追憶の救世主

backtopnext

第7章「西へ」

5.

  セイラの部屋での話は、リオが登場したあたりでお開きとなった。午後から予定がある人が多いというのが一番大きな理由だったが、これ以上話をしても、きっと新たに分かる事実は無いだろうというセイラの判断だった。
  用事のあるメンバーと違い、特に予定の無いシズクは、部屋にこもってリサの話し相手になっていた。リサは未だ、本調子では無い。常時ならば盛り上がる二人の会話は、途切れ途切れに繋がっては切れるといった感じで、それほど弾まないまま時が過ぎた。一体何度目の沈黙だろうか。静まり返った空気を割くように、ややあってリサが言葉を紡ぐ。
  「大切な人を救う為になら、世界を犠牲にする――」
  「?」
  リサらしくない言葉に、シズクは首を傾げる。物語から飛び出してきたような、少し芝居じみた深刻な言葉である。
  「シンが、私に教えてくれたの。自分はそういう人間だって」
  「兄が、ですか……」
  シズクの言葉に、リサは緩やかに頷く。
  12年前、死んでしまったと思っていた兄は、シンと名を変えて生き延びていた。成長して外見も声も随分変わっていたが、自分と同じ色をした瞳と、母の面影を色濃く宿す容姿は少しも変わっていなかった。彼は、シズク達の前に姿を現す少し前に、イリスピリアでリサと知り合っていたらしい。12年も姿を消していたのに、今になって急にシズクの前に現れた彼の目的は見えない。だが、自分達の味方ではないという事だけは、確かだった。
  「シンの大切な人って、誰の事なのでしょうね」
  リサが、遠くを見るような目をしてそう零す。彼女らしからぬ表情だと思った。
  (……大切な、人)
  世界と天秤にかけて勝ると思える人など、その者にとってよほど親しい人間以外は該当しないだろう。故郷も家族も失ったカイン・ティアミストの大切な人。シズクは兄の12年間を知らない。オタニアで過ごしたシズクがそうであるように、シンという名で生きてきた彼にも、気持ちを預けられるような親しい人物ができたのだろうか。
   「さっきのセイラ様の話を聞きながら、思ったの。シンは、魔族(シェルザード)の呪いを断ち切る為に、魔族(シェルザード)の側にいるのかもしれないなって」
  「え……」
  思考に耽っていた顔を、思わず上げて目を見開く。リサは、エメラルドグリーンの瞳を自嘲気味に細めてから、緩く首を左右に振る。
  「ううん。これは私の独りよがりな願望ね。そうであって欲しいっていう、根拠も何もない願望……」
  「リサさん……」
  「ごめんなさい、シズクちゃん。お兄さんの事で、一番辛いのは貴方なのに。他にもたくさん、考えなきゃいけない事はあるはずなのに。私は、どうしたら彼が罪に問われないで済むか、そればかり考えてしまっている」
  そう言って、儚く笑うリサからは、元来の快活さを感じる事はもう出来なかった。シンについて語るときのリサは、酷く脆い印象を受ける。強いと思っていた、シズクのよく知るリサは、あの襲撃の晩を境に姿を潜めてしまった。兄のせいでそうなった事は明らかだった。
  「……シズクちゃん」
  言おうかどうしようか。数瞬悩むそぶりを見せた後、リサはエメラルドグリーンの瞳を
シズクの方へ真っ直ぐ向けた。
  「私は明日、イリスへ帰るわ。だから、おそらくもう、シンに会う事はないと思うの。もし、この先貴方が、再び彼に会って話せる機会があれば、伝えて貰えるかしら?  ――私は怒っていないって。できる事なら、もう一度貴方と直接会って、話がしたいって……」
  切羽詰まった表情で、けれどどこか申し訳なさそうに、リサはそう告げた。
  シン――兄と、自分は今後もまた、会うのだろうか。会いたいのだろうか、会いたくないのだろうか。リサの言葉に、一瞬そんな疑問が湧いてくる。5歳で閉じられたジーニア・ティアミストの記憶の中にある兄との思い出は、間違いなくかけがえの無いものだった。けれどもシズク・サラキスとなった自分にとっての今の彼は、何なのだろう。複雑で、分からない。思考が堂々巡りになりかけたところで、シズクはそれ以上考える事をやめた。考えても答えは出ないだろうから。おそらく、次に彼と再会するまでは。
  「……わかりました。会ったら必ず伝えます。リサさんも、イリスまでの道中気をつけて下さいね」
  つとめて笑顔で、リサに告げる。美貌の王女は、少しホッとしたような顔で薄く微笑んだのだった。






