6.
翌日、朝早くにセイラとリサの一行はエラリアを発った。執事長のディランによって集められただろう最少人数の精鋭が護衛につき、数人の見送りのみのひっそりとした出発だった。リサの体調は大分回復してはいたが、まだ表情に影があるのが気になった。けれど別れの際には、満面の笑みを見せてくれたので、気持ちは少し上に向き始めてくれたという事だろうか。
2度目に訪れるエラリア城下町は、レクト皇太子誕生に沸いていた数日前の活気は鳴りを潜めてはいたが、戦争が始まるという一報が流れたにしては活気があった。政治的に大きな動きは、もちろんそこに住まう国民の精神に影響を与えるが、すぐには大きく変わらない、とはリースの言。大通りは相変わらずすごい人でごった返しており、リサと共に城を抜け出した時の事を思い出した。あれから数日しか経過していなかったが、ずいぶんと昔の事にように思える。シズクの中で、本当にたくさんの事があったので、それも当たり前の事ではあるが。
「…………」
油断すると、つい暗い方へと思考が向かう事に気づき、シズクは緩く首を振った。戦争が始まる。問題は何一つ解決していない。けれど、今だけはせめてそれらを忘れてしまおう。ちらりと隣を見ると、軽装に身を包んだリースがいる。シズクの視線に気づき、彼もこちらに顔を向けた。エメラルドグリーンの瞳とまっすぐぶつかる。リサと城下町を訪れたあの日は、この瞳は随分と自分の中で遠い存在だった事を思い出す。こちらを見つめる瞳は、城の中にいる時よりずいぶんと柔らかな光を宿している。彼に微笑みを向けると、シズクはその手を引いた。
「アリスが、城下町にすごくおいしいパウンドケーキのお店があるって言っていたの。前回リサさんと来た時はすっかり食べ損ねちゃったから、行こうよ!」
シズクの言葉に、リースは一瞬きょとんとしたのち、苦笑い気味に頷いたのだった。
アリスおすすめのパウンドケーキは、シズクの予想を遥かに超えてふわふわで、ほどよい甘みは全身を幸せで満たしてくれた。甘味はやはり癒し効果抜群である。人気のお菓子屋らしく多少並んだが、並ぶ価値が十分にあると感じられるものだった。カフェと併設の売店にも人がたくさんで、お礼も兼ねてアリスにクッキーの詰め合わせを購入した。時間があれば夕食後にでもお茶会が出来たらいいなと思う。
今日は天気が良い。店をあとにして空を仰いでみると、太陽が随分と高いところまでのぼっていた。立ち並ぶ飲食店から香ばしいにおいが立ちのぼっている。もうすぐお昼ごはん時だ。
思えば、こんなにゆっくりと町を散策した事自体かなり久しぶりの事だった。数日前の城下町訪問は、ライラの花を加工する事が主目的であったし、前夜祭前だった事もあり、それほど時間がなかった。前このようにゆっくり町を散策したのは、一体いつの事だろうか。
「そういえば、イリスの城下町の散策は結局行けていないなぁ」
歩きながらなんとなしに呟く。
「そうだな。案内するって言ってたけど、結局それどころじゃなかったよな」
腕を頭の後ろで組みながらリース。
実際問題、イリスピリアの王子様である彼に城下町を案内してもらう事など、かなりハードルが高そうではあるのだけど。そういえば、旅の間にそんな約束もしていたような気がする。イリスに到着して、彼の素性を知った瞬間、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたが、イリスピリアに向けて旅をする事になった際、シズクが最も楽しみにしていた事の一つが、イリス城下町の散策だった。結局未だに果たされていない事になる。
「色々と落ち着いたら、改めてゆっくり行きたいね」
それがいつになるのか、そんな日が来るのか。今の状況では、正直予想がつかない事ではあるが、言葉として発すれば現実になるような気がして、そう呟く。
「まぁそんな事より」
「?」
「後悔のないように今は、楽しめばいいだろう?」
どうせしばらく、こんな時間はとれない訳だしな。そう付け加えるとリースは笑った。彼とて決して楽観的に状況を見ている訳ではないだろうが、それもそうである。息をつくと、同意を示すようにうなずいてシズクもまた笑顔になる。
