追憶の救世主
第7章「西へ」
8.
「シズクっ!」
リースの切羽詰まった声が廊下に響いた直後、眩しい光が周囲に飛散した。あまりの光量に、さすがに直視し続ける事がかなわずアリスは目を瞑ってしまう。
――わたしが行ってくるからっ!
シズクから突然告げられた言葉の内容に、焦燥が募る。光が廊下を満たしたのは、ほんの数秒の事だったようで、すぐに眩しさからは解放される。と同時に慌ててアリスは目を開いた。とにかく状況を確認しなければ。
「な……っ!」
目を開いて真っ先に扉の方を見た。魔法の光を帯びていたランプは、いつの間にか通常通りのオレンジの光を宿し、白亜の扉を優しく照らしている。それはいつもよく見る、何の変哲もない廊下の光景。しかし、つい先ほどまで目の前でいたはずの人物は、忽然と姿を消してしまっている。扉に手をかけたはずのシズクが居ないのだ。
冷や汗が背中を滑り落ちていく感覚がする。心臓が、一気に鼓動のスピードを増すのが分かった。
「シズク……?」
「っておい、リースも居ないぞ!」
愕然とした声でそう零したアリスの横で、慌てた様子で告げたのはアキだ。まさかと思い周囲を確認するも、アキの言う通りである。シズクの隣に佇んで一緒に魔法陣を検分していた筈のリースの姿もどこにも見当たらない。
「嘘……」
いきなりの状況に、頭の処理が追い付かない。心臓は未だに早鐘のように鳴り続けており、耳元でどくどくとした音が流れていく。
動揺する頭をなんとか押さえつけて、状況を把握しようと必死になる。先ほど一瞬感じた空間の変化は、間違いなく魔力を宿したものだった。この扉の魔法陣にはティアミストの魔道士達による転送魔法が施されていたという事は、アリスも昨日聞いて理解していた。シズクとリースの姿はどこを探しても見あたらない。光が二人を一瞬にして連れて行ってしまった。要するに、発動したという事なのだろう。扉に施された魔法が。
大きく息を吐く音が聞こえたのは、アリスがそれだけの事を頭の中で結論付けた時だった。
「扉の先は、ディレイアス。だったっけ?」
すぐ隣に控えるアキが、比較的落ち着いた声でそう言った。それは、先ほどシズクが解読した『暗号』の最後のフレーズである。
アキの方を見ると、夏空の色をした瞳もまたアリスを見つめていた。と同時に、廊下が少し騒がしくなる。何事だと、数人が走ってこちらに向かってくる足音が耳に届く。いくら夜間とは言え、城には見回りの兵士がいるし、帰宅せずに残っている人間も少ないが居ただろう。先ほどのまばゆい一瞬の光に驚き、状況を見定めようと幾人かが駆けつけて来たのだ。
「……とにかく、叔父様にこのことを報告しなければいけないわ。状況からして、二人がディレイアス方面に飛ばされたという事も」
アリスの言葉に、アキも真剣な顔で頷きを返す。
動悸はしばらく収まりそうにないが、思考は徐々に冷静さを取り戻しつつあった。二人の安否は気になるが、今はとにかく、自分達にできる事をしなければいけない。
ふと白亜の扉を振り返ってみる。先ほどまで魔力の流れを帯びていた魔法陣からは、今は何も感じる事が出来ない。文字通りただの模様に戻ってしまった。おそらく役目を終えたという事だろう。
「二人とも、無事だと良いのだけれど――」
大いに不安の宿る声で、アリスはそう呟いたのだった。
視界が白んだ後、ふわりと体が浮かんだ感覚がした。その後、意識は一時的に途切れたのだと思う。それが果たして一瞬の事だったのか、それとも長い時間だったのかは分からないが。とにかく、再び意識を取り戻した次の瞬間には、重力を感じていた。
「うわぁっ!」
「うえぇ!?」
――ドサドサッ
間抜けな声を上げたと同時に、体に衝撃が走る。痛い。地面に向けて思い切り転がった形である。閉じていた瞳を開けて真っ先に飛び込んできたのは、黄土色の磨きこまれた床だった。おそらく材質は石であろうそれには、焦り顔のシズク自身の姿がぼんやりと映り込む。どうやら今自分は、建物の中にいるらしい。未だじんじん鈍い痛みを放つ体をおして、シズクは顔を上げると周囲を見渡した。やはりここは人工的な建造物だ。床と同じ色の壁には、窓がいくつか見える。等間隔に設置されているランプは、見慣れない意匠が施されていた。そして――
