追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

3.

 「え……?」
 一瞬、目の前にもたらされた光景が信じられなかった。眩しい太陽の光に目をくらませていた筈なのに、黒い大きな影があっという間にシズク達の上に覆いかぶさり、視界を塞ぐ。歓声で沸き立つ状況の中、始めは誰も反応出来なかった。なぜならそれは、祝いの席に全く相応しくない存在だったから。
 始めは、空から降る雪のように。何の違和感もなく、ひらりとそれはエラリア上空に降りてきた。けれど、一度その姿を目にすれば、この場においては異端以外の何物でもない。体は、大の大人より少し大柄な程度。蝙蝠を思わせる赤黒い翼をはためかせ、耳をつんざくような咆哮を上げたそれは、招かれざる客。
 「――魔物だ!」
 ほんの一瞬、水を打ったかのように静まり返った広場に、若い男性の悲鳴が響く。それが皮切りだった。
 歓喜の声は、あっという間に悲鳴や怒号に変わり、人々は顔を青くして避難をする為にもがき始める。けれど、人でぎゅうぎゅうに詰まったこの場において、いきなり逃げ出す事は困難である。前方の男性に押され、体がきしむ。このままでは、あちこちで人が押しつぶされてしまう。
 「落ち着け! 後方の者から順に避難して行くように!」
 「道を開けて下さい!」
 騎士団の動きは早かった。異常事態に気づくや否や、人の群れを掻い潜って数人が魔物の元へ駆けつける。後方に控える部隊が人々を誘導し始めて、少しはパニックが落ち着いて来る。
 「マーサ!」
 人の波に遊ばれて転びそうになったマーサを、シズクが慌てて手を伸ばして引き寄せる。腕の中で彼女は小刻みに震えていたが、混乱して逃げ惑う周囲の者達とは違い、比較的落ち着いていた。
 「ねぇシズク、あれって魔物よね? 何で結界がある町の中に……」
 「分からない。でもとにかく今は、避難しなきゃ」
 「陛下はご無事かしら……あぁっ!」
 上空を仰いだ瞬間、マーサの瞳が大きく見開かれた。彼女に倣ってシズクも上――テラスの方を仰ぐ。そちら側にも魔物が舞い降りているのが見えた。フィアナ王妃がレクト皇太子を庇うようにして抱き寄せ、側に控えていた騎士たちが飛び出してくる。アリスやリサの姿を探すが、彼らの無事を確認するより先に、シズク自身に危険が迫っていた。
 「――――!」
 騎士団の数人が跳ね飛ばされているのを視界の隅に捉えたと同時に、黒い何かが降ってくる。慌ててそれらを避けると、目の前に投げ出されてきたのは、赤黒い血を流して既に事切れている魔物の姿だった。少し前方で咆哮が上がる。同じ魔物がもう1体、騎士たちと戦っているのが見えた。状況からして、騎士たちが先程の1体を仕留めた瞬間、他の1体が上空から急降下し、彼らを襲ったのだろう。負傷を免れた残りの者が剣で応戦するが、魔物は再び上空に舞い上がってしまい、上手くいかない。
 「剣では、限界なんだ……」
 翼を持つものに対して、剣での戦闘はどうしても不利だ。滞空されると、なす術がない。
 「弓を使えないのか! 剣では埒があかない!」
 「無理です! こうも人が多い場所で、あんなに素早く動く相手に対して、危険過ぎます!」
 苛立った声を上げる騎士に対して、その部下であろう若い男が叫んだ。
 「では、魔道士を!」
 ――魔道士を。
 その一言に、シズクは一瞬身を強張らせる。そうだ。魔法であれば、今この場で滞空する魔物を撃ち落とす事も可能かも知れない。けれど――
