追憶の救世主

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第6章 「思いの行き先」

6.

 3曲目のワルツが鳴りやむと、ささやかなダンスパーティーも終わりを告げる。踊っていた男女が微笑み合い、拍手が起こった。爽やかな夜風が初夏の中庭を吹き抜けていく。心地よい雰囲気。こんな和やかな光景がこれから先も続けばいいのにと、アリスは人知れず思う。
 「アリス」
 声をかけられて振り向けば、アキの姿があった。会合の席が離れていた事もあって、今日彼と会話を交わしたのはこれが初めてである。ダンスの誘いも、そういえば受けなかった。平時であれば、こちらが断ってもしつこく迫ってくるのだが。昨夜の騒動の渦中に居た彼もまた、今日はそんな気分にはなれないのだろう。
 「……貴方にしては、元気がないわね」
 普段に比べて心なしか大人しいアキを見て、アリスは苦笑いをこぼしつつそう告げた。
 「さすがに色々あったからなぁ。何やら物々しいし。開戦して、エラリア領土が戦場になるんなら、きっと俺らも行かなきゃいけないしな」
 「…………」
 アキの口から零された言葉の重みに、アリスは口を噤んでしまう。
 昨夜の騒動で終わりではない。戦争が始まるのだ。アキも、アキの父親も騎士団の人間である。国を守るのが騎士の務めだ。有事の際には戦場に赴かなければならない。当然の事ではあったが、実際にそうなる可能性を示唆されてしまうと、体が冷えていくのが分かった。
 「珍しく心配してくれて嬉しい限り」
 「冗談言ってる場合じゃないでしょ」
 「ま、俺もまだ学生だし。すぐにって訳ではないさ」
 茶化して笑うアキに、アリスは不機嫌な顔を向けた。冗談を言えるような内容の話ではないのに、何故彼はこうも軽い調子なのだろうか。戦場に赴くという事は、要するに怪我をしたり、最悪死んでしまったりする可能性が出てくるという事だ。大切な人達をそんな場所へ行かせたくはない。たとえそれが当然の責務だとしても。
 「――戻ってくるんだろう? エラリアに」
 「え?」
 「アリスが安心してこの国に戻れるよう、俺は命に代えても守るよ」
 「――――っ」
 ま、死ぬ気は毛頭ないけどな。放心するアリスの顔を見て、アキはそう言って笑う。真面目な事を告げた直後にこの態度。慣れているとはいえ、今のように振り回される時がある。とはいえ、エラリアに戻る事をアキが悟っていたのは、少し意外だった。セイラと叔父にしか、まだこの事は告げていないはずだったから。
 そう。エラリアに帰国する。それは、里帰りするようにレムサリアから帰国する事とは意味合いが違う。エラリアで新たな名を得て、この国の一員として生活を送るという意味だ。
 「守るのは、アキだけじゃないわ」
 苦笑いを落として、アリスは緩く首を振る。視線の先で、アキは少しだけきょとんとした表情を浮かべていた。
 「この国を守るのは、アキだけじゃない。……私も。今まで私を守ってくれたたくさんの人達に、私が出来る事で返していきたい」
 真っ直ぐ言い放つ。しばしの沈黙後、アキは夏色の瞳を細めて、緩く笑った。