「って、えぇぇぇ!! リース!?」
突然視界に飛び込んできた明るい金色の髪と、エメラルドグリーンの瞳に、建物の実況見分も忘れてシズクは大きな声を上げた。恐ろしく整った顔は見覚えがありすぎる。間違いない、リース・ラグエイジである。
「なんで? どうして一緒に」
一人で飛ばされるつもりだった。
扉の魔法が発動した事を理解した瞬間、とっさに動いたのはシズクだけだった筈だ。せっかく『暗号』を読む事が出来て、おそらくそれは『石』に関わる重要なヒントであるはずなのに、全員が飛ばされてしまったら、セルト陛下に何も知らせる事は出来ないだろう。そう判断して、どうせ飛ばされるのなら一人だけでと思ったのだ。それなのに、何故リースまで一緒にいるのだろう。
「勝手に一人で行こうとするな! ったく――」
不機嫌そうにそう言ってから、リースは半眼でこちらを睨む。綺麗な顔で凄まれると、結構迫力があるのでシズクは軽く怯んでしまう。そう言えば、飛ばされる直前、彼に腕を掴まれた事を思い出した。一緒に飛ばされてしまったという事なのだろう。
「――なんとまぁ」
状況把握が追い付かず、混乱するシズクの耳に新たな声が届いた。それは比較的若い、少女の声だった。慌てて声のした方を向くと、数歩ほど離れた先には、自分達よりは少し年下であろう小柄な少女が佇んでいた。イリスピリア地方ではほとんど見られない褐色の肌に、鳶色の吊り上がり気味の瞳。茶褐色の長い髪は、細かい三つ編みをいくつか束ねた形でまとめられている。凛とした印象を受ける少女だ。身にまとう衣装は軽装だったが、首や腕に身に着けているゴールドの装飾品を見て、ひょっとしたら高貴な身分にある人なのかも知れないと思う。当たり前の事だが、見覚えのある顔ではなかった。一体誰なのだろう。
「男と女が現れるとは。光神(チュアリス)と闇神(カイオス)が同時にお出ましという訳か?」
紡がれる声は間違いなく少女のそれなのに、彼女は妙に男っぽい話し方をする。いやしかし、それよりも気になるのは、少女の発言の方である。
「光神(チュアリス)と闇神(カイオス)? 誰が……」
「ふむ。記憶が混濁しておるようだ。『神下ろしの儀』には特に問題は生じなかった筈なのだが……」
――神下ろし?
「ワカバ様」
そこでまた新たな声がかかる。ワカバと呼ばれて少女は怪訝そうに捻っていた首を声のした方に向けた。ワカバというのがおそらく少女の名前なのだろう。声を発した人物は、ワカバのすぐ隣に控えていた人物だった。ワカバと同じく、褐色の肌に鳶色の瞳を持った女性である。艶やかな長い黒髪は一つに纏められて肩から流れる。理知的な印象を受ける彼女の顔を見て、オタニア魔法学校の教官だったナーリアを思い出した。年齢もおそらく彼女と同じくらいだろう。
「ワカバ様。どうやら彼らは神ではなさそうです。身に着けた衣装は大陸でありふれた人間族の装束ですし、なにより神にしては神々しさが微塵もございません」
「いいやアサヒ。これは神の作戦なのかもしれんぞ。極普通の人間のような出で立ちで降り立って、我らを試しているのやも――」
「誰が神だ! っていうか、ここはどこなんだよ?」
訳の分からない会話にいい加減うんざりしたのか、少女と女性の会話を割いてリースが声を上げる。問答を中断した目の前の二人の視線が、一斉にこちらを向いた。
「……ミール族?」
褐色の肌に、鳶色の瞳。そして、ワカバとアサヒ。自然物をそのまま名前にする風習。二人の特徴から、とっさにその単語がシズクの口から滑り落ちる。西方に多く住まう一族、ミール族。おそらく二人の特徴からして、間違いないと思われる。
「おぉ、神が我々と会話を試みているぞ、アサヒ」
「いや、だから、神じゃない。俺もシズクも、れっきとした人間だよ」
「ワカバ様。どうやら我らの『神下ろし』は失敗したようです。彼らも自らを人間だと言っているではないですか」
おそらくアサヒという名前なのだろう女性は、ワカバをそう言ってたしなめる。
「あの、神下ろしって……? わたし達はエラリア城からここに飛ばされた筈なのですが。ここは一体どこなのでしょうか?」
