追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

6.

 そろそろ床についてもおかしくない時刻だったが、アリスは自室に下がる事はなく、師匠であるセイラの部屋にいた。彼がお茶を淹れてほしいと言ったので、夕食を食べた後に軽いお茶会を開いていたのが理由の一つ。しかし、ティーカップが空になり、ポットの湯が冷めてしまっても退室しなかったのには、もう一つ違う理由があった。きちんと話をしたいと思ったのに、アリスがなかなか話を切り出せなかったからだ。

 「それで……何か、話があるのではないのですか? アリス」

 やはりこの人に自分はかなわない。
 結局、アリスの方からではなく、苦笑いがちにセイラがそう告げてくれた事で、ようやく本題に入ることができた。少し情けない気持ちもあったが、彼がアリスの心中を悟っている事で、腹が据わった。
 「…………」
 落ち着かない動きで、持ったままだった空のティーカップをテーブルに置くと、アリスは花柄の美しい封筒を手に取る。その中から1枚の便箋を取り出すと、無言でセイラの前へと差し出した。
 「…………」
 「本当は、受け取ったその場で、真っ先に見せなくちゃって思ってたんです」
 それは、先日イリスピリアで受け取った、招待状の中に入っていた2枚目の手紙である。セルト王とフィアナ王妃の連名で、アリスにとって重要な事柄が記されていたものだ。
 「でも……ずっと、見せられなくて」
 そこで言葉を切ると、アリスは沈黙した。それに対してセイラは特に何も告げず、穏やかな手つきで件の手紙を手に取り、目を通し始めたようだった。
 心臓がうるさくなっている。自分が書いたものでもないのに、まるで、答案を教師に添削でもされているかのような、落ち着かない気持ちになった。そうたいした長さの手紙ではないというのに、沈黙が非常に長く感じる。読まれる事を望んで、決心したはずなのに。セイラが、自分を傷つけるような反応をしめすはずはないと分かっているのに。それでも、手紙を読み終えた後、師匠がどのような言葉を発するのか、不安で仕方がなかった。
 「アリス」
 ややあってから、落ち着いた声色で呼びかけられる。闇色の瞳を恐る恐る声の主に向けると、同じ色をした瞳は、静かな光を湛えていた。

 「――僕と初めて会った時の事。覚えていますか」

 緊張ではちきれそうになっていたアリスの耳に飛び込んできたのは、手紙が丁寧に折りたたまれる音と、酷く優しい、セイラの低い声だった。
 「師匠と、初めて会った時の事……」
 言われた言葉をおうむ返しのようにつぶやく。セイラと初めて出会った時の出来事。覚えているに決まっている。忘れる訳がない。
 「テティの森でしたね。『呪術で心の傷は治せるのか』と、貴方はとても大人びた質問を僕に投げかけた」
 言葉に出されると、少し気恥ずかしかった。そして同時に、申し訳ないという気持ちが今更せりあがってくる。本当に今更の話だ。だってあれはまだ、アリスが6歳になるかならないかの時の話だから。10年以上も前の事だ。
 父がエラリアで罪を犯して、自ら命を絶った。それが原因で心を病んだ母は、幼いアリスをその手にかけようとしてしまった。そうなると、もう母と共に暮らす事は出来なかったし、周囲もそれを許さなかった。一時はイリスピリア王家がかくまってくれたのだが、エラリア本国での話し合いの結果、アリスは東の森の魔女――テティの元へ預けられる事となったのだ。
 テティは、ふりふりの少女趣味な服をアリスに着せようとしてくるところを除いては、アリスにとても良くしてくれた。課題と言ってたくさんの問題を出し、森の中の様々なものからアリスは答えを探した。父も母も居なくなったアリスに善悪や生きる指針を教えてくれたのは、間違いなく彼女だ。何よりもエラリアから遠く離れ、俗世からも切り離されたあの森の中で、アリスはすべてから逃れる事が出来た。
 ……けれど、何かが虚しかった。全てから逃げる事が出来て、庇護する者にも恵まれて、何も不自由はなかったはずなのに、アリスの心は温かみを失ってしまった。まるで穴の開いた器のように、そこに温かいものを注がれても、決して満たされる事はなかったのだ。底なし沼にゆっくり沈んでいく。そんな事を考えたりもした。
 「自らを傷つけた行為を、偶然魔女の元を訪れていた師匠は、強く叱ってくれましたね」
 天気の良い、冬の日だったと思う。あの日は確か、母の夢を見てしまったと記憶している。目覚めてからずっと続くもやもやを打ち消したかった。だから、自暴自棄になって、つい、自身の腕を強く打ちつけてしまったのだ。森の鋭い木々の幹に。
 腕を伝う生暖かい血を見て、心が冷えてもまだ自分の中に流れるものが温かいという事に安堵した。しかしそれと同時に、やはり悲しくなった。不貞腐れて小屋に戻った時、テティには客が居た。――それがセイラだ。
 「あれだけの血が出ているのに、アリスはちっとも泣かないんですから。無表情で、自分でやったのだと。……肝が冷えましたよ。怠け者の僕が、すぐに呪術を使ってしまったくらいにね」
 「あの時は……すみませんでした」
 頬を赤らめ、アリスは恥ずかしそうに言った。11年越しの謝罪の言葉に、セイラはくすりと笑う。
 びっくりしたテティとセイラに、どうして傷ついているのか訊かれ、自分でやったのだと、正直に答えた。普段は無表情なはずの顔を、悲しそうに歪めたテティの姿が忘れられない。そしてセイラは、ゆっくりアリスの両肩を掴むと、静かに叱ってくれたのだ。『それだけは、何があってもしてはいけない事です』と。闇色の瞳をぴったりアリスに合わせて。父の一件があってから、真正面から自分の事を見てくれる人間なんてあまり居なかったものだから、驚いた。そうして正直に『はい』と答えた記憶がある。
 「呪術を見たのは、あの時が初めてでした。人の傷を一瞬で治してしまう奇跡の力に、私は憧れたのだと思います」
 少しの呪文が紡がれた直後には、温かい力がアリスを包み、あれほど疼いていた傷が一瞬で塞がったのだ。同時に、胸の痛みも軽くなったような気がした。だから咄嗟に聞いてしまったのだ。
 「呪術で、心の傷は治せるのか。――私は、縋りたかったんです。父も母も居なくなってしまったけど、この力があれば、もう誰も傷つかないんじゃないかって」
 セイラから返ってきた答えは、どちらかというとノーに近かった。呪術の力で、肉体の傷は治せる。けれど、心の傷は一筋縄ではいかない。力で何とかしようとしても、心は従ってくれないものだから。
 そう告げられても、アリスはそれに縋ろうとした。

