追憶の救世主

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第6章 「思いの行き先」

5.

 しっとりとしたワルツは、いつの間にか終わってしまったらしい。続いて流れたワルツも、速さや雰囲気は違えど比較的テンポの緩い曲だった。魔法の光で満ちた夜に、楽団の旋律は優しく溶けていく。和やかな空気が流れていた。シズクの周囲を除いては。

 「白いライラの五枚花。その意味を知ってる?」

 至近距離で囁かれた問いは、間違いなくリースの口から放たれたものだ。今この場には自分と彼しかいないのだから当たり前の話。しかし、驚くほど穏やかなその声と、痛いほど真剣な視線に、戸惑いを覚えた。はたして自分の知るリース・ラグエイジは、こんな声を、こんな視線を、自分に向けてくるような人物だっただろうか。
 完全にリズムを崩した心臓を押さえつけて、沸騰寸前の頭で考えるも、うまく纏まらない。顔が赤いのが分かるが、それもまたどうにもならない事だ。滑稽な己の姿を彼に見せたくはないが、視線を逸らしてはいけないと思った。

 「――結婚の申し込み」

 震える唇で、なんとかそれだけ絞り出す。言葉を受けてリースは、僅かに目を見開いたようだった。しかしその表情は相変わらず曖昧で、彼が何を考えているのか分からない。だからこそ、言葉で聞かなければいけないのだと思った。
 「人から人へ、ライラの5枚花を贈るのは、求婚のしるし。ねぇリース。貴方は、そういう気持ちで、あの時わたしにこのライラを投げてよこしてきたの?」
 ずっと聞きたくて、でも聞く勇気が湧かなかった言葉。ライラを手渡された時から感じていた、漠然とした何かをぶつけるように、シズクは問うた。
 何故彼は、この国においてこんなに重要な意味をもつ花を、シズクなんかに渡してしまったのだろう。アキから色々と言われたが、それでも完全には納得出来ない。だって、あの日のやり取りからは、甘いものは何一つ感じられなかったのだ。
 「……あの時は、正直そんなつもりじゃなかった」
 しばらくの沈黙の後、それまで真っ直ぐこちらに向けていた視線をそらして呟いたのは、リースだった。
 言葉を受けて、シズクは妙な安堵感を覚える。しかし同時に、胸が強く締め付けられるのを感じていた。
 シズクの予想通り、やはりあのライラは、求婚の証などではなかったのだ。たとえその花に、エラリア国民が重要な意味をもうけていても、そこに感情が籠っていなければ、何の意味もない。そう、きっとあれは、状況と流れ上そうなっただけで、アキが言うような想いなど、伴っていない行為だったのだ。
 「――でも、相手がシズクじゃなかったら、たとえ勢いでも渡したりなんてしなかったよ」
 「え?」
 一人で納得しかけて、この件を終わらせてしまおうとしていたシズクの耳に、やや緊張気味の声が届く。
 「…………」
 今彼は、何と言った?
 その言葉とその意味に考えを巡らして、シズクはぽかんと呆けてしまう。遅れて、動悸がひどくなり、顔が一気に赤くなっていく。逸らされていたエメラルドグリーンの瞳が戻ってきたのはそんな時だ。
 「……というか、順番が違うだろ。いきなり求婚とか」
 ばつが悪そうな、何とも言えないといったリースの表情に、シズクの方こそどう答えて良いものか分からなくなる。その場を誤魔化すように、リースが軽いため息をこぼした。
 「レクトと手合せしていた時に、偶然手負ったライラだった。珍しいものを見つけたと思ったよ。そんな時、偶々シズクの姿が見えたから……見せてやろうかなって。最初は本当に、そう思っただけだった」
 言われて、あの時の事を思い出す。
 使用人達が飛ばしたシーツを救うため、シズクはこっそり魔法を使っていた。そんな時突然リースは現れた。特にこれといった用事などなく、ふらりと現れたとばかり思っていたが、彼にはシズクと話す目的があった。エラリア国民でさえ滅多に見られない五枚花のライラを、シズクに見せようとしてくれていたのだ。そんな彼に、シズクはどんな態度でのぞんだだろうか。
 「――――っ」
 そこまで考えが至ったところで、ずきりと胸が痛んだ。
 「……エラリアに来てからのシズクを見ていると、お前がはじめてイリスピリアに来た時の事を思い出した」
 やや逡巡するようなそぶりを見せてから、リースはそう語り始める。
 「同じ城の中に居るのに、あの時俺は何も知ろうとしなかった。距離がどんどん離れていた事すら知らずに、気づいた時にはもう、シズクは光か闇かと持ち上げられている状況で、俺の手の及ばない場所に行ってしまっていた。エラリアでも、あの時と同じ流れになるんじゃないかって……」

 ――シズクは、そうしている方が、楽なのか?

