追憶の救世主

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第7章 「月夜の来訪者」

9.

 「良かったんですか? リオ――」

 静かな夜の空間に、穏やかなセイラの声が発せられた。声はそのまま、まるで布に水が染み込んでいくかのように夜へと溶けていく。窓から見える月は、天頂を大きく越えてずいぶん下まで来てしまっていた。深夜も深夜。宿のスタッフも全員寝静まってしまっているような時刻だ。場所は、宿屋の談話室だった。
 同室のリースはすでに寝息を立てて深い眠りについている。しかしセイラはなかなか寝付けずに、こうして談話室まで出てきているという訳だ。傍ら(といっても談話室のテーブルの上なのだが)には、伝説の杖偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)の化身であるリオの姿がある。
 『何が?』
 どこかそっけない様子でリオはそう言葉を返してくる。心を通じ合わせる事が可能な彼女の事だ、きっとセイラの思考も見透かしているのだろう。この返事も社交辞令のようなものだ。だがセイラも、あえてその社交辞令に従う事にする。
 「シズクさんに、真実を話した事ですよ。時期を見定めよと、あなたは僕に常々語りかけていた」
 言って、闇色の瞳を目の前の小さな妖精もどきにむける。
 実はシズク達が知らぬところで、セイラはリオからシズクやその他に関する事について、それなりの情報を伝えられていたのだ。もっとも、シズクがティアミストの者だという事は、彼女の瞳を見た瞬間にセイラ自身も気づいた。まぁ、瞳を見るまでも無く『あの人』の面影をシズクから感じた瞬間にぴんときていたのだが。
 実のところ、セイラはシズクに真実を告げたくて仕方がなかったのだ。何度、彼女の生家について彼女に伝えようと思ったことか。それをずっと我慢していたのは、他ならぬリオの指示があったからだ。まだ時期では無いという理由で。それを今回、他ならぬリオ自身がシズクに真実を告げるに至った。セイラにとって、彼女がシズクに真実を話したことは、驚きだった。
 『確かに、まだ少し時期が早かった感はあるけれど、魔族(シェルザード)側が今回、強行な姿勢をとってきた事で大きく予想が狂ったのよ。……それに、あんな状態ではシズク自身が待ってくれなかったでしょうしね』
 言って、リオは苦笑いを浮かべる。目線は窓の外の月に向けられていた。今宵の月は形がはっきりしていて美しい。そして、静かだった。

 「……リオは、僕にすら全ての事を語ってはくれないのですね」

 セイラも闇色の瞳を月夜に向けて、静かな口調で言う。しかし心の内では、熱い思いとわずかな焦りが燃えていた。
 リオからセイラに与えられる情報は確かで、そして絶大な物だった。だが、与えられるのは、その場その場を乗り切るのに最低限必要とされる知識だけで、それ以上の事は何も伝えてくれない。
 今回の事にしてもそうである。セイラは確かにシズク達以上にはいろんな事に対する情報を得てはいるが、全てを知っているのかというとそれは違う。セイラにも分からない事がいくつかあるのだ。
 リオはおそらく知っているだろう。それをセイラに伝えないという事は、時期が早すぎると彼女が判断しているからなのだろうか。
 『言ったでしょう。知識は薬にも毒にもなると――』
 薄く笑うと、リオはサファイアの瞳を妖艶に薄める。
 『私は多くを知りすぎている。それ故、伝えることにも慎重になる』
 「……やれやれ、僕も自力でいろいろ調べなければいけなさそうですね」
 苦笑いして、そして軽いため息をつく。
 教えてくれなければ、自分で答えを見つけ出すまでだ。幸い、これから向かう先であるイリスピリアには、世界一の蔵書を誇る図書館が存在する。缶詰になるのは気が進まないが……仕方あるまい。肩をすくめておどけた表情をしてみせると、リオも意味ありげに微笑んでいた。
 窓の外の夜空では、星々がささやき合うようにきらめきを繰り返している。それを何気なく眺めながら、セイラは回想していた。『あの人』の事を。

