追憶の救世主

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第6章 「思いの行き先」

4.

 軽やかなワルツが城内に響き渡る。どこかで聴き覚えがあると思ったら、先日の前夜祭で、リースが百合姫と踊った曲目だった。あの時の光景が頭に浮かび、シズクの胸は静かに締め付けられる。
 会合の席は、ささやかに華やいでいた。紳士淑女数人が手を取り合い、控えめなダンスが始まる。
 ファノス国の宣戦布告の周知と、ジーニア・ティアミストの登場と、厳かで重苦しい雰囲気が漂う会合だったが、レクト皇太子の祝いの席という意味合いも少なからずあった。悲しい事や難しい事を考えるのを少しだけ休んで、今だけは楽しもう。そのようにセルト王が告げる声が聞こえる。
 一曲目のワルツが終了する直前でシズクは足を止めた。小走りでここまで来た為少し息が切れていたが、眼前にたたずむ人影を認めて、違う意味で呼吸が跳ねる。
 「――――」
 中庭の広場から完全に死角となるこの場所は、ささやかな憩いのスペースとなっていた。石造りのベンチとテーブルが設置されており、簡単なお茶会くらいなら開けそうである。そのベンチに、件の人物は座っていた。気だるそうに両手を頭の後ろで組んで、広場で行われているダンスパーティーを見ている。こちらに気づいたのだろう。エメラルドグリーンの瞳がやんわりと移動し、やがてシズクをとらえた。魔法のランプに照らされた彼の容姿は、相変わらず恐ろしく整っている。ただ、その表情は曖昧で、どのような感情を宿しているのかよく分からなかった。
 「ごめんなさい。遅れちゃった」
 「ギリギリセーフってところか。……いいよ、次の曲も、どうせワルツだし」
 冗談めかしてリースが告げた直後、二曲目が始まる。今度はしっとりとしたワルツだ。軽やかな雰囲気から一転。周囲は艶っぽい空気に包まれる。
 「ワルツが始まってすぐに抜けて来られたの? ダンスの誘いがあったんじゃない?」
 「面倒が起こる前に早々に退散してきたよ。人前で踊るのは、あまり好きじゃないし」
 「そう? 素敵だったのに。あの晩のダンス」
 思い出し笑いとともに零した言葉だったが、リースからの反応は返ってこなかった。ばつが悪そうな表情を浮かべると、彼はそれきり何も言わなくなる。妙な沈黙が流れるのがなんだか怖くて、シズクは歩き出した。そうしてリースの隣に腰かけると、うーんと伸びをして履いていたハイヒールを脱ぎ捨てる。素足が外気に晒されて解放感に満たされていった。
 「……人目につかなくなった瞬間にそれかよ」
 そんなシズクの様子を見て、呆れが存分に込められた声でリースが零す。
 「結構キツかったのよ。これでも大分我慢した方なんだから」
 いつも通りの嫌味が飛んできた事に、シズクは妙な安堵感を覚える。思い切り伸びた後は脱力して、そうして小さく笑む。
 とはいえ、我慢していたのは本当の事だ。なにせシズクは、このような衣装を身に着けた経験が皆無に等しい。ただでさえ緊張しっぱなしで体のあちこちに変な力が入ってしまっていたのだ。慣れない格好で立ちっぱなしだった事も相まって、激しい運動をした訳でもないのに、全身妙な怠さに襲われている。
 「せっかくの聖女降臨が見事に台無しだな。けど……そういう姿を見ている方が、俺は安心する」
 「…………」
 リースらしい嫌味を飛ばした直後、不意を突かれたようにそのように告げられる。いつも通りの軽口の応酬を期待していたのに。隣に座るリースと目を合わすと、エメラルドグリーンの瞳は不安気に揺らいでいた。そんな表情を浮かべられてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。先ほどまでの和やかな空気は一気に霧散し、場は張りつめたものへと変わる。
 「……一つ、質問していいか?」
 緊張した空気の中、ぽつりとリースが呟いた。返事を返す代わりに、シズクは軽く頷く。
 「何故急に、聖女として担ぎ出される事を受け入れた?」
 あれほどジーニア・ティアミストとして表舞台に立つことを拒否してきたのに。そう告げながらリースはしかめ面を浮かべる。シズクの態度が突然変わった事を、彼は受け入れられない。そう語っているようだった。
 確かにそうだと、シズク自身も思う。
 イリスピリアにジーニア・ティアミストあり。と、イリスピリア王のあの声明があった後も、シズクは基本的に自身の素性をごく一部の人物にしか公表したがらなかった。イリス魔法学校でも、しらを切り通すつもりだった。ジャン達はおそらく何かに勘付いてはいただろうが、シズクをシズクとして迎え入れてくれようとしていた。彼らの気持ちが有難かったし、これから先も平常な学園生活が続く事を願っていた。エラリアに行くと決まった時もそうだ。ジーニア・ティアミストではなく、リサの使用人として行く事を希望した。そんなシズクが、昨夜のセルト王の申し出に、あっさり折れたのだ。その事実を知った時は、あのセイラですら表情を失って動揺を見せていた。
