追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

1.

 「叔父さまは、ご存知でしたか?」
 式典当日の朝に、アリスは叔父であるエラリア王セルトの元を訪れた。そして、会話の初めに切り出した言葉がこれである。
 執務室の椅子に腰かけた叔父は、式典に参加する準備は既に完了している様子で、普段よりは色素の薄い衣装に身を包んでいた。普段となんら変わらないゆったりとした立ち居振る舞い。穏やかな表情で笑う彼は、アリスの言葉を受けて土色の瞳を細める。
 「……ファノス国が復活したという事かい? もちろん知っているよ。昨夜セイラからも改めて報告を受けたしね」
 みなまで言わずとも、叔父はアリスの思いを簡単に言い当ててくる。外見の雰囲気とは裏腹に、相変わらず聡い。久しぶりにその本質に触れて、アリスは少しだけ驚いた。
 「エラリアの西部でも、イリスピリア同様の被害が出始めているそうですね」
 「そうだね。けれど、事はそんなごく一部地域だけの問題では済まないだろうね」
 小さくも、深いため息が執務室に響く。落ち着いた口調だが、叔父の心中が決して穏やかではない事はアリスにも分かる。アリス自身、昨日師匠の口から聞かされた内容を受けて、軽く動揺しているからだ。エラリアの西部には、既に軍が調査団として派遣されているらしい。地域の自警団だけでは難しいと判断しての事だろう。
 穏やかに流れていた時間が、少しずつ様相を変え始めている。式典が行われる今日は、とてもめでたい日に違いないのに、妙な胸騒ぎを覚えるのだ。
 「……そんな時期に、何故叔父さまは、私にあのような話を持ちかけられたのですか?」
 次なるアリスの言葉に、セルト王はそれまで浮かべていた微笑を若干弱めた。そして、土色の瞳をアリスに向かって真っ直ぐ据えてくる。執務室内の空気が、僅かに張りつめたものに変わったのが分かった。
 「レクトの王位継承権獲得は、情勢不安が続き、これから先を見越しての事かも知れませんが。私が――」
 「アリス」
 名を呼ばれて、アリスは僅かに肩を震わせた。決して厳しい口調ではなかった。むしろ、普段叔父が発する以上に優しい響きだった。それなのに、厳しく諭される前触れのような、奇妙な感覚が胸を突く。
 「アリスは、私にそれを尋ねる為に、今日ここに来たのかい?」
 首を傾げて叔父は、背筋を伸ばして緊張した面持ちのアリスの表情を覗き込んで来る。少し子供じみたその仕草が、妙に様になっているのだから、叔父が放つ雰囲気は不思議なものだと思う。
 「そんな事を訊かずとも、君の気持ちは、もう固まっているのではないかな?」
 土色の瞳と真正面から目が合って、胸がぎくりと鳴った。だが、アリスが何か言葉を放とうとする前に、緩やかな溜息がそれを押し止める。少し呆れた風な叔父の表情がそこにはあった。
 「アリス。セイラとよく話をしてきてごらん」
 「え……」
 「一番近くで君を導いてきてくれた人と、しっかり話し合うんだよ。全ての話は、それから聞こう」
 セルト王がそう紡いだ直後、タイミング良く執務室の扉がノックされる。執事長代理のディランが、そろそろ時間であると告げに来たのだった。せめて何か告げたいと思うのに、アリスは結局何一つとして言葉に出す事が出来ずに終わる。
 「今日はレクトの晴れ舞台をよく見ておいてあげて。アリスが居るから、あの子は絶対張り切っているに違いない」
 複雑な表情で口ごもるアリスを見て、叔父は少しだけ苦笑いをして、瞳を優しく細めたのだった。






