追憶の救世主

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第5章 「交錯する思い」

13.

 城の廊下を疾走している間、魔物の残党らしきものと何戦か構える羽目になった。常時であれば10分とかからず到着できる場所だったが、今日に限ってはそう上手く行かないらしい。予想以上に時間を食った。その事に小さく舌打ちしつつも、リースはようやく見えてきた廊下を視界に入れ、安堵の息をつく。玉座の間はもうすぐだ。
 「…………?」
 ふと視界に入った色に、リースは眉をひそめる。城内の避難は騎士たちによって速やかに遂行されており、廊下には人っ子一人居ない。魔物の姿もない。そのはずだった。それなのに――
 金色の巻き毛に色白の肌。打ち捨てられた蝋人形のように、細い手足が力なく床に投げ出されている。石壁に背を預け、その場で崩れ落ちているのはリースの姉であるリサ・ラグエイジに他ならなかった。普段なら無理難題が飛び出してくる唇は閉じられており、リースと同じ色をした瞳もまた開くことはない。事態を飲みこんだ瞬間、さっと全身の熱が下りていくのが分かった。
 「姉貴!」
 弾かれたようにそう叫び、慌てて倒れる姉の元へと駆け寄る。肩に触れると衣服越しに人間じみた体温が伝わってきた。最悪の事態が一瞬頭によぎったのだが、どうやらそれは免れたらしい。規則正しい寝息も聞こえてきたところで、ようやくリースは長く息を吐いた。見たところ外傷もない。おそらく、気を失っているだけだろう。
 「……ん」
 脱力したリースの耳に、か細いリサの声が届いたのがその直後の事だった。瞼が揺らぐと、自分と同じエメラルドグリーンの瞳が現れた。気がついたらしい。
 「姉貴?」
 「あ……」
 焦点が定まらない感じでぼんやりとしていた表情は、時間を経て徐々に生気を帯びるようになる。黙って状況を見守っていたリースだったが、
 「シン……じゃない」
 姉の口から飛び出した、自分の名ではない単語を受けて、盛大に眉をひそめる事となった。直後には心底残念そうな表情を浮かべだす姉の顔を見て、安心すると同時に呆れの感情もやってくる。
 「弟の顔を見間違えるな」
 「んーごめん。でも、ほんっとうに残念だったから」
 口調はいつもの姉だった。会話も普通に行えるところからして、どうやら本当に気を失っていただけだったようだ。姉の無事に安堵の溜息を零すが、彼女の表情がいまいち冴えない事に気づいて首をひねる。目を覚ましたばかりだからかも知れないが、やはり顔色が良くない。そもそも、このような場所で昏倒している事自体不思議な事だった。魔物と一戦交えた形跡もないし、負傷している様子もない。けれど、廊下に無造作に転がった姉の剣を視界に捉えた瞬間、何かがあったのかも知れないとリースは思い始めていた。
 「けがはないようだけど……その、大丈夫なのか?」
 「何が?」
 「いや、ずいぶんと疲れているようだから」
 やや控えめに、リースがそう声をかけた途端、リサの表情にわずかだが陰りが宿る。
 「そう……そうね、疲れているのね、きっと」
 リースに指摘されて初めて、彼女は自身の異変に気づいたようだった。自分自身に言い聞かせるように何度かそうつぶやくと、途端に黙り込む。妙な沈黙が廊下に流れて、リースは少し居心地が悪くなった。
 口から先に生まれてきたのではないかと言われる程、日常的によく喋って弁が立つ姉と、このような沈黙を共有した事など、リースの記憶する限りではほとんど経験の無い事だったからだ。
 「……情けない事にね。悪い男にほだされた訳よ」
 数秒続いた沈黙の後、リースの耳に、姉の声が滑り込んでくる。言葉の内容も、告げる声のトーンも、冗談を言っている時と大して変わらない。けれど、それを紡ぐリサの表情は、決して笑っていなかった。ただ寂しそうに、視線の先にある廊下を見つめている。玉座の間に続く廊下だ。
