追憶の救世主

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第7章「西へ」

1.

 夢を見た。
 ともすればそれは、現実なのかもしれないと錯覚してしまうような、リアルな夢を。否。これは夢ではなくて、彼女の記憶なのかも知れない。
 知らない景色、知らない人々。それらが自分に向かって親しげに話しかけ、そのすべての光景に懐かしさがこみ上げる。

 ――お前は、人間を、イリスピリア王家を、裏切ると言うのか?

 厳格な調子でその声は、自分を断罪していた。こちらを見つめる青色の瞳には、怒りと悲しみ、そして懇願するような色が見て取れた。緩くかぶりを振って、そんなつもりはないのだと弁明しようとしたが、無駄な事だと悟った。だから何も告げずに、淡々と声の主の言葉を耳に入れる。

 ――お前のやろうとしている事は、この先必ず遺恨を残す。

 そうなのかも知れない。けれど、自分の中には一つしか結論は出てこない。非常に後ろめたい気持ちはあったけれど、それは自分たちがおかした事に対してだった。これからの世界を生きる、新しい命には何の責任もない。
 「ごめんなさい、お父様。何度も考えても私の中での結論は一つなの。……例えそれが、イリスピリアの王籍を、剥奪されてしまうような事であっても」
 真っ直ぐに、目の前に佇む男性――自身の父を見つめ、告げる。滑り落ちた声には淀みがなかった。迷いは無かったからだ。あるのは、後悔と切なさだけ。
 「どうしても、内に宿った子を、堕ろす気はないのだな。……シーナ」
 父王の最終通告にも、自分は――シーナは、ただ真っ直ぐ首を縦に振るのみだった。






 「――――」
 うっすら目を開けると、見慣れた天井が瞳に映る。その事に激しく安堵しながら、シズクはゆるりとベッドから身を起こした。窓の外を見れば、まだ早朝と呼べる時間帯だ。起きるのには少しばかり早い。けれど、眠気などどこか遠くに行ってしまったかのように目がさえている。動揺も多少はあったのだが、妙に冷静な自分もまたそこに居る。呼吸を整えると、シズクは緩く首を振って、起きる事を決意する。
 扉を1枚隔てているとはいえ、リサと同室である。体調のすぐれない彼女を起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら、朝の身支度を整えた。身に着けたのは、エラリアを訪れてからずっと装っていた付き人のそれではなく、旅の間愛用していた魔道士の衣装だった。髪ももうシニヨンにする必要はないだろう。だってシズクは、もうリサの付き人ではないのだから。
 部屋の扉を開けると、初夏にしては涼しい風が吹いた。窓がふんだんに取りつけられているとはいえ、早朝の廊下はまだ少し薄暗い。エラリアを訪れていた客人たちのほとんどは既に帰国していた為、シズク達の部屋があるこの区画は空き部屋が目立っていた。その事も手伝ってか、どことなく寂しげな雰囲気が漂う。
 特に行く宛ても無かったのだが、自然と足は中庭に向いた。昨夜行われた会合の舞台やテーブルはまだそこにあったが、人影は全くない。早朝の清涼な空気と緑に触れて、シズクは少しだけ体の力を緩める。踏みしめた土の感触も、吸い込む空気の匂いも、すべてが自分の感覚だ。その事に大いなる安堵を覚える。

 ――イリスピリア王家を、裏切るというのか?

