追憶の救世主
第5章 「交錯する思い」
8.
今夜は平和に終わると思っていたのに。
そんな言葉が、胸の中に浮かんで虚しく消えていく。いつかは穏やかな時は壊れると。なんとなくそう覚悟はしていた。だが、それが今夜だとは思いもしなかった。そして、まさかこんなタイミングで起こるとは予想外である。
乳白色の外套を纏った銀髪の青年は、シズクの方を見つめたまま決して視線を離さない。魔族(シェルザード)の王たる証である赤い瞳に魅入られて、シズクはその場から一歩も動くことが出来ずにいる。
「……ジーニア?」
隣で、シズク同様警戒を露わにしているアキは、彼にとって聞きなれない単語を耳にして首を傾げたようだった。正直、この場ではあまりその名で呼ばれたくない。アキの口から放たれた自身のもう一つの名に、ぎくりと背中を強張らせる。だが、アキの表情を見る訳にもいかなかった。
「忘れたのか? ジーニア」
くすりと笑んで、魔族(シェルザード)の王――カロンは一歩、こちらに踏み出した。胸中で警笛が鳴る。
「……何のことかさっぱり分からないのだけど」
いつでも後方に下がれるような体勢で、シズクは告げる。放った声は、内心の緊張に反して、落ち着いた調子であった。その事に少し、安堵する。
カロンと会話をするのはこれが二度目であるが、彼の言葉をシズクは理解できたためしがない。忘れたのかと問われても、そもそも何について尋ねられているかが意味不明である。まぁ、彼と問答をする事自体、無意味な事なのかもしれないが。
案の定カロンは、シズクの返しに嘲るような笑みを零した。
「お前の母は、何も教えずに死んだのか? ……はははっ! お前はまったく悲しいな」
「…………?」
「仮にお前が望んだとしても、ティアミストは、決してイリスピリアのものにはなれないのだよ」
故に、お前はイリスピリア王子のものになる事は許されない。そう告げて、カロンは憐れみを含んだ視線をシズクに浴びせてきた。彼の言葉とその内容に、ぞくりと肌が泡立つ。いずれも、見ず知らずの他人である彼には言われる筋合いのない類の言葉だった。けれど、それを耳にして反発を覚える一方、どこかで納得してしまう自分がいるのも事実だった。
「さっきから聞いてりゃ、あんたは好き勝手だな」
反発できないシズクの代わりに動いたのは、ほかでもないアキだった。異様な今の状況を危険と判断したのだろう。彼は既に抜刀した状態で、カロンに対していつでも戦闘に入れる体勢を取る。月光を受けて鈍い光を放つ刀身を見て、シズクもまた、身を引き締める。
「イリスピリアのものだの王子のものだのなんだの。……シズクはものじゃないだろ。どう動くかはシズク自身が決める。少なくともあんたに指図される事ではないね」
反吐が出る。そう聞こえてきそうな程、アキの口調は厳しい。自分の道は自分で切り開く。それが当たり前の彼からすると、カロンの先ほどの物言いは到底許容できるものではなかったのだろう。
「何も知らないから、お前は軽々しくそう言えるのだ」
「その通り。何も知らないね。だから、感じたままに言ったのさ。あんたの物言いは気持ち悪くて仕方がない」
鋭いアキの言葉を受け取っても、カロンは笑い声をあげるだけで、怒りすら見せる事はなかった。
「一個人の希望や願いが優先されるような、規模の小さい話ではないのだよ。全ては、500年前に約束された事」
――500年前。
(……嫌だ)
その単語を耳にして、心臓が嫌な音を立てる。シズクにとっては、全てがまったく耳慣れない話だ。突然現れたカロンが、何故こうも介入してくるのかも分からない。憐れみや嘲りが十分に含まれている所も理解が出来ない。……けれど、何故だろう。これ以上、カロンの話を聞きたくない。聞いてしまったら、きっと大変な事に気づいてしまう。そう思うのは。
「ジーニアが知らないのは仕方ない。どうやらお前は母親たちから何も聞かされぬまま取り残されたようだから。哀れな娘だ」
「…………」
「だが、お前の中に在る、あの者の記憶には、忘れたとは言わせない」
「――――!」
びしりと、心の中で何かに亀裂が入るような感覚がした。背中を冷たい汗が滑り落ちる。カロンの紅い瞳から目が離せない。ゆっくりとした動きで彼は、右手の人差し指をシズクに向けた。断罪されるような気持ちになり、無意識に首を横に振ってしまう。
「居るのだろう? ……シーナ」
その名を耳にして、体が震えた。シズク自身は、状況がさっぱり呑み込めないのに、カロンに問われて、とても後ろめたい気持ちがこみ上げてくる。カロンはおそらく、こちらを熱心に見ているようで、もうシズクを見てはいないのだろう。彼が見つめる先に居るのは、シズクではない。シズクの中に居ると言われた、『彼女』だ。
「500年前、お前が我ら魔族(シェルザード)を欺き、イリスピリア王家を裏切ったあの時から、すべては始まったのだよ」
「ちが……」
「何が違う? お前の魔力や容姿をそっくりそのまま受け継いだ哀れな娘が、再び我らやイリスピリアに断罪されるのも、何もかもお前のせいなのだよ――シーナ」
「「――違う! 私は、そんなつもりはなかった!」」
気付いた時には、そのような言葉がシズクの口から飛び出していた。だが、直後には両手で口を押さえていた。歓喜の色に染まるカロンの赤い瞳を目にしても、ティアミストブルーの瞳を見開く事くらいしか出来ない。
――自分は今、何を口走った?