 「セルト陛下の言い分にも一理あると思ったのが一つ。けど……一番の理由は、『彼女』に言われる前に、わたし自身の意志で言った方がマシって思ったから。かな」
 どう答えようか。逡巡した末にそう零す。
 そうだ。リースと話をしようと思ったのは、それについて伝える為でもある。
 「彼女?」
 怪訝な顔でリースが訊ね返してくる。彼から目はそらさずに、シズクは軽く息を吸った。そうしてこう告げた。
 「勇者シーナの記憶の断片」
 「え……」
 「わたしの中には、彼女の記憶の断片が居る。混じっているんだって、テティは言ってた」
 思っていたよりも冷静に言葉を紡ぐことが出来ていた。その事に自分自身で驚きながら、シズクはリースを見つめる。視線の先の彼は、一瞬目を見開いてハッとした様子だったが、動揺する様子はなかった。ひょっとすると彼は、シズクからこのような事を告げられるのを予想していたのかも知れない。
 「……アキから聞いた。カロンと遭遇した時のお前は、少し様子が違っていたって」
 しばらく沈黙したのち、リースはやや遠慮がちにそう告げた。昨夜のカロンとのやりとりを、彼はアキから聞いて知っていたらしい。ざわりと動揺が胸に沸き起こったが、ほんの一瞬の事だった。
 「シズクの頭の中にシーナが居るようだったって……でも、俺は納得できない。お前はいくらシーナの血を引く人間だからと言ったって、頭の中に別人が居るなんてそんな――」
 「――シーナ・レイシャナ・ラグエイジ・イリスピリア。幼い頃からじゃじゃ馬王女と言われて、両親には呆れられていた。1つ下に弟のパリスが居る。あの隠し部屋にあった肖像画を描いたのは彼。絵を描く事が好きだった彼は、当時文通相手だった女の子の似顔絵を描く為の練習台になってくれと、面倒くさがるシーナに無理やり頼み込んだ。……それがシーナが16歳の頃の話」
 さらさらと、まるで自分の身の上話でもするかのようにシズクは告げた。しかし、その内容を耳にしてリースは表情を強張らせる。察しの良い彼の事だ、なんとなく予想がついたのだろう。シズクの言わんとしている事を。
 「これは、500年前を生きたシーナの記憶だよね。こんな事、わたしは知らないもの。……けれど、知っているの」
 見て聞いて知ったわけではない。シズクはこれらの事を元々知っているのだ。自身の経験を記憶しているのと同じ感覚で、シズクの中にシーナとしての記憶がある。
 ともするとそれは、頭の中を彼女に乗っ取られてしまうような恐怖をシズクに与えた。実際のところはどうかは分からない。記憶と容姿と魔力を受け継いだだけで、シーナだった者の人格までは存在しないのかも知れない。けれど、シズクの口を借りて、幾度か彼女の感情が飛び出した事があったのは確かだ。だから、彼女の意志で聖女として担ぎ出されてしまう事だけは、嫌だった。
 「……いつからだ?」
 「前から多少はあったんだと思う。自覚していなかっただけで。けど……はっきり断片が浮かんだのは、昨夜カロンと話をしたあの時から」
 カロンは、シズクを哀れな娘だと言った。母や周囲から何も知らされず、取り残された娘だと。そしてシズク越しにシーナを断罪したのだ。イリスピリアからも、魔族(シェルザード)からも断罪される。500年前、世界を救った勇者。金の救世主(メシア)。
 「勇者シーナは、幸せだったのかな?」
 思考を巡らせた末に、ぽつりとシズクはそう呟いた。リースの顔を見て、僅かに胸がざわめく。イリスピリア王家の特徴である明るい金髪に、エメラルドグリーンの瞳。その色を見て心が揺れるのは何故なのだろう。
 「カロンはシーナを断罪していたの。魔族(シェルザード)を欺き。イリスピリア王家を裏切ったって。わたしはそんな事何も知らない。けれど、魔族(シェルザード)やイリスピリア王家の事を考えると、とても後ろめたい気持ちになる」
 「それが、シーナの記憶のせいだと?」
 「……分からない。でも、どうにかして償いをしなきゃって。気を抜くと、そう言ってしまいそうになる。昨日の夜、セルト陛下の申し出を拒絶していたとしても、わたしは……結局は、表舞台に出される事を受け入れてしまっていたんじゃないかって思うの」
 それが、シーナの記憶そのものによるものか、シーナの記憶を持ったシズクの意志によるものかは分からないけれど。いずれにしても、頭の中に浮かぶ感情の断片に、シズクは影響されてしまうだろう。
 そんなつもりはなかった。でも、悪いのは私。どうにかして、償いをしなければ。
 カロンに責められたあの時、シズクの頭の中に、シズクのものではない言葉が現れた。とても重たい気持ちになったのを覚えている。シズクがこれまでに経験したどの感情にも当てはまらないそれは、懺悔と後悔の気持ち。そして――それ以上に強い、愛情が籠められたもの。愛していたのに、悲しませた。裏切った。罪をおかした。愛していたからこそ、それらは強く心を苛む。
 こんなに激しい感情を、シズクは理解出来ない。けれど、自身の中にそれは確実に存在するのだ。目をそらす事は出来ない。シーナの記憶の力で、結局受け入れてしまうのならば、せめて自分の意志で選び取りたい。後悔したくなかったし、踊らされるのも嫌だった。