 「シズク、逃げよう!」
 ぐいとマーサに右手を引かれる事で、シズクは思考から脱却する。今いるここは、魔物の攻撃圏内だ。速やかに逃げる事が得策である。そんな当たり前の事が頭に浮かび、即座にシズクは走り出す。しかし、葛藤から逃れる事は出来なかった。
 もう封印も無ければ、膨大な力を前に身が竦む事もない。シズクは今、確かに魔法が使える魔道士の一人なのだ。ただし、今のシズクはリサの付き人としてこの国に居る。マーサを含む数多くの使用人達が居るこの場所で魔法を使ったとすれば、彼女達から一体どう思われてしまうのだろう。そう思うと、呪を紡ぐ事が酷く躊躇われた。素性がバレるような行動は、極力するべきではない。
 (でも……)
 「きゃぁ!」
 ごうっと、風を切る音がすぐ上方から聞こえて、マーサが金切り声を上げた。避難を始めていた周囲の者達も同様に、上空に向かって絶望的な声を上げる。滞空していた魔物が、狙いをこちらに定めたのだ。凄い早さで下降して来る。
 「来たぞ! 逃げろ!」
 咆哮と同時に、爪の一閃が走り、幾人かが負傷して倒れる。
 それらの人々に止めをさそうと、魔物が更なる爪を繰り出そうとした瞬間を見て、葛藤を繰り返していたシズクの思考は途切れる事となる。そして……咄嗟にそれを行ってしまっていた。
 「――――っ」
 人々の悲鳴を切り裂いて、魔物の絶叫が広場に上がったのが直後の事。負傷して倒れていた者も、逃げようともがいていた者も、誰もが一瞬動きを止めて、ぽかんとその光景を眺めていた。がきんという甲高い音と同時に、鋭い氷の刃が数本、魔物の喉元に突き刺さっていたのだ。確実に急所を捉えたその攻撃に、黒い肢体は崩れ落ちる。
 数瞬後、慌てた様子で騎士達が駆け寄って来る。強い日差しを受けてもなお、魔物の喉に刺さる氷はぎらぎらとその鋭さを維持していた。完全に絶命している事を確認した後で、隊長と思しき男は周囲を不審そうに見回した。
 「魔法……? 一体誰が?」
 周囲に魔道士の部隊は到着していなかった。城の使用人達の中には、魔法の心得が在る者も稀にいるが、魔物を絶命させられる程の氷の魔法を使役出来るとは到底思えない。この場の誰もがそう、思っただろう。
 「な、何が起こったの?」
 「いいから、行こう」
 「……シズク?」
 立ち止まり、困惑した声を上げるマーサの背中を押して、シズクは走り出そうと努めた。けれども、足が上手く回ってくれず、ふらついてしまう。視界が霞んだような気がして、思わずマーサにもたれかかった。
 「シズク? 大丈夫? 顔色が――」
 轟音と怒号。心配そうなマーサの声を遮って上がったそれは、新たな魔物の出現を意味していた。揺れる視界を無理やり押さえつけ、シズクは小さく舌打ちする。そして、迫りくる2体目に向かって、再びそれを行っていた。――呪文も、力ある言葉も無い。無言での魔法行使を。
 「――――」
 冷たい風が広場に吹き抜けたかと思えば、直後には氷の刃が魔物の喉に深々と突き刺さっていた。突然の攻撃に、黒い肢体はまたも成す術なく落下する。悲鳴と同時に、周囲の者達が慌てて飛び退く。地面が揺れる。それに合わせてシズクの体も崩れ落ち、マーサが慌てて受け止める。
 「ちょっと、シズク? しっかりして!」
 頭が割れるように痛い。視界がかすんで、こちらを必死に覗き込んで来るマーサの赤毛もくすんで見えた。無茶な事を2度もしたのだから、当然の報いではある。
 (でも、さすがにそろそろ限界かも――)