まるでシズクに覚えのない事で断罪され、ただ混乱していただけなのに。物事全てを把握したうえでの言い訳のような言葉を発してしまった。否、発してしまったというよりは、発せられてしまったといった方が近い。声も体もシズクのものだったが、全く違う誰かが、勝手にシズクにそう喋らせたような、そんな奇妙な感覚が体中を駆け抜けたからだ。
以前、エラリアの玉座の扉前で、セルト王から問われた時にも、似たような感覚に陥った事を思い出す。言うつもりのない言葉を誰かが……己の中に居ると言われたシーナの断片が、発したというのだろうか。簡単には信じられない話ではあるが、あながち突飛な事でもないと思う。テティに告げられたではないか。シズクの中には、シーナが混じっているのだと。
しかし、これでは……混じっているというより、まるで自分の意識が、ほかの何かに浸食されかけているような状況ではないのか。そこまで考えが至ると、背筋が凍った。
「――――っ」
「……哀れだな、ジーニア」
すっかり狼狽しているシズクに向けて、カロンは同情がこもった台詞を落とす。
「……王。あまりその方を責めすぎないで下さい。その方が悪い訳ではないのですから」
ふわりと、空気が変わった感じがして、シズクは青ざめた顔を上げる。目の前には相変わらずカロンの姿があったが、その更に後方に、新たな人物が現れていたのを認めて、眉をひそめる。カロンと同じ、乳白色の外套に身を包んだ、銀髪の女性だ。瞳の色と状況から、彼女も魔族(シェルザード)である事が分かる。人形のように、表情が全く変わらない妙齢の女性だった。初めて見る人物だ。
「イシュタルか」
どうやらそれが、彼女の名前らしい。カロンに呼ばれて、女――イシュタルはゆっくり頷く。そして、地面をすべるような動きでカロンの隣に並び、更に歩んでシズクとアキのすぐ目の前までやって来た。そして、お手本になりそうなくらい綺麗な礼を取る。敵と思しき人物から敬意を表されて、どう反応して良いかも分からずただシズクは立ち尽くす。剣を構えていたアキも、若干戦意をそがれたようだ。
「ジーニア様。悪く思わないで下さい。しかし、王の言う事は、すべて本当の事」
感情を出さない、淡々とした調子で告げられる。本当に人形のような人物だ。夜の湖面を思わせる色をした瞳にも、ゆらぎが感じられない。
「王の突然の登場でさぞかし驚かれた事でしょう。さて、我らが今宵ここに現れたのは、ほかでもありません、エラリアの『石』を手に入れる為です。出来れば、邪魔をしないで頂きたいのですが……おそらくそれは、無理な話なのでしょうね」
当たり前だ。言葉に発さずとも、シズクとアキの表情を見る限りそう悟ったのだろう。イシュタルは、はなから説得などする気がなかったかのような言い回しをして、肩をすくめた。
「ですが、こちらとしても目的は遂行しなければならないのです。邪魔をなさるというのであれば、それなりの対処をするまでです」
殺意も敵意も感じさせない淡々とした動きで、腕を振り上げた瞬間、イシュタルの術が発動したようだった。あまりに突然の事で、まるで反応することが出来なかった。訓練場にいるシズク達を取り囲むようにして、十数体の魔物が現れたのがその直後の事。
「な……!」
驚きの声を上げるアキの隣で、シズクは静かにイシュタルの顔を見据えていた。
「不必要な殺しは致しません。この魔物達は、攻撃さえしなければ貴方達を襲う事はない。ここでおとなしくして頂ければ、それでいいのです」
「……シュシュの町を無差別に攻撃した人たちの言葉とは思えないわね」
「不必要な殺しはしないのです。シュシュのあれは、我々にとって必要だからやったまで」
あまりに無感情なイシュタルの言葉に、カッとなる。思わず呪を唱えそうになるが、そうなる前にイシュタルは、魔物の包囲網の外に脱出を果たしていた。
シズクとアキの周囲には、涎を垂らし、咆哮を上げる魔物の群れ。おそらく、召喚術によるものだ。魔族(シェルザード)が得意とする手である。