 あの気丈な姉が泣いているのかも知れないと、一瞬ぎくりとしたリースだったが、ゆっくりこちらを振り向いたエメラルドグリーンの瞳に涙はなかった。ただし、まっすぐな瞳の奥で、心は泣いているのかも知れない。
 「悪い男って……あのシンとか言う?」
 冗談に冗談で返すように、リースはつとめて軽い調子で告げる。問いに対する姉からの返事はなかった。けれど、沈黙は肯定を示しているのだと、直感でそう思った。
 シズクとまったく同じ色を持つ青年の姿を思い出す。彼と姉との間に、何かがあったのは確かだろう。憂鬱も豪快に跳ね飛ばす姉が、ここまでしおらしくなるような何かが。
 「分かっているのに。それでもまだ、ほだされ続ける私が居るのよね」
 酷く、悲しい声だった。廊下の先を見つめるエメラルドグリーンの瞳に、光るものをみて、リースはもう何も言えなくなってしまう。姉から目をそらして、リースも玉座に続く廊下の先を見る。魔物との戦闘が続いている外とは違い、城の内部――特に、最も深部にあたる玉座の間付近は、異様に静まり返っていた。まるでその周辺だけ、現実から切り離されたかのように、物音すら聞こえない。ダイモスが告げた内容は、はったりだったのだろうか。一瞬そのような疑念が湧いたが、隣に居る姉の表情を見て、そんな事はないと思い直す。リサのエメラルドグリーンの瞳は、まるで何かを恋い焦がれるかのように、玉座へと続く廊下を見つめて放さない。おそらくは、シンというあの青年はこの先に向かったのだろう。だとすれば、こんな場所で悠長に長話している場合ではないだろう。姉の事は気がかりだったが、いち早く玉座へ向かうのが得策かもしれない。そう思った矢先の事だ。重い――地を這うような振動を感じたのだ。
 「…………」
 振動は、ほんの一瞬の事だった。こんな状況でもなければ、錯覚として流してしまったかも知れないくらいのレベルである。だが、リースの中には確信があった。震源が玉座の方角である事がまた、その確信を強固なものへと変える。
 「俺行くわ」
 端的にそう告げて、リースは立ち上がった。
 「姉貴は立てるか? 少し行ったら騎士達と合流出来るだろうから、彼らに――」
 「リース」
 自分の名を呼ぶ姉の声は、凛と張りつめたものだった。だから思わず言葉を止めて、未だ床に座ったままの彼女を見る。瞬間、自分と同じ色をした瞳に力強く射抜かれる。
 今宵の姉は、やはり少し変だと思う。ただでさえしおらしく、憂いを纏っている。そんな姿だけでも異様なのに、ここまで真剣で切実な視線を、自分に向けてくる。こんな事、リースの記憶する限りではこれまでに一度もなかった。
 「お願い。彼を止めて――」
 私も行く。そう言いだすのではないかと身構えていたリースだったが、姉の口から飛び出した言葉は、まったくもって彼女らしからぬものだった。だからこそ、リサの切実な願いである事が感じられて、リースの胸を突く。
 「もうきっと、今の私では、これ以上何もできそうにないから」
 絞り出すような声は、酷く小声だったが、相変わらず静まり返った廊下は、姉の言葉を遮る事はなかった。
 「…………」
 本当にらしくない。反対する父を強引に説き伏せて、石の手掛かりを探るために他国に乗り込んだ者と同一人物が零す言葉とは思えなかった。ただ己の無力感に打ちのめされて、立ち上がる事も出来ずに茫然と座り込んでいる。そんな姉の姿を見るのは、無性に腹が立った。姉に対しての怒りではない。かといって、あの青年にぶつけられるほど自分は彼の事を知らないし、姉と何があったかもよく把握できていない。怒りの矛先はもっと根本的なものだろう。このどうしようもない事実自体に対するもの。
 エメラルドグリーンの双眸を、泣きそうな顔でこちらを見つめる姉に向けた。言葉は発しなかったが、彼女はリースの中に宿る感情を察してくれたようだ。苦笑いと頷きをくれると、もうそれ以上何も言ってこなかった。リースも再び前方に顔を向けて、玉座の方へ走り出したのだった。






