追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

 ――今夜決行。

 そう主から随分前に聞かされていたから、覚悟は出来ていた。王城の中を歩くのに最もふさわしくない姿――漆黒の外套を纏い、抜身の剣を携えた状態で、エラリア城の廊下を歩く事も、別段緊張する事ではなかった。
 エラリアは、イリスピリアと違って随分とやりやすい。軍事力から言って大きな差があるが、それ以上に、強大な結界が存在しないという事が大きい。イリスピリアには、ティアミスト家が張り巡らした強力な結界が存在する。魔族(シェルザード)達は、その中で力を振るう事は出来ない。ティアミストの血を引く人間……彼自身を例外として。
 故に、イリスピリアで暗躍する時と比べて、今のこの状況は、彼にとってかなりやりやすいと言えるはずのものだった。
 「…………」
 それなのに。目的地に赴く足取りがこうも重く感じるのは、何故なのだろうか。
 血を分けた妹と敵対するから。そうも考えたが、昨夜の夜会で妹と強引な再開を果たし、言葉を交わした折にそれは否であると分かった。浮かんできたのは切なさだけで、後悔やためらいは一切無かったから。
 それでは何故、自分は今、心の奥底で戸惑っているのだろうか。
 一つ、心当たりがあるとすれば、それは彼がイリスピリアで犯した一つの過ちであったと思う。

 「――――」

 夜も随分と更けて、人々の多くが眠りにつき始める時間になっていた。そんな時間に、光量の落とされた廊下に佇む人間が居た。まるで、彼を待ち伏せでもするかのように。それは、予想外の出来事。だが、驚いたりはしなかった。何となく、彼女とはこういう形で再会してしまうのではないかと、そう思っていたから。
 彼の姿を認めて、彼女自身も、きっと似たような事を思ったのだろう。エメラルドグリーンの瞳を潤ませると、腰に下げた剣にゆっくりと手を回したようだった。

 「……シン」

 戸惑いがちの表情でこちらを見やるイリスピリアの王女を視界に入れても、彼――シンは表情を緩める事はなかった。
 あの日。イリスピリアを去る事になっていたあの日だ。向かうはずのなかった国立図書館に、不思議と足が向かってしまった。そして、今彼の目の前にいるリサ王女と再会してしまったのだ。それがきっと、今のこの言いようのない感情を招く原因となったのだろうと思う。悲しそうに瞳を細める彼女を見て、自身の胸がざわつくのが、きっと何よりの証拠だ。
 「できれば、もう出会いたくはなかったんだけどな」
 自嘲気味に零した言葉は、夜のエラリアに小さく響き、すぐに消えてしまった。






7.

 「ま。一番手っ取り早い方法としては、直接本人に、聞いちまえばいいんだけどな」
 話はもう終わりかと思ったものの、アキはまだシズクとの話をやめる気はなかったようだ。緩く腕組みをすると、彼はそう告げてしかめ面を浮かべる。
 「本人にって……何をですか?」
 首を傾げて問うシズクをちらりと一瞥してから、アキははっきりした声でこう告げてきた。
 「リースに。なんでシズクにライラの花を寄越してきたのか? ってね」
 「なっ……」
 「すっきりしたいんだろう? ここで悶々と考えていても答えなんて出る訳ないし、俺がシズクならそうするけどね。……どうせあいつ、自分から動くような事無いだろうし。ったく、前夜祭のパーティーの時のあの表情、シズクにも見せてやりたかったよ」
 前夜祭の夜の話がアキの口から飛び出したところで、シズクは顔が熱くなるのを感じる。かなり余計な記憶を呼び覚ましてしまったからだった。
 明りが消えた部屋の中に、銀色の月光が降り注いでいた。普段とは違う色彩のリースの姿と表情。突然近くに感じた体温と香り。――未だにあれは、やはり夢だったのではないかと思う。
 そしてその記憶に付随して、リースがオルトロスの百合姫と優雅に踊る光景を思い出し、小さく胸が痛んだ。めまぐるしく色々な事が起こった夜だった。いきなり知らない従者の青年に声をかけられたかと思えば、直後には手を引かれて、視界には自分と全く同じ色の瞳を持った人物が居た。もう会えないと思っていた人だった。幼い自分が、兄と呼んで慕っていたはずの人は、しかし冷たい表情で、妹である自分に、冷たい宣告を落としてきた。