 『――氷よ(レイシア)!』

 朦朧とするシズクの耳に、力ある言葉が届いた。場の冷気が増し、氷の刃が魔物を襲う。エラリアの魔道士達が、動き出したのだ。
 (良かった)
 魔道士達と騎士たちが連携して魔物を制圧していく。現れた魔物は大した数ではなかったはずなので、もう心配ないだろう。じきに事態は収拾に向かう。その様を確認して、シズクはほっと安堵のため息をついた。そして、ゆっくり意識を手放したのだった。






 ――軽快なワルツが聴こえる。

 紳士淑女達が手を取り合い、ダンスが始まる。笑顔を浮かべる者、うっとりと酔いしれる者、恥ずかしそうにはにかむ者。それらの男女たちをぼんやりと見ていた。
 きらりと銀と金が輝いて、何かと思い視線を向けた先で、リースとオルトロスの百合姫が優雅なダンスを踊る。周囲の者たちから感嘆の溜息が落ち、それがシズクの胸をざわつかせた。楽しげな表情で見つめあう二人を見て、ほっと安堵すると同時に、それとは正反対に重たいものも下りてくる。この感情が何なのか。立ち尽くしながら途方に暮れていると、そっと腕を引かれた。
 「――――」
 視界に入ってきたのは、自分と同じ色の瞳と、母によく似た容貌の青年の姿だった。手首に感じる彼の体温は温かいのに、瞳は決して笑わない。悲しそうな目で彼は、何かを訴えるようにこちらを見つめてくる。
 「ジーニア」
 昔、そういえばそう呼ばれていた時期があった。けれど、今はもう自分はジーニアではないのだ。
 「お前は、これ以上もう関わるな」
 そう。それが出来たら、どんなに良かっただろう。何にも関わらず、何も知らず、ただ平穏な日々を送っていられたらと。けれど、もう始まってしまったのだ。後戻りする事など今更出来ない。
 兄の言葉に、首を左右に振って応えると、彼は悲しそうな顔をした。それが、あの崩壊の日、自分にネックレスを託した時の母の表情と怖いくらいに重なって見えた。
 「シーナの再来になんて、ならなくていい……」
 違うよ。シーナの再来になんて、なりたい訳じゃない。ただわたしは――
 兄の首筋に光った物――母が遺したネックレスに向かって、必死に手を伸ばす。しかし、すぐに腕を掴まれて阻まれてしまう。切なげに独特の色合いの瞳を細め、兄は緩やかに首を振る。軽快なワルツが終わり、艶やかな音楽が流れだしたのはその時の事だった。
 「――――」
 伸ばした右手が突然何かを掴む。けれどそれは、求めていた感触ではなかった。銀の硬質な輝きではなく、手にしたのは、白い、無垢な一輪の花。ライラと呼ばれる、この国の象徴として大切にされている花だ。家族や友達、大切な人に様々な意味を込めて贈られる。そんな中で、この白色の5枚花にだけ、特別な意味があるらしい。
 「シズク」
 甘い香りがする。ゆったりとした音楽に乗って、その声は酷く優しく耳を撫でた。聞き覚えのある声。軽い眩暈を覚える。

 ――白色の5枚花は、求婚する時に贈られるものよ。

 「違う……」
 頭の中に響いたマーサの声に、大きく首を振った。違うのだ。自分はそんな事を知らなかったし、彼もきっと、そんなつもりでは――

 ――相手の瞳の色のクリスタルに、ライラと一緒に思いを封じ込めるのよ。白色だと何色でも受け入れるから。

 ぎゅっと首筋に輝くクリスタルを握りしめる。内部に白色のライラが封じ込められたそれは、明るいエメラルドグリーンの色を放っていた。5枚花のライラの贈り主の、瞳の色。それは、快諾の印だ。相手の瞳の色に、込められた想い。貴方の色に――