 リースが吐露する思いを耳にして、あのライラを受け取った日、そうリースが零した時の姿が頭に浮かんだ。
 感情を完全に消し去ったような表情で、彼はそう自分に告げたのだ。あの時彼が何を考えていたかなんて、シズクは分からなかった。分からなかったからこそ苛立ちを覚えてしまった。そして、己の立場くらい考えて欲しいと、彼を責めてしまったのだ。
 「傍に居たいのに、どんどん手の届かない場所に行ってしまうような気がして……また、失いかけるんじゃないかって。繋ぎ止めたくて必死だった」
 あの時と一緒で、彼らしくない言葉だと思った。けれど、真っ直ぐに向けられている感情を前にして、シズクが今まで知っていたリースは、彼のほんの一部分だったのではないかと思った。いつの間にか彼は、脆い部分も含めてすべて、見せようとしてくれていたのかも知れないのに。シズクは彼を心から見ようとしていただろうか。らしくないと考えて、それ以上踏み込むのが怖かったのではないだろうか。そう考えて、あの日彼に対してとった態度を酷く後悔した。
 「リース……」
 「でも、こんな曖昧な形で繋ぎ止めようとしたって、結局一方的で、伝わるはずもなくて……無意味な事だった」
 エメラルドグリーンのクリスタルにかかっていた手が、ゆっくりと離れる。手はそのまま、ベンチ上にあるシズクの右手へと伸びた。手で手を覆うようにされて、嫌でも彼の体温が伝わってくる。緊張で体が震える。けれど、彼の手からもわずかに震えを感じてはっとなった。
 「…………」
 そうしなければいけないような気がして、ただ黙ってリースを見つめる。ティアミストブルーの瞳の先には、切なげに薄められたエメラルドグリーンがあった。
 テンポの緩いワルツが耳を撫でる。魔法のランプに照らされて、普段は明るい金髪の彼が、若干銀を帯びているのを見て、シズク自身ではないもう一つの記憶もまた、懐かしげに胸を痛めたのが分かった。
 「聖女として立つ事になろうが、これから先戦争に巻き込まれる事になろうが、俺はシズクの傍に居たい。……気づいた時にはもう、惹かれていた。――好きなんだ」
 「――――っ」
 一瞬。本当に心臓が止まるかと思った。
 小さく息を呑んだ直後には、シズクはその場で完全に硬直してしまう。今しがた耳を撫でた声と言葉が、未だに離れない。まっすぐシズクの目を見て零された言葉は、若干掠れていた。
 出会った頃から嫌味や軽口の応酬は何度もしてきた。真剣な言葉も、深刻な言葉もあった。時にはシズクの背中を押して、支えてくれた事もある。それでも――彼のこんなに甘い声は、聞いた事がない。そして、それが向けられる先に自分が居るという事も、未だに半信半疑でいる。
 「……わ、たし」
 震える声では、かろうじて聞き取れる言葉にするのが精一杯だった。泣きたい訳でもないのに涙が出そうになる。ありえないくらい顔も身体も熱くて、頭がおかしくなりそうだった。体中が混乱している。
 「わたし、最初はライラの五枚花の意味なんて、全然知らなくて……でも、珍しいものだって聞いたから……それで……」
 「……分かってる。これを作ったのだって、偶然の成り行きだって事も」
 言って、シズクの手を覆う方とは反対の手で、彼は再びエメラルドグリーンのクリスタルに触れる。
 求婚の証として5枚花のライラを贈られた女性は、承諾の証として、そのライラでアクセサリーを作るのだという。相手の瞳と同じ色のクリスタルに、愛と一緒にライラを閉じ込めるのだ。身も心も、相手の色に染まりますと。
 奇しくもシズクは、意図せずにそのようなアクセサリーを作ってしまった。五枚花のライラの真実なんて知らなかった。けれど、非常に希少な存在がむざむざ散っていく姿を見るのは忍びなかった。永遠にこの手に入れておきたい。そう思った。
 ――それが、こんな事に繋がるなんて。
 リースが初めてこのクリスタルを見た時の感情を思うと、更に赤面して動けなくなる。自分は本当に馬鹿だ。
 「まぁ、自分が撒いた種だから……お前のせいじゃないけど」
 自嘲気味に苦笑いして、リースはそうこぼす。その言葉に全力で否定を示したくて、シズクは無言のまま首を左右に振った。いくら知らなかったとはいえ、シズク自身に否がない訳ない。
 「わたしが全然リースとの約束を守らなかったから」
 「約束?」
 「イリスピリアで貴方が王子だと知った時に、交わした約束」

 ――お前はお前。俺は俺。今までどおりで何にも変わらない!