 ――ジーニア・ティアミストは、ティアミスト家の次期当主ではなかったはずだ、と。

 「…………」
 「――シズク」
 妙に真剣な声で、名を呼ばれる。思考がシンと名乗るあの青年との邂逅にたどり着いたところで、アキが声を上げたのだった。ゆっくりと彼と視線を合わせてみれば、真剣な様子で細められた夏空の瞳がある。そこに宿るのは、興味の色と、こちらに自白を迫る鋭い光だった。あの夜、兄が宿した瞳の色に少し似ている気がして、シズクは思わず怯んでしまった。
 「あんたってさ、何者?」
 「……え?」
 自分に向けられた視線と、その質問内容に、困惑してしまう。
 「それは……リサ様の付き人ですとしか……」
 「建前上の立場だろう? 俺がききたいのは、そういう事じゃなくて、リサ姉やリースにとって、あんたって何者なのかなって事」
 言って、アキはそれきり黙りこむと、シズクの返答を待つかのように視線だけはこちらを真っ直ぐに見据えたままを保つ。
 「リサ様達にとって……」
 質問の内容を小声で反芻する。突然の事で、シズクはすぐに答える事が出来なかった。
 エラリアでの仮初の立場は、先ほど告げたようにリサ王女の付き人である。そして、イリスピリア王家にとってのシズクは、魔族(シェルザード)達との交渉の道具。イリスピリア王の言葉を借りると『世界の光』というものだ。イリスピリアやエラリアの国民や使用人たちからは、『聖女』とも呼ばれている。
 しかし、リサやリースは違う。そのような事は望んでいないだろうし、彼らがシズクに手を貸してくれるのは、シズクがジーニア・ティアミストであるからではない。
 「……志を同じにする『仲間』」
 「え……?」
 ぽつりと出てきた言葉が、それだった。思考の海から脱し、ゆっくり視線をアキに戻すと、夏空の色をした瞳を見つめながら、シズクはもう一度言った。
 「立場や身分は関係なく、お互いを支えあえる関係。……『仲間』であればいいなと、わたしは思っています」
 王族相手に『仲間』だなど、聞く人が聞けば気分を害するような言葉だ。適当な答えでごまかしてもよかったはすだ。そうは思いつつ、シズクは迷いなく言葉を紡いだ。相手がアキだったからかもしれない。彼ならば、シズクの言葉を素直に受け入れてくれそうな気がしたからだ。
 「……そうか」
 案の定アキは、別段不機嫌になるでもなく、シズクの言葉を受けて満足そうに笑っただけだった。夜の風が二人の間を流れていく。真剣な話をして少し火照っていた体に、それらは心地が良かった。
 「その言葉を聞いて、少し納得できたよ」
 「納得?」
 「リースが何で、あんたに惹かれたのかって思っててさ」
 「――――っ」
 それは、からかいなど込められていない言葉だった。満足そうに笑った直後の、やけに神妙な顔つきで放たれた言葉だったものだから、シズクはどきりとした。
 「リースはさ」
 間髪入れずにアキは二の句を紡ぐ。シズクは動揺から抜け出せずに、落ち着かない状態のままアキの顔を見つめる事しかできなかった。彼はもう、シズクの方を見つめてはいなかった。どこか遠くを見つめるように、騎士団の練習場であるここからは遠く見える、エラリア城の棟の方を向いていた。
 「あいつは、妙に諦めきったヤツでね。昔から、自分の立場をしっかり理解していたし、それがとてつもなく重い責任を伴うものだって事ももちろん理解していた。それはもう、見事なもんだ。……未だに親父の跡を継ぐ事に戸惑っている俺からすると、恐ろしいと思えるくらいに」
 言って、アキはやれやれといった様子で肩をすくめる。リースの性格からいうと、それらの内容は別段驚くべきものではなかった。イリスピリアを訪れてから、シズク自身も数回垣間見た光景である。イリスピリア国民でないシズクでもすぐ理解できてしまう程、リースに対する周囲の期待は熱い。そうして、リースはそれらを特別でもなんでもない、当たり前の事として既に受け入れている。
 「そんなあいつが、身分なんて面倒なもの、無くなればいいのにって言ったんだ」
 真剣な顔から一転、今度はにやりと含み笑いを浮かべると、アキは実に楽しそうな様子で両腕を頭の後ろに組んだ。
 「人並みな言葉だけどさ。それがあいつの口から放たれたって事に、俺はびっくりしたね」
 からからと笑うアキをよそに、その話をきいたシズクの心中は先ほどにもまして穏やかではなくなっていた。大国の王子様が。それも、あのリースがだ、そんな事を言ったというのだ。
 「……それは……わたしのせいなんでしょうか?」
 恐る恐る尋ねる。そんな馬鹿なと思うものの、これまでの話の流れからすると、どうやらそういう事のような気がしてならない。それに、シズク自身にも心当たりがないと言えば嘘になる。アリスやリサももちろん、彼女達の立場に関係なく、シズクに手を差し伸べてきてくれた。しかし、リースに限っては、あの星降りの事件が起こってからずっと、王子としてあるまじき態度や対応を取らせる結果になってばかりいるような気がするのだ。
 友人や大切な人に対して行う分には当たり前とされる行動が、シズクとリースが抱えているものが間に入ってしまうと、酷く難しくなる。その矛盾を、シズクはどちらかというと諦めていた。仕方のない事だと、割り切らなければいけないと、そう思っていた。だから、場もわきまえずにリースに『普通』を求められる事に、苛立ちと焦りを感じて仕方がなかった。
 ――けれど、リースはどうだったのだろう。
 「……別に俺は、それを悪いことだとは思わないけど?」
 え。と、冷や汗が浮かぶ顔のまま、アキを見た。先ほどは遠くを見つめていた彼は、今はこちらを真っ直ぐに見つめ、どちらかというと呆れたような目線を寄越してきていた。組んでいた手を離すと、アキは右手で自身の明るい色の髪をくしゃりとかく。
 「俺、シズクとの付き合いは短いけどさ、なんとなく、リサ姉がやきもきしている理由、分かった気がするわ」
 「それってどういう――」
 「やっぱ、リースと話せよ。しっかりとな」
 どういう事か。そう尋ねようとしたところで、アキにそう言葉を被せられてしまう。きっと今回ばかりは彼は答えを自分に示してくれないのだろう。呆れたような、それでいて真剣な夏空色の瞳が、シズクを見据えて離さない。
 「ここで俺と話していたって仕方ない。これは、シズクとリースの問題だろう? 納得するまでお互いの腹割って話し合うしかないだろ。何とかしたいと思うのなら、だけど」
 話し合えと言われて、ぎくりと体が強張る。昨日の晩から様々な事がたて続けに起こっているのに、自分はリースとまともに口をきいていない。話さなければいけない事がいくつかあるのは分かっている。アキが言う事ももっともだ。分かっていながら、シズクは逃げて目をそらしていた。そして、おそらくそんなシズクの心中も、アキはお見通しなのだろう。分かっている。シズクは隠し事が苦手で、嘘も得意じゃない。
 「悩んでる暇があったら、今からでも行けばいいだろ?」
 「え……えぇ!?」
 「リースもどうせまだ起きてるだろ。部屋が分からないってなら、俺が連れてってやるから――」



