう答えを紡いだのは、リースだった。
 「でもファノスは、紛争が終結した時に王家が滅んで、無くなったはずよ」
 慌てた調子で口をはさんだのはアリスだ。彼女の言うとおり、ファノスという国は既にこの大陸から消滅したはずである。13年前、ファノス国王が暗殺された事件を皮切りに、世界中を巻き込んだ大規模な紛争が起こった。幾つかの悲劇の末、争いが終息しようとしたその果てに、大元となった大国ファノスは滅びたのだ。今では史実にしかその名は登場しない。しかし、その国の王を名乗る者から、父へと書簡が届けられた。
 「王と名乗る人物の名は、カロン。……カロン・ライドル・サード・ファノス」
 書簡に綴られていたであろう人物の名を聞いた瞬間、シズクとリースが大きく息を飲んだのが分かった。
 「カロン……」
 「シズクさん達が、シュシュの町で対峙した魔族(シェルザード)も同じ名前ですね。そして――」
 そこで一旦言葉を切ると、セイラは切なげに漆黒の瞳を細めた。
 「カロンというのは、僕が確認出来ている魔族(シェルザード)王子のうち、第2王子の方の名でもあります。14年前、第1王子が起こしたクーデター以降、彼は行方知れずになっていたはずです」
 「え……?」
 「その王子が、魔族(シェルザード)の王として一族を率いている。更には、ファノス国王として世界という舞台に出ようとしている」
 初めて聞く内容に、リサは目を見開く。魔族(シェルザード)は、既に滅んでしまったと噂される程、ここ数百年歴史の表舞台に姿を現していない一族だ。そんな彼らの詳細を、セイラが何故知っているのか。その事も大いに疑問であったが、今それ以上にリサの注目を引いたのは、その第2王子の名と、書簡に綴られたファノス王の名が同一であるという事だった。魔族(シェルザード)の王子だった人物が一族を率いて、ファノス王だと名乗りを挙げている。要するに、ファノス国は魔族(シェルザード)の国であると、宣言したようなものだ。
 「そんな時期に、カインと思しき人物も姿を現しました」
 魔族(シェルザード)達の動き。エラリアへの事件の拡大。ファノス国の復活。そんな中でのティアミストの次期当主であるはずの青年の出現。それも、ここエラリアに、である。
 「カインの出現と、これらの事は、何の関係もない事なのでしょうか」
 ぼんやりと零されたセイラの問いかけに、その場の誰もが硬い表情で口を噤んだ。口に出さなくても、皆が考えている内容に大差はないだろう。これだけの事が同時期に起こって、関係ないはずがないだろうと。
 (シン……)
 あの日、城下町で自分に付き合って町を散策してくれた青年の姿が頭に浮かぶと同時に、リサの胸は酷く締め付けられる。捕縛劇に参加したリサに対して浮かべた呆れ顔も、また会いたいと伝えた時に見せた苦笑いも、全て彼が持つ真実の姿では無かったのだろうか。考えれば考える程、鼓動は早くなり、冷や汗が背中を滑り降りて行く。

 「それで……シズクは、どうするつもりでいるんだよ?」

 そんなリサを思考の海から引き上げたのは、リースの言葉だった。慌てて顔を上げて弟の方を見ると、彼は比較的渋い表情でシズクの方を見ている。エメラルドグリーンの鋭い視線を受けて、一瞬シズクは怯んだようだった。
 「どうするって……」
 「カイン・ティアミストがどういうつもりでここに現れたか知らないけど、エラリアを去れと言うんだから、十中八九、近々この国に良くない事が起こるんだろうな」
 「それは……」
 「本来の当主が現れたんだ。シズクは、あいつの言いつけに従って、この国を去るつもりなのか?」
 そう告げるリースの表情は、普段よく見る冷静な彼とは少しだけ違っていた。いや、姉であるリサだから気づけた事であって、ひょっとしたら周囲の誰も分かっていないかも知れない。並べている言葉は整然としていても、それを告げるリースの内心は、大いに動揺しているのではないだろうか。……不安なのかも知れない。

 「……わたしは、ティアミストの当主として立ち上がった訳じゃないよ」

 沈黙に包まれかけた室内に、凛とした声が落とされる。その場の誰もが、黙したままシズクの言葉を聞いていた。
 「それに……あの人は、わたし達の味方ではないかも知れない」
 身を硬くして瞳を揺らがせたシズクだったが、言葉を紡ぐ声は、淡々としたものだ。あの人、と。自身の兄であろう人物を、酷く冷めた風に呼ぶ。
 「石が……カロンに奪われたはずのあのネックレスが、あの人の首にかかっているのを見たの」
 「え――」
 「あの人はもう、カイン・ティアミストじゃないんだと思う。……わたしがもう、ジーニア・ティアミストではないのと同じように」
 それは、ともすれば決別ともとれる内容の言葉だった。
 「母さんのネックレスを取り戻すって決めたもの。それに、動き出した事はもう元には戻せないよ」



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