 リースがイリスピリア王子だと知って動転していたシズクに、彼がぶつけた言葉だ。
 あの時は、発したリース自身それほど深い意味などなかったのかも知れない。ぶつけられた当初は、シズクだって深くは考えなかった。けれど、イリスに長く滞在して、リース・ラグエイジが紛うことなき王族なのだという片鱗を見ているうちに、少しずつあの言葉は重くのしかかった。ティアミスト家がイリスピリア王家にとって複雑な意味を持つ一族なのだという事を知り、その事に余計拍車がかかった。自分の立ち位置と、彼との距離感が徐々に掴めなくなってしまっていたのかも知れない。
 「リースはいつも、自然体でいようとしてくれていたのに。その事に甘えて、たくさん助けて支えてもらっていたのに。都合が悪くなるとわたしは、貴方をその身分を通してしか見ようとしなくなっていた」
 アリス達やリースとの間にある、自分では入り込めない同族的な雰囲気を垣間見ても、それは仕方の無い事だと、そんな風に考えて、その先に続く感情を敢えて無視していた。王族としてふるまうリースの姿を見るたびに胸をつく感情があっても、考えないようにしていた。だって彼は王子様だから。自分とは違う立場の人間だから。そんな風に理由をつけて。けれど結局、それを理由に逃げていただけだったのだろう。先日の前夜祭で百合姫とダンスをする彼を見た時だって、彼と百合姫の噂話をする女の子達の話を聞いた時だって……本当はきっと、分かってたんだと思う。
 「――隣に立ちたい。なんて、思っちゃいけないって思ってたから」
 言おうかどうしようか。散々悩んだ末に、それでもとうとうシズクは告げた。耳にした瞬間、目の前のリースは意外そうに目を見開いたようだった。
 「ライラの真実を知った時だって、びっくりしたけど、そんなはずは無いって。何かの間違いだって必死で否定しようとしてた。でも、アキさんに、わたし自身はどう思っているのかって訊かれた時……咄嗟には答えられなくて……。その時初めて、自分がリースをどう思っているのか、考える事をやめていた事に気づいて……でも、いざ考えようとしたって……そんなの、もう……」
 隣に立てるはずはないと思っていたから。
 思うこと自体は自由だ。止める権利は誰にもない。けれど、浮かんでくる感情は、決して自分にとって良くないと思っていた。自覚してはいけない。相手は大国の王子様だ。シズクが努力したところでどうこう出来る問題ではない。気づかないふりをする方が絶対に良いに決まっている。だって――かなわぬ恋をする事ほど、辛いものはないから。

 「……考えすぎ」

 呆れた。その言葉が一番しっくりくるようなトーンでリースは零す。次いで聞こえるため息。
 「ない知恵しぼって考えようとするな」
 「ひ、ひどっ! これでもわたし、一生懸命――」
 視界が一気に変わる。後頭部に熱を感じたと同時に、リースに引き寄せられたのだ。それまでだって至近距離だったが、吐息が聞こえるくらいに密着した今の方が何倍も心臓に悪いと分かった。慌ててリースの腕から逃れようとしたけれど、より強く抱きしめられる事になりかえって逆効果だった。
 「こっちの身にもなってみろ」
 すぐ耳元に、二度目のため息とともに言葉が落とされる。耳が痺れる。こんな声は完全に体に毒だ。頭がくらくらしてきて、落ち着かない。
 「伝える前から全力で身を引かれてたら、そもそも何も出来ないだろうが」
 そして続く、三度目のため息。
 言われた内容にどぎまぎしたが、彼の嘆きようが伝わってきて、悪い事をした自覚はなくともなんだか非常に申し訳ない気持ちになった。
 「……それで?」
 「え?」
 「考えた先に、答えは出たのか?」
 腕の力が弱まる。彼のぬくもりから解放されて、安堵したと同時に少しだけ寂しい気持ちにもなる。再び視線を合わせた先には、シズクのクリスタルと同じ色の瞳。どちらかというと呆れの色の方が強かったが、その中に緊張も交じっている事が分かった。彼のこんな姿を見るのだって、もちろん初めての事だった。
 「うん……」
 瞳を細めて、彼を見る。
 オリアの町で初めてリースと出会った頃を思い出す。
 あの時は、身分とか、立場とか、世界がどうとか、そういう難しい問題なんて自分には関係の無い話なのだと思っていた。現実は残酷な事もあるのだと、旅に出て初めて知った。知れば知るほど、真実はシズクを、希望する方と反対の道に連れて行く。この旅路は、これまでも、これから先も、楽しい事よりもつらい事の方が多いのかも知れない。受け入れる覚悟は自分なりにしているつもりだ。当たり前に欲しいと思えるものが、ひどく遠い存在に変わるのかも知れない。けれど、もしも一つだけ、手に入れる事を許されるのならば――
 「――許されるのならば、立場を超えて傍に居たい。リースの隣に立ちたい。……こんな感情、恋以外の何ものでもないと思う」
 貴方が好き。
 そう言おうとしたけれど、ほっとして瞳を細めたリースの表情を見たのを最後に、彼に視界と唇を塞がれて、結局言葉になる事はなかった。



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