 王子の式典当日は、それは見事に晴れ渡った。濃いブルーの空に、眩しい程に純白の雲が浮かぶ。初夏の風は爽やかで、緑にあふれるエラリア城は普段以上に美しかった。まさに絶好の式典日和。昨夜の騒動など嘘だったのではないか。そう錯覚してしまう程あっけらかんとした天気を確認して、シズクは表情を緩めた。やはり、晴れの日はいい。
 城の中心部に続く廊下に目を向けると、様々な立場の人間が行き来しているのが見える。午前中に行われる継承の儀式は、式典用の建物で行われるらしい。緑が生い茂る中庭の隅に、おちついた雰囲気と共に在る古い建物がそれで、神殿を彷彿とさせるような荘厳な雰囲気を醸し出している。内部に入れるのは、基本的には招待客のみである。リサから聞いた話では、同行人のシズクにも権利があるらしいが、そこはやんわりと辞退しておいた。どこかの貴族階級出身の付き人であれば別だろうが、そうでないシズクは、悪目立ちしてしまう可能性がある。何よりも――

 「昨晩、イリスピリアから水神の神子が来られたようだけど、同行人はいなかったみたいよ」
 「じゃあ、例の『聖女』はエラリアには来ないのかしらね」
 「レクト様の式典だし、来るんじゃないかって期待していたのになぁ」

 初夏の風に乗って耳に流れてきた会話に、シズクは静かに足を止めた。どうやら、中庭でシーツを干しながら談笑している使用人の少女達が発生源であるらしい。幾人かはエラリア滞在中に顔見知りとなった者も含まれている。

 「でも、本当にそんな人物居るのかしら?」
 「あら、世界中に向けてあのイリスピリアの国王が声明として発表したのよ。嘘な訳ないじゃない」

 ――イリスピリアにジーニア・ティアミスト有り。

 まるで呪文か何かを唱えるように、少女達はそのフレーズを口ずさんでいた。
 およそ一月ほど前に、イリスピリア王が放った声明の一部。聞くだけなら、慣れ過ぎた台詞だった。けれど、耳にする度に心臓が変なリズムを打つ事を、シズクは未だに阻止出来ずに居る。
 「…………」
 自分のもう一つの名前が、まさかエラリア国でも囁かれているとは。この国に来た始めの頃は驚いたものだ。まぁ今となっては、すっかり聞き慣れてしまったのだが。なにせ、リース達王族の噂話を聞く頻度よりは劣るが、頻繁と呼べる程の確率でこのようなおしゃべりに遭遇するのだから。今日などは特にそうである。それもこれも、昨夜のパーティーで起こった奇妙な事件に起因するのだろう。

 「昨日のパーティーでも変な騒ぎがあったみたいだし。ここの所西部が不穏な空気でしょう?」
 「『聖女』が一体どんな力を持っているかは分からないけれど、私達の国が危なくなっても助けてくれるのかしら」
 「エラリアはイリスピリアと条約を結んでいるもの。仮に『聖女』が来なくても、有事の際は、イリスピリアがきっと駆けつけてくれるわよ!」
 「でも、本当にどんな人なのかしらね」
 「シズクちゃんに聞いてみたけど、イリスピリア城の人間でさえ、姿を見た人は少ないらしいわよ」
 「へぇ、シズクがねぇ……と、噂をすれば」

 そこで言葉を区切ると、少女の一人がシズクの存在に気付いたようだ。ばっちり目が合って、内心しまったと思うも時既に遅しであった。確かマーサという名の、エラリアの使用人達の中でもリーダー的存在の少女だ。少し離れた所を歩いていたのに、なかなか目ざとい。
 マーサにつられて周りの使用人達の視線も、一斉にシズクの方を向いたものだから、悪い事をした訳でもないのに冷や汗が出た。それまで交わされていた話題が話題なだけに、シズクとしてはかなり気まずいのだ。
 だから、手を振って来る少女達に、同じように振り返すだけに留め、話題に加わる事はしなかった。その場から逃げたい気持ちを抑えて、極力仕事で忙しい風を装い、その場を後にしたのだった。