 「――シズク」

 やけに真剣な声で名を呼ばれる。俯き加減だった視線をあげて、シズクはリースの方を見た。今宵の装いや、青白い魔法のランプの効果もあって、目の前に佇む彼の姿は、妙な色気があった。見慣れない雰囲気の彼。その事を認識して思わずぞくりとする。
 「俺はもう、これ以上お前をカロンに会わせたくない。魔族(シェルザード)にだって会わせたくない。今すぐ聖女なんかやめさせて、出来る事ならこの動乱からも遠く離してしまいたい」
 「リース……」
 「勇者シーナが本当は何をしたかなんて知らない。でも、シズクが彼女の代わりに償いをする必要なんて、どこにもない。シーナの記憶がどれだけ叫んだって、シズクが嫌なら逃げてしまっても良かったはずなんだ」
 エメラルドグリーンの瞳が、痛いくらいにシズクに突き刺さる。それを受けて、嫌でもシズクの鼓動は跳ねた。リースの気持ちが嬉しかった。彼にそう言ってもらえると、のしかかっていた不安や重圧が、不思議と軽くなっていく。でも――
 「それは無理だよ。リース」
 緩く首を振って、シズクは応える。
 カロンに会わない方が良いとはシズクも思う。けれど、あの王はまた、突然自分の前に姿を現して断罪するのだろう。聖女として立ち上がってしまったシズクを、魔族(シェルザード)が見逃してくれるはずはない。ファノス国として彼らは、開戦を宣言している。こんなに穏やかな夜でも、戦争は始まっているのだ。立ち上がる決意もしたのだ。逃げる事なんて、今更出来ない。
 「分かってる」
 だが、こちらを見つめるリースの瞳は、力を失う事はなかった。
 「そんな事は今更無理だ。だったらせめて、傍に居る。シーナにも、魔族(シェルザード)にも……セルト王や親父にも、好きにされたくない」
 気づけば、彼との距離が縮まっていた。エメラルドグリーンの瞳が至近距離にある。顔に熱が上ったが言葉は出なかった。つと、彼の手がシズクの首元に伸びた。今宵身に着けているドレスは、比較的シンプルで露出も多くはない。けれど、首から鎖骨にかけて垂れ下がっているそれを隠す程ではなかった。
 「それに……目の前でみすみす攫われるのを見るのは、嫌なんだよ」
 声はとても小さかった。けれど、これだけ至近距離で発せられた呟きは、聞き逃したくても聞き逃せない。しゃらりと繊細な音を立てて、リースはシズクの首にかかるネックレスに手を伸ばした。シルバーの鎖の中心には、今目の前に居る人物の瞳と、まったく同じ色をしたクリスタルがある。親指の先程の大きさのそのクリスタルの中には、五枚花の白いライラが封じ込められている。
 ここの所毎日身に着けては居たが、今宵の会合の席で、このネックレスを敢えてつけたのには意味があった。リースに会って、聞きたかったのだ。

 「白いライラの五枚花。その意味を知ってる?」

 けれど、自分が問うはずだった言葉を、逆にリースの方から問われる事になるとは、完全に予想外の事だった。



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