混迷を深める会話に、さすがにシズクもしびれを切らした。すがるような気持ちで、目の前の二人にそう訊ねる。
それにしても訳が分からない。転送魔法の呼び出し先にたどり着いたのだろうが、予想と大きく違う状況に、混乱の度合いが増していく。
周囲を見渡してみると、黄土色の壁の遥か上の方に天井が見えた。明かり取り用に取り付けられた天窓から見える空には、ぽっかりと満月が上がっている。時刻は夜だ。おそらくエラリアから飛ばされて、時間はほとんど経過していない。立ち上がってみると、足元には繊細な線が幾重にも連なる模様が確認できた。きっとこれが、転送魔法陣だろう。円形のドームのような建物の中心に、自分達はいる。散りばめられた意匠は、シズクのなじみある文化圏のそれではなかったが、雰囲気からして、ここは神殿か何かなのだろうと理解できる。あの『暗号』の内容からして、ここはディレイアス国のどこかだろうが、かの国の一体どこに飛ばされてしまったのか、皆目検討もつかない。
「エラリアから……?」
困惑するシズクを見て、アサヒは幾分躊躇するそぶりを見せる。鳶色の瞳に宿るのは、ほんの少しの警戒。ここはどこだと尋ねるシズク達に真実を語って良いものか悩んでいるようだった。転送魔法を発動させたのは、十中八九彼女たちだろう。しかし、この反応を見る限り、彼らが呼び出したつもりの存在と、自分達は大きく異なっていたと予想される。
「ふむ。エラリアからの使者など、呼び出したつもりはないのだが……」
一方的に召喚しておいてなんて言い草だ。リースならそれくらいの悪態をつきそうであるがしかし、そのような問答をしていても埒が明かない。どう説明すれば、自分達の素性をうまく説明できるだろうか。悩むシズクであったが、ふと真正面からワカバと目が合った事で、思考が中断される。吊り上がり気味の大きな瞳。あどけなさを若干残してはいたが、見た目の割にこの少女は精神的には成熟しているような雰囲気を宿す。その瞳に魅入られて、やがてそれが驚きに見開かれるのを認めて、シズクは首をかしげる。
「――神は下りなかったが、予想外の人物が下り立ったという訳か」
「え?」
「いや、ひょっとすると、これが『神下ろしの儀』の真実という事なのか……」
怪訝な表情を浮かべるシズクには構わず、ワカバはぶつぶつと独り言をこぼし始める。今後は一体なんなのだと、リースはすっかり呆れ顔である。ワカバの隣に控えるアサヒでさえ、少女の独り言についていくことが出来ずに首をかしげている。
「――おぬしは、ジーニア・ティアミストだな」
再び目があった直後、告げられた内容にシズクは固まってしまった。よもや少女の口からその名が発せられようとは。一体誰が予想できただろう。
決して冗談でその名を告げたわけではない事は、彼女の真剣な表情から明らかである。しかし何でまた、面識もない少女に己の正体を言い当てられてしまったのだろうか。シズクの気持ちを察したのか、ワカバは表情を崩して苦笑いを浮かべた。
「そういえば自己紹介がまだだったな。私の名は、ワカバ。ワカバ・ディアスだ」
「ディアス……!?」
これまで不満げな表情で佇んでいたリースが、彼女の名を耳にして驚愕の表情でそう零す。シズクとしても、これは驚きでしかなかった。ディアス。それは、ファミリーネームではなく、称号名である。そして、この称号を名に冠する事ができるのは、この世界でただ一人だけだ。
ダメ押しとばかりに、ワカバは懐からあるものを取り出してシズク達に見せてきた。黄土色に輝く小さなクリスタルには、神竜の紋章が浮かぶ。色は異なれど、それはこれまでの旅で何度か目にしてきた代物である。
「まさか、雷神の神子?」
やや緊張して零されたシズクの声は、天井の高いこの部屋によく響く。
そう。彼女が見せてきたのは、雷神の加護を受け、神の代理人として人々を導くよう使命を与えられた人間である証となるクリスタル。そして、ディアスとは、雷神の神子が名乗る名であるはずだ。
「いかにも。そして、ここは雷神の神殿近くの遺跡の中だよ」
肩をすくめて雷神の神子であるワカバが、そう告げた。
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