追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

2.

 式典が行われる建物に入るのは、王女であるアリスでも滅多にない事だった。
 エラリアはどちらかといえば保守的で、昔ながらの伝統やしきたりを重んじる国である。だから王位を受ける順位も厳格に規定されており、儀式を行うこの建物も、普段は王族でさえ立ち入る事が出来ないと定められていた。以前にこの場の空気を吸い込んだのは、確か3年前に行われた地霊を祀る行事以来だ。
 王の姪であるアリスは、立場としては上席に座るべき人間だったが、幼い頃から彼女に与えられてきた席は、王族の末席だった。けれど、一度もアリスはそれを苦に思った事はない。むしろ、その席が与えられている事に感謝さえした。それがアリスを守る為の措置である事をアリス自身良く分かっていたからだ。末席に隠れ、人から情けを受けなければ王女として認めて貰えないのは、始めは父の犯した事が原因であったかも知れない。だが、結局は自分が選んできた道なのだ。それを変えたければ、アリス自身が変わらなければいけない。それもまた、ずっと以前から分かっていた事。
 「アリシア王女のお席は、そこではありませんよ」
 いつものように末席の前に立ち、そこには己の名前が記されている筈なのに。目の前にあった光景に放心しているアリスの耳に、聞き覚えのある声が届いた。
 「ヴォンクラウン大臣」
 式典用の装いに身を包み、こちらへ鋭い眼光を浴びせてくるのは、アリスが苦手とする大臣に相違ない。きびきびとした動作で、彼は礼を取った。そして、細長い指を、王妃の次に上席と呼べる位置へと向ける。座る事がない筈の席に、どうしてか今日はアリスの名前が刻まれている。
 「アリシア王女のお席は、あちらです」
 「何故……何かの間違いでは……」
 「わたくしは、真実しか申しませんよ」
 ぴしゃりと告げられて、アリスは思わず背筋を伸ばした。常に冷徹で、人にも己にも厳しいこの大臣は、果たしてこの表情を緩ませる事はあるのだろうか。灰色の瞳を見つめていると、きろりと睨まれ、またしても身が竦む。
 「わたくしは、決して嘘は申しません。陛下にもレクト様にも……そして、貴方にも」
 ああ確かに、彼の告げる事は常に正しかったと、アリスは思った。
 「この席順は、陛下のご指示です。貴方が勝ち取ったからでも、周囲が認めたからでもありませんので、誤解なきよう」
 告げられる言葉が事実だからこそ、アリスにとって彼の言葉と行動は痛むのだ。
 「儀式の時間が差し迫っております故、手早く移動なさってください」
 「分かっています」
 どちらに対しての返事だろうか。予想していたよりも落ち着いた声が零れおちて、アリス自身驚いた。漆黒の瞳で、ヴォンクラウン大臣の灰色の瞳を見つめる。猛禽類を思わせる鋭い眼光に晒されるのは、決して慣れないが、真っ直ぐ見る事は出来た。今のアリスでは大臣の心中は量れないが、彼の言葉に耳を傾ける事なら出来る。
 「――――」
 背筋を正したその時、ふと、嫌な風が建物の中を吹き抜けていったような気がした。思わず天井を仰ぐが、色とりどりのステンドグラスから差し込む光があるだけで、そこには何もない。
 隣にいる大臣に視線を戻せば、彼は相変わらず硬い表情を崩す事なくこちらを見つめていた。
 (何か……)
 何か、嫌な予感がするのは、果たして気のせいなのだろうか。
 「間もなく、儀式が始まります」
 ぞくりと背中が泡立つアリスの耳に、ヴォンクラウン大臣の無機質な声が響いた。