 目覚める前に見ていた夢の言葉を思い出して、シズクはため息をついた。中庭に設置されたベンチに腰かけると、ゆっくり肺に空気を満たしていく。冷たい空気は、頭の中に立ち込めていた靄を晴らしてくれた。
 「…………」
 腰に下げたポーチの中から、おもむろにシズクは何かを取り出して、それを目の前にあったテーブル上に置いた。子豚をかたどったそれは、可愛らしいぬいぐるみである。ただし、頭の部分にはピンク色の毛糸で髪の毛を模したものが縫い付けられており、額の部分には巨大な赤いビーズがついていた。東の森の魔女、テティ・リストバーグから無理やりに押し付けられたぬいぐるみである。お守りになるから持っておくようにと、本当か嘘かさっぱり分からない事を言われて渡されたが、一応シズクは律儀に持ち歩いていたりする。
 「テティ。教えてよ」
 無意味と思いつつ、ぬいぐるみを相手に一人ごちる。物言わぬぬいぐるみからの返事はもちろんない。けれど、つぶらな黒ビーズの瞳が一瞬陰ったように見えた気がした。右手を子豚の頭に乗せると、ぽよんと柔らかな感触が返ってくる。
 「貴方なら、全部知っているのでしょう? わたしと、シーナの事を……」
 テティ・リストバーグは500年近い年月を生きている。シーナと友人関係にもあったという。いわば、500年前にシーナ達が起こした事を見届けた生き証人である。そんな彼女ならば、おそらくシーナとイリスピリア王家の間に起こった事を、正確に知っているのだろう。ひょっとすると、ティアミスト家や魔族(シェルザード)の事についても。
 イリスピリアの東の森にすむ彼女は、今頃どうしているのだろうか。彼女にもう一度会いたい衝動に駆られた。聖女の件もある。自分が今後どこまで自由に動けるかは分からないが、可能であればもう一度、彼女の住む森を訪れたいと思った。イリスピリア王に相談してみたら良いだろうか。そんな事に思い至った直後の事だ。ふわりと、風がシズクの焦げ茶髪をさらって行ったのは。
 早朝にふさわしい、緑の香りをふんだんに取り込んだ、爽やかな風。普通の人間ならばそのように感じて、笑顔を浮かべるところだったがしかし、シズクが抱いたのは違う感情だ。突然起こった風に、新緑とは違った匂いを感じたからである。――魔力の香りを。
 「あ……」
 魔力の元となった人物を探して視線を巡らせた先には、見覚えのある顔があった。ただし、このような状況で出会うのは意外だった。
 「マーサ」
 名を呼んだ先に、赤髪の目鼻立ちのくっきりした少女が立っている。マーサ・グレイス。エラリアの使用人の中でも、リーダー格にある少女だ。リサの付き人に扮してエラリアに来たシズクと、真っ先に仲良くなってくれた人物でもある。
 早朝であるというのに、彼女は既に使用人の服を着て、髪もきっちりシニヨンに纏めてある。けれど、普段勝気そうに輝く瞳は、この時ばかりは冴えない光を放っていた。そんな彼女を見ていたシズクもまた、驚愕が薄れると少しずつ別の感情が湧き上がってくる。使用人の服を脱ぎ捨てて、魔道士としての服をまとう自分を見て、彼女はどう思うのだろう。今まで彼女達を騙していたのだ。焦燥と罪悪感が心を支配し始める。
 引き返そうか、どうしようか。数秒まごついていたマーサの足は、やがて意を決したのだろう。真っ直ぐシズクの座るベンチを目指す。彼女の表情が妙に固いのを認めて、シズクもまた緊張した。言葉は発せずに、けれど視線はマーサから離さずに、ただ状況を見守っていた。
 「……シズク。と呼べばいいのかしら?」
 すとんと。シズクの隣にマーサが腰かけると同時に、ほのかに石鹸の良い香りがした。
 「それとも……ジーニア様?」
 普段通りのマーサの声に、体の力を抜きかけたが、至近距離で視線を合わせながらそう問われた事で、再び体が強張る。シズクかジーニアか。強いるような視線に、完全に気圧されてしまう。
 「で……出来ればシズクのままが有難いです」
 消え入りそうな声でなんとかそれだけ絞り出した直後、どのような反応がマーサから返ってくるか不安だったが、心配は杞憂に終わったようだ。ふっと息をつく音が聞こえたかと思えば、直後にはマーサは肩を震わせて笑い始めたのだから。
 「?」
 「いや、ごめんごめん。昨夜とのギャップが凄すぎたから。おかしくって」
 何かがツボに入ったらしい。しばらく笑い転げるマーサに、さすがにシズクは首をかしげた。弁明するように手をひらひらさせた時には、彼女は涙目だった。泣く程に笑うだなんて。なんだかおかしくなって、シズクもまた、体の力を抜いた。笑い声と朝の風を受けて、緊張も少しずつ解けていく。
 「……魔法、使えるんだね。マーサ」
 赤髪の少女の笑いが大分引いたころ、シズクはぽつりと話を切り出した。
 先ほど感じた風は、明らかに精霊の力を使役して生じさせたものだった。発生源にはマーサが居た事からして、間違いなく彼女が使った魔法だろうと思った。
 「大した魔法は使えないわよ。魔法学校に入学がかなわない程度だし。簡単な風と光を起こす事くらいが関の山」
 肩をすくめて、マーサはそのように説明する。彼女が魔道の力を持っていた事には驚いたが、それを聞いて納得がいった。魔法学校に在籍する人間以外にも、魔法を使役出来る一般人は、多くはないが存在はする。人を傷つけうる危険な魔法は、魔道士協会が厳重な管理を行っているが、比較的初歩の、生活に役立つような魔法は、広く一般にも開かれていると聞く。
 「けどまぁ、一応魔力は感知出来るからね。……貴方がリルム達の取り込んでいたシーツを助けた事、気づいていたわよ」
 「え?」
 リルムとは、使用人の少女の一人だ。エラリアに来て数日が経った頃、部屋への帰り道に、中庭でシーツを干していた連中を見かけた。突然の強風にあおられて宙に投げ出されたシーツを、シズクが風を操る事で落下の危機から救ったのを思い出す。マーサが言うのは、あの時の事だろう。噂話に花を咲かせていた少女たちの中に、そういえば彼女の姿もあったような気がする。
 「私と同じような子だなって、珍しいなって、はじめはそう思ってたわ。リサ王女の付き人だし、護身用に魔法を身に着けているのかなとか、色々想像した……けど、まさか聖女様本人だっただなんてね」
 「……騙したりして、ごめんなさい」
 軽口で告げたマーサの言葉に、シズクは瞳を伏せて頭を下げた。もちろん悪気などはなかったが、己の身の上を偽って彼女達と接していたのは事実だ。イリスピリアの聖女に関する事も、何度か質問を受けて、嘘を交えた内容で答えている。偽られていたと知った彼女達は、気を悪くしただろう。
 「ま、私たちではあずかり知らない事情が色々あるんでしょ。それはまぁ別に良いのよ」
 頭を下げるシズクを数秒程見つめてから、いつもの調子で彼女は告げる。別段気にしていない。言外にそう告げられた気がして、少しは心が軽くなった。
 「そんな事よりも、あのお披露目会の魔物騒ぎの時に、私たちを救ってくれた魔法は、貴方が使ったものでしょう? 一昨日の事件でも、事態を収拾させるために、その力をふるってくれたのでしょう?」
 下げていた頭をゆっくりと上げる。視線の先でマーサは、笑顔を消して、真剣な顔になると、落ち着いた声色でそのように告げたのだった。咄嗟には声が出ないで固まってしまう。確かにあの魔物騒ぎの折、魔物に2発の魔法を当てたのはシズクである。一昨日もまた、アキと城内にはびこる魔物たちを何体か倒して回っていた。けれど――
 「ただ夢中だっただけで……」
 「理屈なんてどうでも良いのよ。結果的に私は救われたのだもの。お礼が言いたくて。ありがとう――シズク」
 真顔で頭を下げた直後、マーサは破顔する。満面の笑顔が、彼女の偽りのない思いである事を告げている。その気持ちを受けて、素直に嬉しいと思った。
 「それに。正体を明かして、聖女として立ち上がってくれた事に対しても、感謝をしたいの」
 「…………」
 続いてのマーサの言葉には、シズクは表情を強張らせてしまう。昨夜のあの儀式の光景が頭の中にフラッシュバックする。聖女様と。観衆から口々に呟かれた言葉の意味を、重みを、思い出してしまう。彼らは何故、突然現れた自分にあのような言葉を向けるのだろう。シズクがどのような人間か、何をなすことが出来るのか、知っている訳でもないだろうに。ただ盲目に、イリスピリア王の声明やセルト王の言葉を信じて、ジーニア・ティアミストを救世主だと信じ込んでいる。それらの事が頭を駆け巡り、シズクは緩く首を振る。
 「それこそ、お礼を言うのは筋違い。……わたしは、皆が思っている程何でも出来る訳じゃない。わたし一人で何かが変わるはずもない」
 「分かっているわよ。そんな事。貴方一人で、すべてが変わるなんて思わない。……でもね、聖女の姿を見て、希望を見出して、奮い立たされた人は、私だけじゃないと思うの」
 「え……?」
 「戦争が始まる。一連の魔物騒動だけでも十分恐ろしい思いをしたのに、まだまだこれから悪い事が起こるかも知れない。そんな風に思って、不安につぶされそうになっていた時に、聖女がエラリアに立ってくれたのだもの。昨晩の貴方は、とても神秘的で、何かをやってくれそうな雰囲気を宿していた。陛下も、その周囲のたくさんの人たちも、国を守る為に立ち上がろうとしている。『光』が見えた気がしたの……」
 「マーサ……」
 「人々の期待を受けて大勢の前に立つのは、とても勇気がいる事だと、想像する事しか出来ないけれど……。その大きな決断をしてくれた貴方に、私は感謝するわ。貴方の姿を見て、私も国を守る為に自分が出来る事をしようって思えたのだから」