 疾走の時間は大して続かなかった。姉が倒れていた場所から、玉座の間まではそうたいした距離はなかったからだ。角をいくつか曲がると、見覚えのある巨大な白い扉が目に飛び込んでくる。見たところ、特に大きな異常はなさそうだった。ただし、この非常事態の中、当然固く閉ざされているはずの扉が、うっすらと開いているのを見て、リースは背中がぞくりとなるのを感じた。嫌な予感がする。
 玉座の間に隠されていると言う『石』は、まだ無事だろうか。内部を確認する為に扉に手をついたところで、信じられないくらいの轟音と、そして目を焼く程の碧の光が、空いた隙間から漏れ出してくる。いや、漏れ出してくるとかいう生易しいものではない。ほんの少しの隙間から漏れる光でも洪水のようなのだ。中は一体どうなっているのだろうか。

 「――――!」

 ひとしきり光の渦が去った直後に、リースは勢いよく玉座の間に飛び込んでいた。飛び込んですぐ、磨きこまれた白い床と、真紅の絨毯が目に入った。外見上は、以前この場を訪れてから全くと言っていいほど変化はない。しかし、視線を巡らせた先に見た人影が、今が決して平穏時ではない事を告げていた。見知った顔だ。出入り口である扉からそう遠くない位置に蹲っているのはアリスとセルト王で間違いなかった。何故この場に二人が居るのか大いに気になったが、それ以上に、セルト王の状態が芳しくないのが見て取れてリースの心臓は嫌な音を立てた。
 「お、叔父様!」
 アリスが悲痛な叫び声を上げる。包むようにしてアリスを抱いていたセルト王は、彼女の叫び声と時を同じくしてその場に崩れ落ちた。状況がよく読めないが、どうやら彼は『何か』からアリスを守る為に、自らが盾となったのだろう。その証拠に、背中が血で染まっている。
 「セルト王! アリス!」
 二人の名前を叫んで、リースも駆け寄ろうとする。パニックに陥りかけのアリスは、彼の声にハッとしたようだった。一瞬目と目が合うが、それも長くは続かない。
 「――――」
 強い殺気を感じた直後、思考を巡らせるよりも先に体が動いていた。黒刃の剣を抜き放ち、今まさに自らに迫っていた一閃を受け止める。空気が甲高い悲鳴を上げて玉座の間に響き渡った。
 「……っ! シン!」
 交差する刀身の向こうに見えたのは、ティアミストの色を宿した瞳と、さらりと流れるこげ茶色の髪。シズクと全く同じ色だ。至近距離で見た彼は、なるほど彼女の面影が感じられるなと、緊迫した状況下であるのにそのような事を思った。目の前に対峙する青年とシズクは、紛れもなく兄と妹なのだろう。だが、どれほど容姿や持つ色が似ていようとも、彼の纏う雰囲気はシズクとはかけ離れていた。殺気だけで、肌を炙られるような感覚がする。
 「イリスピリア王子っ!」
 どす黒い感情をそのまま表現したかのような、低い声だった。向けられるのは、ただただ真っ直ぐな憎悪だ。こちらを睨みつけるシンの瞳は、酷く淀んで見える。
 何故彼からここまでの激情を向けられるのか、皆目見当もつかないリースだったが、その原因について思考を巡らせる余裕はない。どうやら彼は、躊躇なく自分を殺そうとしているようだから。
 シンの両腕に強い力がかかった直後、リースもまた、自身の右腕の光を強める。黒刀は瞬時に銀色を帯びて、切れ味と速度を上げる。シンの剣を払いのけると、対峙する剣からびしりと鈍い音が上がった。それにも構わずにシンは剣を振るう。繰り出される一撃一撃は重いが、この程度では光神の力を纏った剣が力負けすることはない。その証拠に、撃ち合う度シンの剣が軋んだ音を上げるのが分かった。しかし、彼は攻撃を緩める気はないようだ。
 「おぉぉぉぉっ!」
 狂ったように叫び、シンが繰り出してきた一撃を大きく薙いだ瞬間、小気味よい音を立てて彼の剣が真っ二つに折れた。瞬間、シンが僅かに体勢を崩す。その一瞬の間を見逃すはずもなく、リースは躊躇なくシンの右肩に一閃を与える。折れた剣を手放してしまうのは道理だ。シンの剣が大理石の床を打つ音が響き、当の本人は呻きながら後ずさる。
 「…………」
 聞こえてくる息遣いが荒い。左手で右肩を押さえた状態で、シンはゆらりと体を震わせた。まるで親の仇を見るかのような色をもって、ティアミストブルーの瞳がリースを射抜く。その表情から狂気すら感じられて、薄気味悪くなった。シンの事を詳しく知っているわけではないが、このように狂乱してしまうような人物とは思えなかったのだが。
 「……随分と俺に恨みがあるような顔しているが、こちらにはまったく心当たりはないけど?」
 剣の構えはそのままに、小さく肩をすくめてリースは問う。答えなど期待している訳ではなかったが、心底疑問に思ったからだ。敵だからと言われればそれまでだが、この青年とリースとの接点は皆無だ。恨みをぶつけられる理由も思い当たるはずもない。
 「そもそもなぜ、ティアミストの血をひく者が、魔族(シェルザード)に与するような事をしているんだよ?」
 魔族(シェルザード)が望むのは破滅そのものだという。対してシンを含むティアミスト家の祖であるシーナは、500年前に世界を救済しているのだ。それらは対を成す行動であるように思える。イリスピリアの結界を今日まで維持し平和を守っていたのもまた、彼らティアミストの魔道士だ。
 「姉弟で同じ質問か……」
 にやりと、シンの唇が弧を描くのが見えた。顔色が悪い事も相まって、まるで不気味な蝋人形のような微笑みに見える。
 「……っは。そんなの決まりきった事だ。ティアミストは――っ」
 低く笑い出したシンだったが、声は長くは続かなかった。再び呻くと、彼は突然咳き込んでその場に膝をついたのだから。時を同じくして真っ白な大理石の床に、どろりと赤黒い液体が落ちる。それを目にして、リースの体は大いに強張った。
 外傷は、右肩に与えた一撃だけだったはずだ。決して致命傷とは呼べない。それなのに彼は、苦しそうに呻きながら吐血する。似通った状況をつい最近経験したばかりだった。思い出したくなくても、あの星降りの晩の光景が頭の中に蘇ってくる。
 「シン――」
 思わず構えを解いて、リースは一歩前に出る。だが、それ以上の前進はかなわなかった。シンがひときわ大きく呻くと、再びあの、目を焼かんばかりの光が噴出したからだ。光の発生源は他でもない。眼前に蹲る青年である。シンを中心にして、何か得体のしれない力を含んだ光が、再び玉座の間を満たしたのだった。



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