どおんと、城の方からも深い地響きと喧騒が聞こえてくる。魔族(シェルザード)の手の者は、彼ら二人だけではないのだろう。彼らの求める『石』は、エラリア城内のどこかにある。城も襲撃にあっていると予想される。
「――ジーニア」
イシュタルと共に、カロンもまたその場を去るつもりのようだった。去り際に、呼びかけられる。もうこれ以上、心の中をかき乱さないで欲しい。そう思うものの、カロンがそれを聞き入れてくれるはずはない。
「分かっただろう? ジーニア。己の体の中に、何を抱えているか」
赤い瞳は、ここにきて嘲りや同情の色を消していた。真っ直ぐに目線を合わせ、魔族(シェルザード)の王は、訴えかけるようにしてシズクに告げる。
血の色を思わせる、人間では決してありえない色彩の瞳に、銀糸のような髪。その色合いを目にして、シズクの中には何とも言えない懐かしい気持ちと、切なさがこみ上げてくる。それは、幼い日にカロンと出会ったジーニアの気持ちなのか、それとも、己の中にあるというシーナの気持ちなのか、今のシズクには分からなかった。
「お前がシーナの影から逃れる最善の術は、もはや我らと共に行く道なのだよ。イリスピリアにも、エラリアにも、安息はあるまい」
「そんな事――」
「イリスピリアの王子のものになるというのなら、その前に、私がお前を奪いに行こう」
不穏な。だが、どこか悲痛な言葉に聞こえた。
紅い瞳の魔族(シェルザード)は、そう言い残すと、イシュタルと共にエラリアの城へと姿を消したのだった。追いかける事はもちろんかなわない。シズクとアキの周囲には、多数の魔物が居る。イシュタルが言うには、こちらから攻撃を仕掛けない限りは、彼らに襲われる危険はないらしい。だが、事が終わるまでここでじっとしている訳にもいかない。まずはこの状況を何とかしなければ。
不幸な事に、ここはエラリア城のはずれに位置する。城の中でも騒ぎが起こっている事から考えて、応援がかけつける可能性はあまり望めないだろう。シズクとアキ二人で切り抜ける必要がある。使用人の格好のまま武器を持つわけにもいかなかったので、旅の中で愛用していた棒は携帯していない。その事が少しだけ、悔やまれる。
「……シズク。確認してもいいか?」
魔物に取り囲まれている状況の中、アキは驚くほど冷静だった。周囲への警戒は怠らないが、割とのんびりした調子で尋ねてくる。
「なんでしょうか」
「さっきのカロンって奴との会話から推測するに、俺はあんたが何者か、なーんとなく分かっちまったんだが。……まぁ、その話はここを何とかした後でするとして。――シズク、お前どれくらい戦える?」
シズクが戦える人間であると断定しての質問に、一瞬胸が跳ね上がる。カロンとのやりとりの中、何度も紡がれた『ジーニア』という名前と、ここ最近エラリアで頻繁に聞かれるようになった聖女の名をイコールで結びつけるのは、そう難しいことではない。アキは、シズクの素性を正確に理解したのだと考えて間違いではないだろう。エラリアでの穏やかな日々が、終わりを告げる。だが、一方で正体を悟られてしまった方が今は何かと都合が良いとも思った。魔物の輪から抜け出すには、どうしても一介の使用人が使えるはずのない力――魔法の力を借りる必要があるからだ。質問からして、アキも、ここで助けが来るのを待つつもりはないと取れる。二人。いや、おそらく一人でも乗り越えるつもりなのだろう。青い瞳には、決意が感じられた。
「魔法で……おそらく、お役に立てる程度には」
それほど間をおかずに、静かに答えると、アキは満足そうに頷いた。
「そか。じゃぁ後方は任せる。俺は正面に道を作るから」
そうざっくりと指示するや否や、アキはエラリア城側の魔物達に向かって走り出したのだった。
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