 「――――」
 式典の準備に追われる人々の間をくぐりぬけて、中庭を早足で通り過ぎる。リサの部屋へと向かう廊下に足を踏み入れる直前に、もう一度上空を見上げてみた。晴天の空に浮かぶ雲が、目に眩しい。瞳を細めてから、小さく息をつく。初夏の風が、焦げ茶色の前髪をかき上げて通り過ぎていった。
 慣れた光景に慣れた噂話。シズクが極力悪目立ちしたくない最大の理由が、これである。あの少女達を始めとするエラリア城の人々は、まさかシズクが噂の『聖女』だとは夢にも思っていないだろうが、リサの付き人として突然現れたシズクに興味を持っている人物は、予想以上に居る。何かがきっかけで、それが露呈する可能性だってあるのだ。ばれてはいけない。……いや、ばれたくない。が正解だろうか。
 「……無理しなくていいのよ?」
 溜息を零した丁度その時、聞き覚えのある声が背後からかかって振り返る。淡い紫のドレスに身を包んだリサが、そこには立っていた。薄い色の衣装は、今日の式典を重んじての事だろうか。
 「リサ様」
 主人の名を告げ、シズクは丁寧に礼を取る。その様子にリサは、少しだけ寂しそうな表情を浮かべるが、小さく息を吐くと普段通りの微笑を浮かべる。
 「シズクちゃん。無理しないでね」
 最初に告げたものと同じ内容の言葉を、リサは復唱する。普段は強い輝きを宿すエメラルドグリーンの瞳は、今日はあまり笑っていないなとシズクは思った。
 「お気づかいありがとうございます。でも、大丈夫です」
 「……なら良いのだけど」
 「リサ様こそ、お疲れの様子ですね」
 シズクの言葉に、リサはえっと零して大きく目を見開いた。桜色の唇は、心なしか小さく震えているように見える。
 「そんな風に見える?」
 「なんとなく、お元気がないような気がします」
 昨夜の衣装とは雰囲気は大きく異なるが、今朝の装いも完璧と呼べるもので、リサが美しい事にはもちろん変わりはなかった。イリスピリアの絶世の美姫としての堂々たる立ち居振る舞いである。しかし、シズクの目には覇気がないように映る。若干顔色が優れないような気がするのは、満面の笑みが標準装備とも呼べるリサが、今日に限っては妙に大人しいからだろうか。
 黙したままシズクとしばらく見つめあった後、リサはふうっと小さく溜息を零し、肩を竦めた。
 「……そうね。そうかも知れないわね」
 リサにしては珍しく、弱気な声が漏れる。
 「昨夜は、考え事をしすぎて、あまり眠れなかったからかしらね」
 色々な事が起こったから、とリサが告げたのを耳にして、シズクも苦笑いを深めた。同時に、胸に小さな痛みが走る。
 「色々な事が起こるのに、何一つとして、私に出来る事はなさそうなのだもの」
 掠れた声で、寂しそうにそう零す。
 二人の心中とは裏腹に、中庭から吹き込んでくる風は爽やかなものだった。水分を含んだ緑の匂いがやってくるのと同時に、からんからんと、鐘の音が鳴る。城下町の時計台が一時間毎に時刻を告げる音である。あと一時間で、レクト王子の継承権授与の儀が開始される予定である。
 「……何も出来ていないのは、わたしですよ」
 もうそろそろすれば、会場入りの案内係がリサを呼びに来るだろう。それまでに、部屋に戻る必要がある。そんな事を頭で考えつつ、けれど零れた言葉はそんな内容だった。すぐ隣で、リサがエメラルドグリーンの瞳を細めているのが見える。
 「ここでやらなければならない事を、何一つわたしは出来ていません」
 そもそもシズクがエラリアを訪れた最大の目的は、『石』に関するヒントを見つける事だった。しかし、明後日イリスピリアに帰国するという今となっても、何一つとして欲しかった情報を手に入れる事が出来ていない。