 『あなたは賢くて好きよ。セイラ』

 ふと耳元に優しい吐息を感じて、セイラはそちらを振り返った。すると細い二本の腕が伸びてきて、眼鏡がそっと外される。
 「リオ……その姿は?」
 眼鏡を失い、若干にじんだ視界にはリオの姿があった。ただし、サイズが明らかに違う。
 『ふふ、サイズは自由に変えられるのよ』
 さきほどの妖精のような小型ではない。今目の前にいるリオは、人間の女性と変わらぬ大きさだったのだ。こんな芸当まで出来るとは。人間サイズで見るサファイアの瞳は、見るものを魅了する不思議な色香に包まれていた。杖と知らずに惚れてしまう者も居るだろう。
 『同じサイズだと、こういう事も出来るのよ――』
 くすくす笑いながらリオは、眼鏡が外されたセイラのまぶたを親指で優しく撫でた。そして頬にもう片方の手を添えてくる。
 「……困りましたねぇ」
 『何が?』
 ふふっと微笑みながら、リオはセイラを艶っぽく見つめてくる。必殺の目力だ。普通の男なら、一発で落ちる。
 「僕は、いかに偉大なる蒼(イアーリオ・ワイス)を受け継ぐ者といえども、杖といちゃつく趣味は無いんですけどねぇ」
 『つれないわねぇ。こんな美女が迫ってあげてるのに』
 「美女は美女でも、杖ですから」
 いかに女性として理想の塊ともいえる容姿やスタイルを備えていようとも、リオは杖だ。ハハッと笑うと、セイラは頬を弄ぶリオの手をとってやめさせると、眼鏡を取り返してかけ直した。対するリオは、少々つまらなさそうな様子だったが、彼女とて本気ではあるまい。
 「それに……変な誤解をされてしまっても困りますしね」
 そう言ってセイラは、談話室の入り口付近へと視線を移した。セイラに習ってリオもそちらを振り返る。夜中なので部屋の光量は抑えてあったが、それでもそこに居る人物の顔くらいは判別できる。
 「どうしたんですこんな時間に……シズクさん」
 セイラの視線の先には、気まずそうな面持ちのシズクの姿があった。






 どうしよう。とシズクは正直思った。

 さきほどの衝撃的な話の内容を悶々と考えているうちに、シズクはすっかり目が覚めてしまっていた。しかし、何か飲み物でも飲もうと、一階にある談話室まで降りてきたらどうだろう。窓辺で、リオとセイラがいい感じの雰囲気でいちゃついているではないか。あまりの光景に、シズクは口をぽかんと開けて立ち尽くしてしまった。
 見た目だけなら、若い好青年をたぶらかす妖艶な女といった風な状況だったがしかし、リオはどんなに美人だろうとも、どんなにグラマラスだろうとも、杖なのである。人間でも無ければ、本来生き物ですらない。それを知った上でリオとあんな事やこんな事をするのだというのなら、セイラはちょっと危険な世界の住人という事になってしまう。いやしかし、水神の神子に限ってそんなことは。
 「ほらリオ、誤解されちゃったじゃないですか」
 シズクの心中を悟ったのだろう。セイラは苦笑いを浮かべつつ、リオに不服そうな視線を向ける。対するリオはというと、そんなセイラの様子を楽しがっているようだった。
 「あ、あの……お邪魔してすみません」
 視線はあさっての方向に向けたまま、シズクは気まずそうな様子でそれだけ言う。自分で言った台詞だが、お邪魔って何のお邪魔だろう、と一瞬考えて、危険なワンダーランドが脳裏に広がってしまう。
 『本当にね! んもぅ、せっかくいいところだったのにぃ』
 シズクの言葉に、リオが乗ってくる。わざとらしく艶のある声まで出す始末。
 「リ・オ!」
 『冗談よ、セイラ』
 少々不機嫌そうにセイラが言うと、リオはあっさり折れた。彼女は、満足した様子でおかしそうに笑いながら、不服そうな表情を浮かべるセイラの頭をぽんぽんと叩く。完全にリオのペースだ。いいように転がされるセイラの姿など、なかなか見られないものである。こんなに焦るセイラの姿もまた、珍しい。思わずふき出してしまうシズクだったが、
 「で、どうしたんです? シズクさん」
 「あ、いや……」
 少々不機嫌さが残るセイラの様子に、シズクは笑いを必死でこらえて押し込めた。
 「眠れなくて……いろいろあったから」
 あははと苦笑いしてから、セイラとリオを見る。セイラは、もう怒ってはいなかった。
 そこで、会話がとぎれてしまう。三人とも何故か黙り込むと、神聖な夜の静寂が談話室を支配する。シズクは、何気なく窓の外を眺めてみた。窓の外に広がる夜空には細い月。そして、満天の星。星達の瞬きは、まるでシズクに何かを優しく伝えようとしているようだった。
 (本当に、いろいろあったなぁ)
 シズクは一人で、これまでの事を回想し始めていた。
 全ては、あの菜の花通りで始まったのだ。シズクとセイラが菜の花通りで遭遇した瞬間から。セイラから依頼の申し出があって、正直なところ、乗り気ではなかった。むしろ、何故自分が? という気持ちが強かった。
 案の定、大した役には立てず、その事にイラつくあまりにリースにつっかかった事もあった。クリウスにアリスをさらわれた時は、自分の無力さと未熟さを呪ったりもした。
 命がけの戦闘も経験して、実際、死に掛けたこともあった。仲間を死なせかけた事も。
 全て、オタニアの魔法学校に居た頃には、考えられない事だらけだ。
 「…………」
 旅立った事で、シズクの周りの全てが変わってしまった。