 「――その言葉。しかと耳に入れました」

 場に響いた声は、アキのものでもアリスのものでもなかった。
 低くて固い、感情があまり籠らない声。まさかこのようなタイミングで彼が現れるとは思わなくて、アリスは目を見開いていた。アキにしたってそうだ。二人同時に声の主――ヴォンクラウン大臣を見て、しばらくの間放心してしまう。
 「…………」
 厳格を絵に描いたような引き締まった顔で、件の大臣は自分たちの傍に佇んでいる。今宵の場を重んじて、纏う衣装は漆黒。その色が、彼の厳しさをますます強調しているように見えてならない。いつからそこに居たのだろうか。まったく気配など感じられなかった。
 「わたくしは嘘が嫌いです。その言葉が偽りとならぬよう、せいぜい励む事ですね」
 「ヴォンクラウン大臣……」
 「臣下に下ると言えど、誇り高きヴォンクラウン家に名を連ねるのです。家の名を汚す事なきよう」
 灰色の瞳は相変わらず鋭くて、告げる言葉も冷たい。けれど、決して暗い気持ちにはならなかった。
 エラリアに帰国したのちにアリスに用意された席は、名門貴族のひとつであるヴォンクラウン家だった。当主にはすでに跡取りが居るが、彼の養女となる事で後ろ盾となってもらえるように、叔父が取り計らってくれたのだ。ちなみにヴォンクラウン家の現当主は、今目の前に居るこの大臣の兄にあたる人物である。要するにアリスは、ヴォンクラウン大臣の義理の姪となる訳だ。
 「ご存知だったのですね」
 「養女の件ですか? 知ってるも何も――あの話を陛下に提案したのはわたくしですから」
 『え……?』
 間抜けな声を上げたのは、アリスとアキとでほぼ同時の事だった。淡々とした口調で言い放たれた内容にしかし、アリスは完全に思考が固まってしまう。爽やかな夜風が通り過ぎていくが、三人の間に流れる空気は硬直したままだ。
 セルト王からの提案だとばかり思っていた養女の話は、ヴォンクラウン大臣の手によるものだった。本人の口からそう聞かされても、アリスは納得できない。だって彼は、自分を一度だって歓迎してくれた事はなかったのだから。それに――
 「バーランドの第二王子をアリスにけしかけたのは、貴方じゃなかったっけ?」
 アリスの思いの続きを、アキが言葉にする。
 そう。あの甘い顔立ちの王子と結婚して、エラリア王家から出ていくのが最善だと、他でもないヴォンクラウン大臣は言ったのではなかったか。エラリアから出ていくべきだとアリスを弾劾した人物が、どうしてエラリアに彼女を帰国させる提案などしたのだろう。
 「バーランド王子を選ぶ道が、アリシア王女にとって最善。この考えには偽りはありませんよ」
 「だったら何故――」
 やっている事と彼の考えがちぐはぐに思えてならない。

 「――あ〜あ、大臣。そこまでばらさないで下さいよ」

 ヴォンクラウン大臣が何かを告げようとした瞬間の事だ。混乱するアリスの耳に、また新たな声が届く。この声も、誰のものかすぐに理解できる程度には耳なじみがある。甘ったるい軽やかなテノール。少しくせのかかった金髪を翻して場に現れたのは、今まさに話題に上っていた人物であるバーランド第二王子その人だった。整った容姿は相変わらずだったが、今宵の彼に軽薄な笑顔はない。目を合わせたブラウンの瞳にも、アリスを見下すような色は見受けられなかった。
 「というかですね。バーランド第二王子バーランド第二王子って。僕にもフリックという列記とした名前があるんですよ。覚えて頂けませんかね、皆さん」
 ぽかんと呆けるアリスの目の前で、不服そうに腕を組んで王子は言い放つ。フリック・W・ウェール・バーランド。そういえばそのように名乗られた気がする。いやしかし、現在議論すべきところはそこではないだろう。
 「アリシア姫」
 王子に呼ばれて首をかしげる。出会った時からほとんどの時間、甘ったるい台詞と嫌味が飛び出していた彼の口調は、今夜に限っては少々厳格に感じられた。
 「ヴォンクラウン大臣はね。要するに貴方の現状に一番苛立っていた人物という訳ですよ」
 「?」
 「考えてもみて下さい。あなたは、あなたが思うより遥かに有能で思慮深い。おまけに美貌も兼ね備えている。本来であれば国民から高い支持を得られるであろう国の王女に、実父が犯した罪とはいえ、それをいつまでもずるずる引きずって国外逃亡されてちゃ、国の将来を想う大臣としては苛々の原因にもなるでしょう?」
 肩を竦めつつフリック王子にそう告げられる。アリスにしてみれば寝耳に水の話だ。ぽかんと呆けて王子の目を見つめる。ブラウンの瞳は茶化すように細められた。
 「中途半端が一番いけないんですよ、アリシア姫。幼い頃ならば逃げても許された。けれど、今のあなたはもう子供じゃない。自分の道を、自分で選択してもいいはずの年齢になった。いつまでたっても国に帰ってこない王女に対して国民の目は冷たくなる一方だ。これ以上アリシア姫の居場所を奪ってしまわないよう、示せる道は二つだった」
 「――つまり、政略結婚するか、臣下に下るかって事?」
 王子の言葉を継いだのはアキだった。彼もまた、少々呆れた様子で会話に参加する。呆けているアリスを見て、王子と同じように肩をすくめたのだった。
 「長年エラリアに居なかったのに、今更王女としてこの国に戻るのは、周囲の目から考えても、アリシア姫の心情から考えても難しいでしょう? 姫にとっては王家の名は足枷でしかなかった。エラリアの名を取り払って、しがらみから自由になるには、その二つの方法しかないんじゃないかな」
 言われてみれば、その通りかも知れない。アリスがエラリアを去ってから、すでに10年以上の歳月が流れている。今更になって、王族の一人としてエラリアに帰還しても、受け入れられるかどうか怪しいものだと思う。アリスが王族として出来る事があるとすれば、政略結婚をして国に益をもたらす事くらいかも知れない。自分にはそれくらいしか出来ない。そう思っていたアリスに、二つ目の道が現れた。提案したのは、今目の前で相変わらず厳しい表情を動かさないヴォンクラウン大臣だという。