 ――儀式が行われている間、国民は静寂を破る事のないように。

 そんなお触れが出た事で、早朝からやかましい程に鳴らされていたラッパや太鼓の音はなりを潜め、城下町のお祭りは一時休止と相成った。賑やかな雰囲気に包まれていた国が、突然静寂に包まれるというのもなかなか不思議な気分に晒されるものである。城内も例外ではなく、今宵の祝賀会の準備は中断され、使用人達もそれぞれの仕事を一時休憩して、儀式が行われる様を見守る。見守るといっても、建物の中で何が行われているかは、シズク達には見えないのだが。
 けれど、少女達のおしゃべりだけは、国王のお触れをもってしても遮る事は困難なようだ。
 「ねぇ、シズクはエレナ王女とリース王子の噂は聞いた?」
 小声でそのような事を告げられた時、シズクはその場から逃げ出したい衝動に駆られた。だが、人でぎゅうぎゅうに詰まったこの場から逃げる事はもちろん出来ず、仕方なく首だけで声の主を振り返る。シニヨンに纏められたつややかな赤毛に、目鼻立ちがくっきりした容姿を持つ少女は、使用人のリーダー格であるマーサ・グレイスだ。つい先程、中庭で『聖女』の噂話に精を出していた一人でもある。
 「噂?」
 「シズクは、昨日の夜会にリサ王女の付き人として参加したのでしょう? だったら見たわよね。二人が躍る姿を」
 ああ、と小さく零してシズクは昨夜の出来事を回想する。個人的に、あまり心臓に良くない回想だったが、リースと件の百合姫とがワルツに合わせて踊る様は、まるでどこか違う世界で起こっている事のように、現実離れした光景だったのは確かだ。マーサが言う噂とは、あの時使用人の誰かが囁いていたものか。
 「あのダンスは、エレナ王女から誘ったんだって。エレナ王女は、リース王子の事が好きらしいわよ」
 普通、ダンスは男性が誘うものだ。女性は相手に好意がある場合を除いては受け身の立場である事が通例である。そして、たとえそんな常識を知らなくとも、あの時のエレナ王女の笑顔と、アメジストの瞳に浮かんだ歓喜の色を思えば、誰の目にも彼女がリースを慕っているのは明らかだった。
 「そうなんだ。あのお二人なら、お似合いだね」
 本当に、似合いの二人だ。イリスピリアとオルトロスは共に大国同士。身分としても申し分ない。心からそう思うのに、どうしてだろう、滑り落ちた声に感情がこもらない。これ以上、この話は聞きたくないと、小さくそう思った。
 「そうなのよ! だから、皇太子になったレクト様にも大注目だけど、その後ろでリース王子とエレナ王女がどういう位置取りで出て来るかも、しっかり見ておかなきゃいけない訳よ!」
 けれどマーサはシズクの胸中の思いに気付く事はない。鼻息を荒げると、興奮しきりの様子で遥か上の方――エラリア城で最も大きいテラスへと視線を向けた。
 儀式が行われた後は、国民に向けてのお披露目がある。それが執り行われる場所が、今マーサが見つめているテラスであり、そこからは城下町が一望できるとの事だ。城下町の広場には、皇太子になったレクト王子を一目見ようと、物凄い人だかりが出来ているらしい。そして、シズクが今いる城内の広場もまた同じで、ぎゅうぎゅうに人間が詰まっていた。マーサを含む使用人数名に促され、見物の輪の中に加わったはいいが、人の波に押しつぶされそうで大分苦しい。額には汗がにじんでいたし、この晴天の中油断していたら貧血か熱中症を起こしてしまいそうだ。実際、倒れて救護室に運ばれていく者も幾人か見た。
 「誰の予想が正解か、見極めなきゃ」
 「予想……?」
 「私は断然エレナ王女派なんだけどね、王女の恋は、ひょっとすると実らないかも知れないって言う子が居てね」
 そのような派閥が使用人の間で形成されているのかと、若干遠い目になりかけたシズクだったが、マーサが語った内容の後半部分が気になり、テラスから再び彼女へと視線を戻す。凛々しい形をした唇を引きのばして、マーサはにやりと笑む。
 「リース王子には、他に想い人が居るんじゃないかって」
 「え……?」
 「だって、エレナ王女はリース王子から贈られていないみたいだもの」
 広場の喧騒が少し遠くなり、マーサの野太い声がすんなりと耳に入って来た。
 「贈られていない?」
 何の話だろう。贈るって何を? 青い瞳を見開いてぽかんと考えていると、その様子じゃ分かってないわね。とマーサはおかしげに笑う。そして、少しだけ頬を赤らめて、夢見るようにこう告げたのだ。
 「この季節に、この国で、贈るって言ったらあれよ。ライラの5枚花」
 「え――」

 ――あらまぁ、凄いじゃない貴女。贈られたの?