 「楽しそうなところ悪いんだが。……そうされると、私としては困るな」



 シズクの手を掴み、今にも走り出さん勢いのアキだったがしかし、あまりに予想外の乱入者の登場で、待ったがかかる。会話に見事に水を差された形だったが、アキの口からは不平や不満の言葉は出てくることはなかった。ぽかんと呆けると、アキは介入者の姿を視界に入れたようだった。
 「……あんた、誰?」
 盗み聞きされていた事を抗議するにしては、幾分鋭すぎる警戒心を乗せて、アキは尋ねる。何の気配もなく、突然姿を現した乱入者は、くすりと笑ったようだった。
 「…………」
 聞き覚えのある声。出来れば、再び聞きたくはないと思っていた声。これまでの会話の内容からいって、あまり他人に聞かれたい部類ではなかったのだが、シズクの胸に広がったのは恥ずかしさではなく、重苦しい緊張の感情だった。
 恐る恐る振り返り、声の主の姿をとらえると、視界に飛び込んできたのは、夜の闇の中でも艶やかに輝く銀髪と人間にはあり得るはずのない、紅い瞳だった。
 「……カロン」
 その者の名を紡ぐと、彼は紅玉の如く輝く瞳を、愛おしそうに細めてこちらを見やる。ぞくりと、心臓をわしづかみにされたような気持になった。
 乳白色の外套に身を包み、練習場のただ中に優雅にたたずむ彼は、間違いなくシズク達の敵である魔族(シェルザード)の王だった。

 「お前を、イリスピリアの王子に取られる訳にはいかないな。……ジーニア」



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