 「……後悔していますか?」

 「え?」
 不意に質問を投げかけられて、シズクは回想の海から帰還した。声のした方を向くと、柔らかに微笑むセイラの姿がある。
 「僕について来た事を。シズクさんは、後悔していますか?」
 「それは……」
 「僕は、今はシズクさんを連れてくるべきであったのかどうか、分からなくなっています」
 「え?」
 目を見開いて、シズクは思わず声を漏らした。セイラらしくない、弱気な発言だったからだ。
 自信家という訳ではないが、セイラという人は、放つ言葉にいつも確信めいた物を漂わせている人だった。その彼が今は、弱音とも取れる言葉を発している。こんな消極的な彼の姿など、シズクは見たことがない。
 「死んだものと思っていたあなたを、オタニアで見つけた時、奇跡だと思った。それと同時に、僕は守らねばと思った。『あの人』の忘れ形見だ。それに、ティアミストの血を引くという事が魔族(シェルザード)側に知れたら、あなたにどんな危害が加わるか分からない。……詳しく話すと長くなってしまうんですが、ティアミストと魔族(シェルザード)は、因縁ある関係なんですよ。だから少なくともオタニア魔法学校に居るよりは、僕の側に居る方が安全だ。僕はそう考えた。半ば強引に、あなたの同行を皆に認めさせたのは、そんなところからです」
 静かな口調で言うと、セイラは自嘲気味に笑った。そして、更に言葉を続ける。
 「しかし、連れて来てみてどうだったでしょう? かえってあなたの存在を、魔族(シェルザード)側に知らせてしまう結果となってしまった。僕は、自分の力を過信していたのですよ。あなたを守るどころか、逆に危険な道へと導いてしまったのかも知れない」
 「…………」
 それは、シズクに対して言っているというよりは、セイラ自身に言い聞かせているような感じの言葉だった。声色こそ落ち着いてはいるが、どこか力が無い。セイラの隣に佇むリオは、そんな彼を真剣な表情で見つめていた。
 ふと、それまで伏し目がちだったセイラが、突然シズクと視線を合わせてきた。その視線を受けて、普段は自信で輝く彼の漆黒の瞳が、今はシズクに答を求めているように感じられる。
 シズクは、ゆっくりと深く、夜の空気を吸い込んだ。

 「……セイラさん達と旅に出て、いろいろありました」

 夜の静寂に支配された応接室に、シズクの声は良く通る。

 「魔族(シェルザード)と会えれば、過去を知れるかもしれない。そんな漠然とした希望があっただけで、特に目的もありませんでした。だけど、魔族(シェルザード)に実際会って、そして……自分の過去を……母の事を少し思い出した時、どうしようもない喪失感に襲われたんです」
 様々な思いが、胸に重なる。
 始めは、単なる興味本位のようなものだったのだ。自分の住んでいた町は、魔族(シェルザード)によって崩壊した。その理由が一体何だったのか、知りたかったのだ。
 しかし、実際に当時の記憶を取り戻すと同時に、生々しい感情までがシズクの中に蘇った。忘れていた思いが、雪崩となって一気に噴出したのだ。
 忘却とは、なんと甘美な夢だろうか。悲しみも怒りも恐怖も、忘却の前では全てが消えうせるのだ。後に残るのは、単なる記憶の断片のみ。それは、書物に書かれた歴史の事実を読む感覚と大して違わない。そこには生々しい感情というものは、一切伴わないのだから。
 全てを忘れていたから、興味本位のままでいられた。別に無理して知ろうとも思わなかった。だが、例え一部分であろうとも、シズクは思い出してしまったのだ。あの日の風景を、母の声を、笑顔を。
 それは、後戻りがきかなくなってしまった事を示していた。
 「心から、知りたいと思い始めてしまったんです。自分の過去を、全ての事を。元の場所に戻ったって、この気持ちだけは、もう元には戻らない。だから……」
 目の前のセイラの瞳を、真っ直ぐに見据える。迷いは無い。明確な目的がシズクの中に出来たのだから。

 「わたしをイリスピリアに連れて行って下さい。後悔するかどうかは、全てが終わってみないと分かりません」

 それだけ言い切ってから、シズクは静かに息を吐いた。
 一大決心だ。シズクの人生の中で、ここまで自分の意思を強く言葉にした事など、無かったかもしれない。
 目の前では、セイラとリオが、驚いたように目を見開き、互いの顔を見合わせていた。しかしやがて、セイラはいつものあの笑顔を取り戻すと、
 「……分かりました。イリスピリアに行きましょう。そこであなたに、僕の知りうる限りの事をお話しします」
 力強く頷いた。いつもどおりに戻ったセイラに、シズクは少しの安心と、大いなる期待を抱く。

 全てはそう、イリスピリアにある。

 再び窓の外を仰ぐと、まるでシズクを激励するかのように、星々が瞬きを繰り返していた。


【第1部 完】
こそっとあとがき



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