「他にどこか、行きたい場所はないのか?」
「うーん、そうだなぁ」
そう訊ねられても、とっさには浮かんでこない。エラリアの城下町に関しては土地勘がほとんどないし、アリスやアキにおすすめスポットを教えてもらう時間もなかった。唯一の目当てであるお菓子は堪能したので、あとはのんびり散策だけでも十分な気がする。露店が多く並んでいるあたりでも歩こうか。そう提案しようと思った瞬間、やや熱気を帯びた風が運んできた強い香りを受けて、はっとなる。
「そうだな。敢えて言えば……」
「?」
少し気恥しい気持ちも起こって、思わず表情が崩れる。そんなシズクの表情に、リースは怪訝な顔で首をかしげるのだったが
「マジックショップ。……もう一度付き合ってもらっても、いい?」
ある意味で思い出深いその場所をシズクに指名されて、リースは驚いたようにエメラルドグリーンの瞳を見開いたのだった。
「いらっしゃい――って、あ!!」
マジックショップの木造りの扉を開いた瞬間、薬品のにおいが鼻に届くと同時に、そのような声が奥から聞こえた。声のした方へ視線を向けると、カウンターに佇む黒髪の女性が見えた。先日、ライラの花を使ったチャームを作成する際に対応してくれた女性店員で間違いない。今はカウンターに両腕をつき、目を見開いてこちらを見つめている。
少し緊張しつつもシズクはカウンターに歩み寄って会釈する。お姉さんのこの反応からして、シズクの事を覚えてくれているのだろう。
「白いライラのお嬢さんじゃない! って、きゃぁぁぁ!」
店員のお姉さんはシズクに笑顔を向けた直後、その後ろから入店してきたリースを視界に入れると同時に素っ頓狂な声を上げた。魔導士然とした神秘的な光を宿すはずの紺色の瞳は、歓喜の色に染まる。両手で頬を押さえ、目を見開く姿は完全に、ミーハーな年ごろの女性のそれである。
「あなたはまさか、白いライラの送り人!! その整った容姿、見間違えるはずがないわ!!」
「…………」
まぁ確かにその通りなのだけど。
頬を若干赤く染めながら、興奮した様子でそう叫ぶ店員に対して、大層微妙な表情のまま会釈をするリース。そんな彼を見て、シズクは物凄く申し訳ない気持ちになった。大元をたどれば、すべての原因は彼であるが、事態をややこしくした犯人は間違いなくシズクなのだから。
「まさかお二人でご来店いただけるとはね。その後結婚の準備は順調かしら?」
「いや、それなんですけどね」
夢見るような表情でにやけるお姉さんに対して、シズクはカウンター越しに体を乗り出して突っ込みを入れる。誤解は早めに解いておくに限る。
「わたしと彼は、決して婚約した訳じゃないんです!」
「そうなの? 私はてっきり……」
「ライラのアクセサリーについては、その、色々と……本当に色々と誤解がありまして……というか、まだ学校も出ていない身で、結婚はさすがにまだ早いというか、何というか――っ」
「……あら、じゃああの白いライラは、プロポーズの贈り物じゃなくて、さしずめ、愛の告白の品だったという事かしら?」
「―――――っ」
女性店員の思わぬ返しに、シズクの顔に一気に熱が昇る。反論を述べられないでいるシズクの様子を数秒見守ったあと、にやりと微笑むと、なるほど了解。と楽しそうにお姉さんは告げた。
「……シズク」
赤面したまま硬直していると、背後からかなり不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「まさかとは思うが、この誤解を解く為にこのマジックショップに行きたいって言った訳じゃないよな?」
首から上だけで振り返ると、半眼になったエメラルドグリーンの瞳とぶつかった。一体なんのつもりだと、こちらを責めるような色が見て取れる。彼にしてみれば、苦々しい記憶を掘り起こされた上、からかいの対象となっているのだ。無理もない。
「そういえば、今日はどのような要件なのかしら? 私もあんまり経験豊富じゃないから、長続きの秘訣なんかの質問は力になってあげられなさそうなのだけど」
「いやいや、そっちの経験を頼りにしている訳ではなくて、ですねっ!」