 夕食の時間帯が過ぎた後、入浴を済ませたリサは早々に眠りについた。彼女を見送った後、シズクはというと自室に籠っているのもなぜか落ち着かなくて、寝間着に着替える事もなく部屋を後にした。深夜というにはまだ早い時間帯。昼間程ではないが、城内はまだ人の気配が多い。できるだけそれらを避けるようにして、シズクは歩みを進めた。聖女として公式に姿を晒した状況下では、人の目が多くある所は落ち着かない。まさか自分がこのような立場になるなんて。セイラと出会う前の自分からは想像もつかない事である。リースやリサ達の気苦労が少しは分かったような気持ちになり、苦笑いがこぼれる。
 人ごみを避けると、必然的に足が向かうのは城の奥だ。行政が主に執り行われているエリアでは、業務がほとんど終了しているのだろう。人の姿はまばらだった。襲撃騒ぎの直後であった為、見回りの人間は多めだが、それでも憩いのスペースである小さな中庭には、人の目は無かった。中庭の石造りのテーブルセットに身を落ち着けると、今朝マーサに話しかけられた時にもそうしていたように、シズクはまたポーチから豚をかたどったぬいぐるみを取り出し、大きく息を吐いた。東の森の魔女から渡されたお守り人形である。今朝もそうしたように、シズクはまた、ぬいぐるみ越しに魔女に語り掛けるものの、やはり返事などはない。近々直接会えるのだから、焦らなくても良いとは思う。けれど、やはり落ち着かない。
 「……何、してるんだよ?」
 ひとしきり豚のぬいぐるみを睨みつけてから、諦めてテーブルに顔を埋めたところで聞きなれた声が耳をなでる。怪訝そうな声だ。一瞬どきりとするものの、比較的落ち着いた表情でシズクは臥せっていた顔を上げる。視線の先には、訝しげにこちらを見つめるリースの姿があった。今朝顔を合わせた時の恰好そのままではあるが、今の彼は珍しく帯剣していた。夜という時間を考慮しての事だろうか。
 「……魔女との交信を試みたけど、無駄な努力だったみたい」
 「魔女との交信? それが?」
 疲れた表情のままシズクがそう零すと、リースはますますあきれ顔になる。なるほど確かに側から見ればシズクの今の挙動は意味不明だろう。何らかのマジックアイテムならまだしも、シズクの手中にあるのは、ピンクの毛糸でできた巻き毛を蓄えた、豚のぬいぐるみなのだから。いくら製作者が魔女本人とはいえ、おそらくこれにマジックアイテムの類のような効果はのぞめない。けれど、魔女とのつながりのあるものなど、シズクの手元にはこれくらいしかないから仕方がない。
 「……こんな時間にどうしたの? リース」
 リースの質問には答えず、シズクはそう尋ねる。待ち合わせしていた訳でもないのに、こんな時間帯に彼がここを訪れた事が不思議だったからだ。シズクが浮かない態度だからだろうか。リースは何とも微妙な表情を浮かべた後、小さくため息をついてから向かいのイスに腰かけてくる。中庭は、所々灯りが設置されているものの、少し薄暗い。普段は明るいエメラルドグリーンの瞳は、今は少しだけ深い色に見えた。
 「それはこっちの台詞。……俺はアキと剣の手合わせのあと食事した帰りで、たまたま通りがかっただけだよ」
 なるほど彼が帯剣していた理由がそれで分かった。それにしても、リースとアキが二人で食事だなんて、なんだか珍しい。曰く、アキから誘われたそうだ。連日めまぐるしく動く事態に少しでも追いつこうと、彼はあれこれとリースを質問責めにしたようだった。アキの気持ちも分からなくもない。当事者の一人であるはずのシズクですら、環境の変化に付いていけていないのだ。シズクの素性についてほとんど予備知識がなかった彼にとってはいわんや、である。それもあってか、アキからの質問は、シズクに関する事が多かったとか。