 ――貴方の色に染まりますって。



 「――――!」
 マーサの声が頭に響いた瞬間、視界が突然大きく開けた。やけに眩しくて、思わず目をしかめるが、状況を把握する前に、眼前に飛び込んできた人物の姿を受けて、シズクは素っ頓狂な叫び声を上げてしまっていた。
 「わあぁぁぁぁっ!」
 明るいエメラルドグリーンの瞳。サラサラの金髪。恐ろしく整った容姿は間違いない。リース・ラグエイジに他ならなかった。今最も、シズクにとって心臓によろしくない人物である。
 勢いよくタオルケットを跳ね除けて飛び起きると、背中が壁につくまで大きくのけ反る。勢い余ってごちんと後頭部を軽くぶつけて、軽く涙がにじんだ。
 (って、ん? タオルケット?)
 心臓は未だに早鐘を打ち続けていたが、シズクは徐々に今現在自身がおかれた状況に気づき始めた。
 周囲を見渡せば、大きな窓から日の光が差し込んでいる。時刻は昼だ。目の前には大層呆れ顔のリースの姿。落ち着いてみると、その背後にアリスとリサ、そしてセイラの姿も見えた。彼らは皆、ベッド上のシズクに注目している。そうだ。シズクは、ベッドの上に寝かせられていた。どうやら先ほどの妙な光景は、夢だったらしい。そういえば、自分は確かレクト皇太子のお披露目を見ようと広場に集合していたはずだった。それが、何故こんな場所にいるのだろう。
 「…………」
 戸惑い気味の顔で、シズクはしばらくリースと目を合わせていた。だがやがて、リースが小さく溜息をつく。
 「……それだけ騒げるって事は、元気な証拠か」
 呆れ顔はそのままに、けれどどこか安心した表情で零された言葉に、シズクは釈然とせず首を傾げた。彼の事だからどんな嫌味が飛び出してくるかと身構えていただけに、拍子抜けしてしまったのだ。
 「シズク!」
 「シズクちゃん! 何ともない?」
 呆けているシズクの元に駆け寄ってきたのは、アリスとリサだった。二人とも心配そうな表情でこちらを見つめてくる。
 「避難する際中に倒れたって」
 「パニックによる貧血と、軽い熱中症の合併だろうとお医者様は言っていたけど……」
 二人の言葉に、徐々に状況を悟りだす。あぁ、そうだ。自分は確か、倒れたのだ。意識を手放す直前までは、使用人仲間のマーサと行動を共にしていた。ひょっとしたら彼女にも迷惑をかけてしまったのかも知れない。
 レクト王子が継承権を獲得して、正式に皇太子として認められ、国民に向けてのお披露目が行われていた最中、空から突然魔物が下りてきたのだ。直後、周囲は騒然となったと記憶している。エラリアの騎士団が制圧に臨んだが、魔物は翼を持っていた為苦戦を強いられた。だからあの時自分は――

 「――シズクさん」

 思考をそこまで巡らせたところで、セイラの声がかかった。ゆっくりと視線を向ければ、いつになく真剣な表情の水神の神子が居る。鉄壁のニコニコスマイルも、含みのある怪しい笑みも今はそこにはない。ひょっとしたら、怒っているのかも知れないなと内心シズクは思った。
 「自分がした事がどういう事か、分かっていますね?」
 口調自体は柔らかだったが、どこか棘を内包するような言い方に、シズクは苦笑いを浮かべる。やはり、彼は少し怒っているのだろう。しかし、それ以上にセイラの表情には疲労の色が見えた。こちらを心配し尽したような、疲れた表情で、だけど少し安心した面持ちでこちらを見つめていた。
 「……すみませんでした」
 苦笑いを消して真剣な表情を浮かべると、シズクはベッドに腰掛けた状態で深々と頭を下げた。ただただ申し訳ないという気持ちが大きかった。仕方がなかったとはいえ、己が起こした事は、セイラに怒られても仕方のないことだったからだ。
 「さすがに肝が冷えました。詠唱を一切行わずに魔法を行使してしまうなんて……下手をしたら、星降りの晩の二の舞でしたから」



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