 ――私を、貴方の弟子にして下さい。

 何かをしたいとか、何かが嫌だとか。そういった自身の願望を全く言えなくなっていたアリスが、久しぶりに告げたわがままがそれだった。
 同じ事を思い出したのだろう、目の前に居るセイラが緩く笑って目を細めている。あの時、アリスの爆弾発言を受けて完全に表情を失った彼の顔が脳裏に浮かび上がってきて、アリスは小さく吹き出した。そして、その様を見ていたテティが、びっくりするくらい大きな声で笑い出した事も思い出す。
 セイラから弟子入りを何度も断られたアリスだったが、数年ぶりに出たわがままは、簡単に収まる訳がなかった。絶対に自身から赴かなかったエラリア城に足を運ぶと、目を丸くして驚く叔父に向かって、セイラの元へ行く事を許可するよう申し出たのだ。結局、セイラが折れてアリスのレムサリア行きがかなったのは、それからしばらくの事だった。
 「さすがにもう、あれだけのわがままを通す事は、この先無いと思いますよ」
 あまりにセイラがおかしそうにしているものだから、アリスは少しだけムッとして言った。くつくつと、しばらくの間セイラが笑う声が部屋に響いたが、やがてそれもなくなり、突然静かになる。時刻ももう遅くなってきている。窓の外を見ると、優しい闇がエラリアを包んでいた。
 「そうですね。アリスはもう、わがままを言う6歳の女の子ではないですよね。でしたら……最後に師匠の願いをかなえてくれますかね」
 最後、と。軽い調子で告げられた台詞の中にある、あまりに悲しい言葉を受けてアリスは胸を跳ね上げていた。きちんと話をしようと決意して、この部屋を訪れた時から予想はしていたが、分かっていても尚、胸が締め付けられる。
 「あなたを弟子に迎える時、最初に言った事を覚えていますか」
 「はい。……いつかは、エラリアに戻りなさいと」
 レムサリアに行き、水神の神殿で守人となった時、真っ先に告げられた言葉だ。あの頃は、やはりこの人は嫌々自分を受け入れてくれたのだと思った。適当に修行をつけたら、さっさと自分をエラリアに帰すつもりなのだと。そんな事は嫌だった。ようやく掴んだ居場所を逃すわけにはいかない。だからアリスは必死で学んだし、セイラが求める以上の結果を常に出そうとがむしゃらだった。
 「あの頃の私を思い出すと、ひどく滑稽です。へまをするとエラリアに帰されるのではないかと、必死でした。……けれど、師匠は優しかった」
 「一旦引き受けたんですから、中途半端に放り出すような事はしませんよ」
 心外だ。と言いたそうな顔で、セイラは苦笑いを浮かべる。そう、突然6歳の少女を任されてしまったにも関わらず、この師匠は全力でアリスを包んでくれた。
 「それに、エラリアに帰すもなにも、貴方はびっくりするくらいに優秀ですから。水神の神官長達からは、エラリアに掛け合って、アリスがずっとレムサリアに居られるようにしてはどうかと、何度か言われた事がありますよ」
 「え……?」
 それは初耳だった。水神の神殿の人々は、アリスを温かく迎えてくれたが、そんな風に思ってくれていたとは、さすがに驚きである。おそらくセイラは、意図的にアリスには伝えなかったのだろう。神官長達にも口止めをしたのではないだろうか。噂話すら聞いたことがないからだ。きっとこれまでのアリスであれば、その話を聞いた瞬間に安堵し、受け入れてしまっていただろうから。
 「もちろん掛け合ったりはしなかったですけどね。水神の神殿がどれほどアリスを必要としていても、アリスはエラリアで生まれたエラリアの人間ですから。優秀であればあるほど、その力は母国の為に使うべきだと思うのです。……それが、師匠としての僕のただ一つの願いですよ」
 言って、優しく微笑む闇色の瞳を見つめているうちに、ゆらりと視界が歪んだ。
 師匠の願いをかなえてくれと、先ほどセイラは言った。その願いというのが、今しがた告げた内容なのだろう。