  「……昨夜の事までしつこく絡まれたから、そこで切り上げてきたけど」
  鬱陶しいとばかりにため息を零しながらリース。さらりと耳に入ってきた言葉だがしかし、心臓にはそれほどよろしく無い内容で、なんともむず痒い気持ちになる。
  「…………」
  昨夜、夜会を途中で抜けて、シズクとリースはベンチで長い時間話し込んだ。あの時、何もなかったかというと、それは嘘になるが、別に後ろめたい事は何もしていない。けれども、人に詮索されるのは正直気が引ける。リースは、アキに一体どこまでの事を話したのだろうか。
 「……で? シズクはまた、なんでこんな時間にこんな場所で奇行に走ってたんだよ?」
 軽く混乱しかけて沈黙していたシズクを見て、リースは小さく噴き出すと、こう話題を切り替えたのだった。
 「き、奇行って……また失礼な」
 「ぬいぐるみを見つめながら百面相する事のどこが、奇行じゃないっていうんだよ?」
 「う……」
 そう言われれば、反論の余地はもうない。幼子ならまだしも、齢17になるシズクが、ブタをかたどったぬいぐるみを肌身離さず持っている事自体少し違和感がある。人目の少ない場所を選んだつもりではあるが、ぬいぐるみに向けて、意味ありげな表情を浮かべたり、語り掛けたりする姿は、奇行と言われてもおかしくないかも知れなかった。といっても、シズクとしてもこれでも必死なのだ。
 「テティ――東の森の魔女との繋がりは、今はこのぬいぐるみだけだから。もうすぐ会える事にはなったけどね。今朝、夢とも現実ともつかないものを見たから……それでちょっと、落ち着かなくて」
 「へぇ、どんな?」
 「いつの間にか子どもを身ごもっていて……」
 「――――っ」
 思わずそう口走ってしまった直後、場の雰囲気が凍り付いた事に気づき、シズクはしまったと思った。あごに手を乗せた体制でくつろいでいたリースの表情が、一気に固まる。
 「ちょ……いや、ごめん! 違う! わたしじゃなくて、シーナの事ね!」
 心外だとでも言いたそうな瞳でこちらを見つめるリースに、シズクは顔を真っ赤にしてそう釈明した。変な汗が背中を滑り落ちていく。さすがに言葉選びを間違えたと我ながら思った。今朝方見た夢の中で最もインパクトが大きい事柄が、まっさきに口から滑り落ちてしまった。
 「えっと、夢の中で、わたしはシーナで、王家を出ていくか出ていかないとかで、王様に責められてる彼女のお腹には、子どもが宿っていたみたいで……」
 しどろもどろになりながらも、なんとか今朝見た夢の状況をリースに説明する。妙に現実味のある夢だった。自分ではおよそ感じた事のない感情が、一気に押し寄せてきて、目覚めたあともしばらくは頭の処理が追い付かなかったくらいである。単にシズクの記憶と想像が作り出した妄想という可能性ももちろんあるが、どうもそうとは思えなかった。シズクとシーナは繋がっている。混じっていると、テティは言っていた。現にシズクは、知らないはずのシーナの記憶をいくつか既に持ってしまっている。
 「……状況から察するに、じゃじゃ馬王女がどこの馬の骨とも知れぬ平民の子どもを宿して、父王に怒られてる、って構図ではなさそうだな、それ」
 若干あきれ顔は残しつつではあったが、比較的真面目な声でリースはそう分析する。しどろもどろのシズクの説明から、よくそこまで状況把握できたものだと、言った本人としては妙に感心してしまう。
 「確かに……。なんていうか、うまく言えないけど、二度とイリスピリアには戻れないっていう強い覚悟と絶望感が、彼女の中にあったように感じた」