 マーサの言葉を聞いた瞬間、何故か昨日城下町の魔法屋で店員と交わした会話を思い出した。
 「本当は、白色が良いんだけどね。こればかりは奇跡を待つしかないから……大抵の場合、有色の5枚花で代用するの」
 白いライラの5枚花。このエラリア滞在中に、何度かその希少性と意味を聞いた。ライラの花は、エラリア国民にとって国を象徴する神聖な花だ。贈り物にも多用される。意味も様々で、家族に贈ると謝罪、友達に贈ると感謝、恋人に贈ると親愛となるらしい。
 ただし、5枚花の用途だけは、一つに限られている。それは、契約の証。それも、とても大事な、人の一生をかけるような、重大な。
 「大昔から、白色の5枚花は、求婚する時に贈られるものよ」
 「――――」
 瞬間、シズクの思考の全てが遮断される。広場は人でごった返していて、喧騒で溢れている筈なのに、それらはちっとも耳に入ってこない。まるで自分とマーサの二人だけ、空間から切り離されてしまったかのような気持ちになった。
 (求、婚……?)
 マーサの口から飛び出した二文字を、心の中で反芻してみる。混乱する頭はうまく回ってくれないが、求婚――それが意味するのが何かくらいは理解出来る。
 ライラの白い5枚花は、契約の証だという。確かに結婚の申し込みは、人としてとても大事で、一生を捧げる程の契約の申し込みに違いない。だけど――
 「で、贈られた相手は、結婚を受け入れる意志が在る場合、そのライラを使ってアクセサリーを作るの。相手の瞳の色のクリスタルに、ライラと一緒に想いを封じ込めるのよ。有色のライラだとある程度色を選ぶ必要があるんだけど、白色だと何色でも受け入れるから――貴方の色に染まりますって」

 ――これで契約成立って訳ね!!

 魔法屋のお姉さんが、何故あんなにも嬉しそうな顔で笑っていたのか、あの時のシズクにはちっとも分からなかった。

 ――お前……

 完成したネックレスを見た瞬間リースが顔色を変えた事も、疑問に思いはしたが、そのまま流してしまった。
 何故あの時、深く追及しなかったのだろう。いや、そうする以前に何故、気づこうとしなかったのだろう。知る機会は、きっとたくさんあったはずなのに。
 「これは噂だけどね。リース王子は、エレナ王女じゃない誰かに、5枚花を贈ったらしいわよ」
 ひょっとしなくても自分は、とんでもない事をしでかしてしまったのではないだろうか。
 「う、そ……」
 シズクの小さな呟きは、城のテラスから上がったラッパの音によってかき消されてしまう。わっと広場からも城下町からも歓声と拍手が起こり、物凄い音の渦が場を支配した。群衆の視線は、一様にテラスへと向けられる。ただ一人。シズクを除いては。
 「嘘だ」
 全身の力が抜けて行く。マーサが一瞬不思議そうにこちらを見たが、それどころではなかった。全身の血液が集結したのではないと思う程、顔が熱い。歓声の渦に包まれた中では、上手く考えを纏める事は出来そうになかった。否。考えたくない。答えを導き出すのが怖い。
 「レクト皇太子、万歳!」
 広いテラスに、荘厳な衣装に身を包み、額に金の輪を頂いたレクト皇太子が姿を現す。ぼんやりと霧がかかったような頭を叱咤し、シズクは顔を上げてそれらの光景を視界に入れた。
 「――――」
 笑顔全開で、レクト皇太子が群衆に向けて手を振った。その隣に控える王と王妃も満足げな笑みを浮かべて周囲を見渡している。ここからテラスは、遠い。つい先日、お茶会で和やかな会話を交わした筈なのに、到底手の届かない世界の人々のように思えた。いや、事実その通りなのだ。そうであるべきなのだ。
 お祝いムードが最高潮に達し、城下町の宴は再開されたのだろう。賑やかな音楽が奏でられ、人々の言葉が木霊する。すぐそばでマーサのはしゃぐ声が聞こえた。本来ならばシズクも彼女と同じく感激で騒いでいる所だろうに、沸騰する頭では何も考えられない。
 太陽の光の眩しさに、目をしかめた瞬間の事だ。きらりと、何かが光ったような気がした。
 (何……?)
 錯覚か。それとも、太陽の熱に浮かされて、視界が変になってしまったのだろうか。首を傾げたシズクの目の間に、黒い大きな影が現れたのはその直後。
 ――それは、平穏の終わりを意味していた。



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