 ――たとえそれが、見せ掛けだけの存在だとしても、人々の心に光をともす事は出来るかも知れない。

 決断を迫られたあの晩に、セルト王が告げた言葉が頭に浮かぶ。
 ジーニア・ティアミストは、見せ掛けの聖女だと、シズクは思っている。自分自身に何か力があるかと言われたら、たとえ人より大きな魔力と器を持っていたとしても、そう大して出来る事はない。国同士がぶつかる戦争という大きな流れを、一人の少女が左右する事など出来やしない。例え、古の勇者シーナの血がこの身を流れていようとも。
 いや。……シーナもひょっとしたら、世界を救った救世主だと祭り上げられた、ただの一人の女性だったのではないだろうか。けれど彼女の存在に、人々は憧れ、語り継ぎ、勇気を貰った。ジーニアであった頃の、自分がそうであったように。
 「勇気をくれてありがとう。私も頑張るから。だから貴方も……」
 その先の言葉は紡がずに、まっすぐこちらを見て告げたマーサの瞳は、懇願するような光を宿していた。言葉の続きは、なんとなくシズクには理解できた。盲目に聖女を信じるそれではない。例え見せ掛けでも、勇気を与える存在として立っていて欲しいという懇願だ。
 それだけでも、十分に大きすぎる役割である。自身に、そのような立場が務まるのかというと、未だに疑問に思うしかない。だから彼女の言葉に対して、シズクは頷けなかった。まだ自分が、大勢の人々の前に立てるような自信はない。けれど、やれる限りやってみようと。独特の青い瞳を細めた後、シズクは表情を引き締めたのだった。



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