 「立ち向かうよりも、逃げる方が遥かに楽だという事です。貴女がこれまでずっとして来られた様に」

 「え……?」
 それまで黙して、バーランド王子の言葉を聞き流すのみかのように思えた大臣が、突然口を開く。相変わらず厳格で、感情を宿さない声だった。けれど、告げられた言葉の意味は、これまでの大臣のどの言葉よりもアリスの中にすっと入ってくる。
 立ち向かうよりも、逃げる事の方が遥かに楽。その通りだろう。だってこの十数年間、アリスは逃げ続けていたのだから。守ってくれる者の存在は暖かかった。苦しい事から目を背けて、本質を忘れて、ただ暖かい場所で過ごす日々は、安息をもたらしてくれた。
 「エラリアにほど近い隣国で、継承問題をクリアした第二王子の元に嫁ぐ事は、セイラ様の元に長年居る事よりも遥かに理解を得やすく、貴方にとっても申し分のない環境であるはずだ」
 まったくもってその通りだと、ヴォンクラウン大臣の言葉を初めて理解できた気がする。同様の台詞をつい先日聞いたはずだ。あの時はあんなにも批判的に聞こえた内容がしかし、こうして詳しく説明されると非常に理にかなった事のように聞こえるから不思議なものだと思う。厄介者払いをするつもりで、大臣は今回の件をアリスに押してきたのだと思っていた。けれど……彼なりにアリスを思っての事だったのではないかと、好意的にとらえる事が出来るくらいに、大臣との距離が縮まった気がした。
 「――いくら臣下に下るとはいえ、貴女にとってエラリアに復帰する道は優しいものではない。時間が流れているとはいえ、エラリアには今もガルテア様を恨んでいる人間はいる」
 推測ではなく、断定の言葉だった。未だにアリスの父を恨んでいる存在は確実に居る。大臣が言うのだから、これは事実なのだろう。その感情は、娘であるアリスに向かうかも知れない。分かってはいたが、他人の口から言葉として知らされると、心に冷たいものが下りる。けれど――
 「それを覚悟の上で、母国を守りたいと決意されたのならば……最善の選択は、変わってきましょう」
 鋭い灰色の瞳がアリスを射抜く。けれどほんの一瞬だけ、その瞳が細められ、唇が緩い弧を描いたような気がした。顔が石で出来ているのではないかと疑いたくなるほどに、表情を変える事のなかった大臣の、それがアリスが見た初めての微笑みだった。
 「あ……」
 呆けるアリスの目の前で、大臣は緩やかに踵を返す。そうして何も告げずに去っていく。
 「ねぇ、アリシア姫」
 歩き去る大臣の後姿を目で追っていたアリスの耳に、バーランド王子の声が届いた。視線を彼の方に移動させると、穏やかな表情の王子が居る。
 「一つこんな噂があるんです」
 「噂……?」
 「レクト皇太子の暗殺未遂は、実際はガルテア王子の陰謀ではなかったという、ね」
 「…………」
 思わず息をのんだが、それほど驚いたりはしなかった。目を見張ると、漆黒の瞳をバーランド王子に据える。