さらに悪ノリしだしたお姉さんを、若干諫めるような響きでもってシズクは告げる。
いや、まぁ、ここに来る時点である程度この展開は覚悟していた事なのだけれど。
エラリアの城下町には、マジックショップは他にも数店舗存在する。単純にマジックショップに行くだけならば、なにもここ『ルージュの魔法屋』でなくても事足りるだろう。
「頼りたいのは、お姉さんのその、魔道士としての経験です!」
では何故、シズクがここに来たいと言い出したのかというと、単純にこの女性魔道士の腕が良いと見込んでの事だった。
先日のチャーム作りの折、隣で彼女の手際は見て知っている。多少カジュアルな雰囲気を醸し出しているマジックショップではあるが、あの時の手技や見立てからして、彼女の実力は確かだ。そう思ったからこそ、もう一度頼ろうと思い、訪れた。
「……なるほど。それで、一体どのような知識がご入用なのかしら」
一呼吸おいてから、女性店員は居住まいを正した。ミーハー心丸出しだった表情から一転して、ゆるく微笑むと急に真面目な表情に戻る。興奮でらんらんとしていた瞳も、知性の光が宿りだす。 切り替えが早いのは大変ありがたい。
「またチャーム作りを手伝って頂きたいんです」
妙な雰囲気が去って、シズクもようやく落ち着きを取り戻す。一呼吸おいてから、そのように告げた。そう、それがシズクの目的である。
「チャームね。ここで依頼するって事は、本格的な物って事よね」
女性の言葉に、シズクは頷く。
よく市場やファンシーショップに並ぶようなチャームは、宝石や石を加工しただけの代物で、それ自体に装飾品以上の効果はない。先日シズクが作成したライラのアクセサリーも、魔法を用いた加工を行っただけで、同類に属する。だが、今回シズクが作りたいチャームとは、魔道士が本格的に手掛けるタイプのものだ。所持するものに対して、実際何らかの影響を及ぼす程度の、魔力を帯びた類のアクセサリー。
「用途とか、決まっているのかしら」
「お守りにと思って。……弱くていいので、闇魔法の力を、その中に込めたいんです」
「闇魔法?」
またそれは、珍しいものを。と、女性は呟く。
「闇の精霊の加護を受けている人でも居るのかしら?」
「逆です」
「?」
首をかしげて怪訝な顔になるお姉さんから一旦視線をそらして、シズクは振り返った。そして背後でこちらのやり取りを興味深そうに聞いていたリースへと視線を向ける。
「――彼は、通常より光の加護が強すぎる人なんです」
リースと目を合わせながら、シズクはそう告げた。その瞬間、エメラルドグリーンの瞳が驚きで見開かれたのが分かった。よもや自分の事に飛び火するとは、リースは思っていなかったのかも知れない。
「……『戦場』でそれが命取りになったりしないように、闇の加護を持っていてもらいたいと思って」
――戦場。
するりと滑り落ちた言葉ではあるが、その単語の重みを、瞬時に女性店員は察したようだった。唇を引き結ぶと、一瞬表情を強張らせたのち、紺色の瞳を細めた。
エラリアの城下町は今日も平和を保っている。けれど、先日の宣戦布告の件は、国民に知れ渡っている事だ。すぐにとはいかずとも、戦場に赴く可能性のある人間は、この国にも、ある程度存在するだろう。シズク自身も、魔族(シェルザード)と石の奪い合いをする限り、闘いに巻き込まれる事はそう遠くない未来にあるだろう。もちろん彼、リースもまたそうである。
「白いライラのお礼に、わたしから彼へ。お守りを贈ろうと思って。それが、今日ここを訪れたわたしの目的です」
短時間で作れるチャームの効果など知れている。そんな事はシズクとて承知はしていた。所詮は気休めなのだとは思う。けれど、せめてシズクの想いだけでも、彼の側にあれば良いなと。風が運んできたライラの香りを受けて、ふと思いついた事だった。
「……承知したわ。今回は材料費と手数料もきちんと頂く事になるわね。でも、その分全力で応えさせてもらうから」
真剣な瞳をまっすぐに向けて、店員のお姉さんは言った。あぁやはり彼女に相談する事にして良かったなと、そんな事を思いながらシズクは微笑んだのだった。