 唯一の引っかかりとも呼べるあの玉座の扉にしても、手つかず状態だ。もう一度調べるとか、何か重要な事を知っていそうなエラリア王と話をするとか、色々と考えは浮かぶのだが、それどころではないというのが正直な気持ちである。昨夜の一件以来、リースと会話する事に躊躇いが生まれていた。前夜祭で現れたカイン・ティアミストに関しても、未だに頭の中で整理が出来ていない。エラリアの西部にも、魔族(シェルザード)の介入が見られ始めたようだから、今後益々事態が進む可能性もある。情勢の不安も手伝ってか、エラリア城でも、『聖女』の噂がちらほら聞かれるようになってきた。
 何一つとして出来ていないのに、色々な事が自分をかき乱す。
 「…………」
 眉をしかめて、無意識に右手が首元に伸びた。以前であればそこには、母から託された銀のネックレスが輝いている筈だったが、魔族(シェルザード)に奪われてしまった今、シズクの指を迎え入れたのは、エメラルドグリーンのクリスタルだ。内部に封じ込められているのは、白い5枚花のライラ。昨日、城下町で作ってもらった代物だった。ひんやりとした冷感が指に伝わり、それが不思議とシズクの気持ちを落ちつけてくれる。
 「あら、今日はつけてるんだ」
 ネックレスの存在に気づいて、リサは笑顔を浮かべると、感嘆の溜息を洩らした。
「完成品は初めて見るわね。綺麗……」
 そう言えば、まだリサには見せて居なかったのだと気付く。いや、彼女どころか、リース以外の人物にはまだ全く見せて居ない。身につける事自体、今日が初めてである。
 「使用人の格好でも十分可愛いけど、ドレスを着てつけたら、もっと似合うと思うの。……リースが見たら、何て言うかしらね」
 「え……?」
 リサの口から零れた人物の名に、思わず声を零していた。どきりと、心臓がおかしな鼓動を打つ。今リースの名を聞くのは、何となく心臓に悪い。
 怪訝な表情で仮初の主人であるイリスピリア王女の方を見ると、彼女はいつになく優雅に微笑んでいた。エメラルドグリーンの瞳には、微笑ましいものを見るような光と、もうひとつ、それとは別の感情が揺れているような気がする。芽吹いたばかりの若葉を思わせる、綺麗な色の瞳。このクリスタルと同じ色彩。そして、あの花を投げてよこしてきた人物も持つ色。
 「……契約の花」
 「ん?」
 ぽつりと、先日知った事実をそのまま口に出していた。それを受けて、リサは不思議そうに首をかしげている。
 「ライラの5枚花は、契約の証だと聞きました。それも、人の一生をかけるような、重大な」
 昨日、魔法屋の店員から聞いた事である。あの時は『石』の手掛かりを探すのに必死で、例の扉に刻まれた5枚花にばかり気を取られていた。自身の手の中にあるライラも5枚花で、それも、奇跡的な確率でしか出会えない白色だというのに、その事実を軽く流してしまっていた。リースが自分にこれを寄こしたのも、全ては扉の事を知らせる為であると、そう思っていた。けれど――昨夜、暗闇の中で見た憂いのある表情が、頭の中から離れてくれない。
 「人から人へ、この花を贈る場合……一体何の『契約』をするのか、リサ様はご存知なのですか?」
 「…………」
 真っ直ぐ視線をリサの方へ向けると、彼女は複雑そうに苦笑いを浮かべていた。
「それは……私じゃなくて、リースに直接聞いた方が良いと思うの」
 言いたいけど、言えない。瞳はそう語っている。今ここで教えてくれれば、この妙なもやもやが解消されるかも知れないのに。リースと直接話をする事など、表面上王子と付き人という立場である現状、大変に困難な事であるし、それ以上に、今彼と話をする事がシズクは怖いのだ。
 助けを求めるように、リサの方を見るが、彼女は困ったように笑うだけで何も言ってはくれない。
 「そろそろ行きましょうか。迎えの人が来る頃だわ」
 控えめにそう言うと、話を切り上げるとばかりにリサは廊下をゆったりと歩きだしたのだった。



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