 「実際に策謀したのは、ガルテア王子派の取り巻き達で、王子自身は関与はおろか、そのような企てがあった事すら知らなかったようです。発覚して未然に阻止された時点でガルテア王子が説明すれば、ひょっとしたら王子は断罪されなかったかも知れない。……けれど、彼は何も語らず自害した。――免罪を求める事を、彼のプライドが許さなかったのか。あるいは、取り巻き達を守る為だったのか。それとも、死をもって身の潔白を証明する為なのか……。それが何故かは、僕のような矮小な人間には分かりかねますがね」
 「それはまた、甘い毒水のような噂話ですね」
 瞳を細めて、アリスは淡々と言った。そんな彼女の態度にも、別段王子は気を悪くした様子はないようだ。肩をすくめると、緩く笑む。
 「信じないのですか?」
 「そう願っていた時期は、私の中ではとうの昔に過ぎてしまいましたから」
 関係者がほぼ全員自害してしまった為、事件の全貌は闇の中だ。王子が語った噂話は、ひょっとしたら真実を含むものかも知れない。けれども、言ってしまえば今更の話だ。アリスの父は断罪され、自刃し、そうして母とアリスは孤立した。アリスにとってはそれが現実なのだから。
 「けれど、セルト王はそう信じています。ヴォンクラウン大臣も」
 「え……」
 「そして僕も」
 不意に左手を取られる。優しい動きで王子はアリスの左手を握り、それを口元へと持っていく。あっと思った時には時すでに遅しだった。控えめなリップ音が場に響き、アリスの左手の甲に柔らかな感触が落とされていた。
 「な……! なな!!」
 声は、アリスのものでも王子のものでもなかった。隣で黙して会話に参加していたアキが、しばらくぶりに発したものだった。
 「大臣の賭けに協力を惜しまなかった僕に、これくらいのご褒美は、頂きたいところですから」
 アリスの手を取ったまま、王子はにいっと悪戯っぽく笑う。ぽかんと呆けるアリスの代わりに、王子から手を解放してくれたのはアキだった。
 「いつまで握ってるんだ! ったく!」
 場を重んじて、控えめではあったが、十分にどすの利いた声でそう凄む。目つきが鋭いアキだ。通常睨まれたら相手は怯むくらいはするかも知れないが、バーランド王子は肩をすくめて笑っただけだった。王子の反応に、アキは緩くため息をつく。
 「……あんたはそれで良かったのかよ」
 「何が?」
 「大臣の思惑で、自分の思いとは無関係に婚約話を出されるなんて」
 空色の瞳と、ブラウンの瞳がしばしの間ぶつかる。ははっと。茶化すような笑い声が響いたのが直後の事だ。ほかでもない、バーランド第二王子のものである。
 「思いとは無関係とは心外だな。そもそも僕が、ヴォンクラウン大臣の提案に乗ったのは、貴方の事が好きだったからに他なりませんよ。アリシア姫」
 「え……」
 「僕は本気です。エラリア国に戻られるようですが、それからでも遅くはありませんから」
 前半はアリスに向けて。後半部分は隣で佇むアキに向けてだった。意味ありげな視線を受けて、アキの表情が歪む。
 「せいぜい全力で、頑張らせていただきます」
 にっこり笑顔のバーランド王子と、殺気立つアキを横目に、アリスはため息をこぼした。エラリアに帰国したら、色々な意味で大変な事になりそうだと、ぼんやりアリスは思ったのだった。



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