 ――いつかはエラリアに戻りなさい。

 それは、アリスを追い出す為の約束ではなかった。いつか、自身の居場所を見つけた時に、身に着けた力を持ち帰られるように。そういう願いが込められたものだった。その事に気付いた途端、アリスの涙腺は完全に崩壊してしまっていた。ぽたりと、水色のワンピースの上に涙が落ちる。
 「……今日ここで、セルト陛下の手紙を見せてくれたという事は、もう貴方は決めているのでしょう」
 問われて、無言で頷く。言葉など出そうになかった。嗚咽が漏れぬよう、押さえつけるので精一杯だったのだ。
 「ヴォンクラウン家の養女となれば、大きな後ろ盾を得る事が出来ます。貴方の居場所を支えるしっかりした基盤となってくれるに違いないでしょう。そして、エラリア国立学校への特待生入学ですが、これも、貴方の能力からして十分やっていけると言えます」
 それは、2枚目の手紙に記された、セルト王とフィアナ王妃からの提案の内容そのものだった。彼らは、アリスにエラリアに戻って来ないかと持ちかけてきたのだ。ただ戻る訳ではない。大臣も輩出している名門貴族の養女となり、揺るぎない基盤を得た上で、エラリア国立学校の学生にならないかという提案だった。王家の名を失う事にはなるが、アリスにとってエラリアの名は足枷でしかないから。それを理解した上での、心からの配慮だ。そんな叔父達の気持ちが、嬉しかった。けれど、それを受け入れるという事は、もうセイラの傍には居られなくなるという事も示していた。
 「アリス」
 こちらを見るように言われた気がして、アリスは顔を上げる。とめどなく流れる涙を見せるのは恥ずかしかったが、セイラはそんな事を笑ったりはしなかった。黒瞳は今夜の空のように、包み込むような優しさに満ちていた。ほんの少しだけ、寂しそうではあったが、師匠は満足そうに微笑んでいる。
 「すみません……どれだけのものを与えて頂いたか分からないのに。師匠に何も返せないうちに私は……」
 「おや、そんな事はありませんよ」
 嗚咽を押さえつけて、無理やり言葉を刻むアリスを見て、セイラはおどけたように告げる。
 「水神の神子として生まれた運命を恨んだ事はあれど、感謝した事はなかった僕に、光を与えてくれたのはアリス、貴方ですよ」
 「――――」
 「先代の神子が、常々僕に言っていました。誰かを守る喜びを知りなさいと。僕はその意味がよく分からなかった。アリスはそれを僕に教えてくれたのです」
 そこで初めて、セイラの瞳が涙で潤んでいる事に気付いた。緩い笑みを浮かべたり、何かを企んでニヤニヤしている彼の姿は数多く見てきた。たまに、強く怒られた事もあった。しかし、こんな顔は見たことがない。
 「世界中が荒れ始めている。エラリアにもじきに事は起こるでしょう。その時にはきっとアリスの力が必要になってきます。貴方の決断は、正しい事なのですよ」
 「師匠……」
 「何、心配はいりません。言ったでしょう? 居場所は空けておくからと。師弟の間柄が終わっても、僕の守人は貴方だけですから」
 そこまで言われて、もう我慢が出来なくなってしまった。嗚咽をこらえる事を諦めて、アリスは泣いた。
 思えば、こんなにも深くセイラと語り合ったのは初めての事だったかも知れない。こんなにも熱い思いを彼が秘めていた事を、恥ずかしながらアリスは初めて知った。もう少し早く知っていれば良かったとも思ったが、今更の話だ。それに、セイラは言ったではないか。師弟の間柄が終わっても、居場所は残しておくからと。まだまだこれから先、時間はいくらでもある。エラリアに帰還し、己の居場所を完全に手に入れる事が出来たら、きっと会いに行こうと、そう強く心に刻む。

 「卒業おめでとう。アリス」

 セイラの優しい宣告は、静かな夜にゆっくりと溶け込んでいった。



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