 「イリスピリア王家を裏切った上に、将来に遺恨だろ? ……一体誰の子だよ、それ」
 「わたしが知りたいわよ、そんなの」
 二人のため息が重なる。一体なんて会話だ。そうは思うものの、これは重要な事ではないかともシズクは思う。おそらくリースも同じような事を考えているだろう。
 シーナは王家を自ら出ていった。これが世間の常識とされてきた。けれど魔族(シェルザード)達からもたらされた話によれば、彼女は王家から王権をはく奪されて、イリスを追われたらしい。シズクが見た夢が、もし夢などではなくて、彼女の『記憶』の断片なのだとしたら、あの情景は、まさにシーナが王家を追われるその瞬間だったのではないだろうか。事の中心にあったのが、シーナ姫の懐妊である。彼女はしてはいけない事をした。決して結ばれてはならない相手との間に、子どもを設けた。だとすると――
 「ティアミスト家が、もしその子の末裔なのだとしたら、イリスピリア王家との妙な関係も納得がいくかも……」
 思考の末にそれが言葉となって滑り落ちた瞬間、突然絶望的な気持ちになった。答えを導き出したと同時に、気づいてしまったからだ。遺恨となるような存在の末裔。それは要するに、シズク自身の存在もまたそうなのだと。
 「……やめようぜ。シズクの夢が、事実かどうかの保証なんて、どこにもない」
 同じ答えに行き着いたのだろうリースの表情もまた、あまり冴えなかった。しかし、比較的軽い調子で肩をすくめると、彼はポンポンとシズクの頭を撫でたのだった。小さく頷いてからシズクは、彼の方を見る。エメラルドグリーンの瞳は、心配そうにこちらをのぞき込んできていた。その瞳に映り込む自分の姿は、どこか憂いを帯びているように見える。果たしてこれは、シズクだろうか、シーナだろうか。境界線が分からなくなるようで、怖い。頭に触れるリースの体温を感じながら、シズクはそれきり思考に蓋をして目を伏せた。ほぼ業務を終えたエアラリア城内は、ふたりとも黙り込んでしまうととても静かだ。城下町の喧騒も、ここまではさすがに届かない。
 「……今考えてもどうしようもない事より、考える意味のある事を考えた方が良いよな。……明日の昼間とか」
 「え?」
 すっかり沈んでいたシズクの思考は、そんなリースの一声で呼び戻される。エメラルドグリーンの瞳には、相変わらず暗い表情の自分の姿が映り込んでいたが、声を発するリースの表情はこの時にはすでに穏やかだった。
 「姉貴とセイラを見送った後は、一日フリーな訳だろ? アリスとアキの出立の許可は多分間に合わないし、旅の準備がてら、城下町を散策する余裕くらいはあるよなと思って」
 「それって……」
 「?」
 「要するに、デートのお誘いってやつですか?」
 沈んでいた気持ちが、嘘みたいに浮上していくのが分かって、シズクは自分で自分がおかしくなった。まったく現金だ。こんな深刻な事柄だらけの時なのに、とも思うが。
 「……まぁ、そうだけど」
 少し間を置いて呆けた後、だけど否定をする事なく、苦笑いを浮かべたリースを見て、シズクもやっと笑顔になることができた。そういえば今日はずっと、こんな風に笑う事はなかったなと、いまさらながらに自覚する。
 おそらく数日以内には、シズク達はエラリアを発ってテティの居る森を目指す事になる。そうなるとしばらくは、こんな風にのんびりした時間はやってこないだろう。そうなる前に、城下町に出かけようと、誘ってくれたリースの気持ちが素直に嬉しかった。





BACK | TOP | NEXT

** Copyright (c) takako. All rights reserved. **