追憶の救世主
第1章 「菜の花通りにて」
1.
時刻は夕暮れ時に入るか入らないかの、そんな微妙な時間帯だった。
春先といっても大陸の北西に位置するこの地方は、日が沈みだすとまだまだ肌寒い。太陽がゆっくりと傾き始めると、小国オタニア南部の町『オリア』は、夕焼けの暖かなオレンジ色に染められつつあった。
宿場町として成り立っているこの町は、夜が近づくとむしろ、昼よりも活気を増す。あちこちに夕方の市が開き、旅人を迎える宿屋にも灯がともりだしていた。
人々の間で交わされる話の内容は、旅人の多いこの街らしく、かなり多国籍だ。
やれかの国の魔法使いがどうやら、やれ隣国の王女が家出したらしいだの、今年の茶の取れ高は例年よりいいだの。そういった多種多様な内容の会話が繰り広げられるため、この町を一日うろつくだけで、結構物知りになれる。
しかし、物語の舞台はここではない。事は、裏路地で起こっていたのだから。
夕食の買出しや帰宅の徒につく者たちでごった返す表通りと違って、裏通りは人通りがまばらである。特にこの町にある裏通りの、ある一帯には、人が通らない通りがいくつかあった。
今は住むものの無い廃墟の通りだとか、滅多に人が訪れない怪しげな倉庫ばかりが連なる通りなど、頼まれてもあまり足を踏み入れようとは思えない通りが大集合している場所がそれだ。遠い昔には『菜の花通り』と呼ばれていたらしいが、その洒落た名前からは想像できないほど、その一帯はひっそりとしていて人通りが少ない。
いや、全く無いと言っても決して言いすぎにはならないだろう。
あるのはせいぜい、時々現れる柄の悪いチンピラ連中の姿か怪しげな宗教集団。付け加えて言えば、野良猫や野良犬の姿のみなのだ。
まさに、町人からは忘れ去られた通りであり、賑やかな宿場町の裏の顔である
……はずだった。
「何っっなのよ、これは!」
驚愕と焦りの入り混じった。
そう形容するのが一番妥当であろう声色であげられた台詞は、ぴりっと張り詰めた空間の中に瞬時に溶け込まれていく。
普段は静まり返っているはずの場所に放たれたそれは、少女の声だった。
外見からして十四、五歳くらい。前方に釘付けにされた瞳は深い空の色をしており、さらさらの焦げ茶髪を邪魔にならないようにポニーテールにして束ねている。膝丈までのスカートに小花柄の上着。それは、どこからどう見ても町娘にしか見えない格好だった。この通りでは、おおよそ見かけるはずの無い人種であるが、しかしその右手にはなぜか、上等そうな杖がしかと握られている。もちろん、魔道士や呪術師が使うタイプの、である。
「さぁ……何なんでしょうねぇ?」
一呼吸おいた後で、少女とは別の声が一つかかった。
張り詰めた空気に全くそぐわない、おっとりとした調子。発生源は、少女の横に佇む青年だった。
二十代半ばくらいだろう。少し伸びかけた漆黒の髪と、髪と同じ色の瞳。更に付け加えると、その瞳の上には、丸いメガネが何の違和感もなくかかっていた。見るからに好青年といった感じだ。
黒はこの地方では珍しい。だからなのだろうか、穏やかそうな瞳なのに不思議と印象的で、思わず少女は彼の目に引き込まれそうな気がした。が、すぐに思いとどまってハッと我に返る。
「あのね……『何なんでしょうねぇ』じゃないでしょーがっ! ほらっ。のん気に首なんか傾げないでくださいっ!」
思い切り脱力してから、少女は青年に向かって叫んでいた。
青年は少女の言葉に彼なりの答えを返したつもりなのだろうが、その場の雰囲気を台無しにするのに十分すぎる程それは、ズレた返答であった。そもそも答えになっていない時点で大問題である。
この状況下でのんびり首を傾げるリアクションを取れる彼に、少しの感心とその十倍程はあろう呆れの感情がわいてきて、少女は軽く頭痛を覚えた。そう、なんったって今自分たちの目の前には――
「まーまー、人生焦ってもイイ事ないですよ? ほら、よく言うじゃないですか。急がばまわ――」
「そういう事は、もっとよぉぉっく周りの状況見た上で言ってください!」
邪気の無い微笑を浮かべながら、まだのん気なことを言っている青年の言葉をさえぎると、少女は自分たちの前方に向かって、びしぃっと人差し指を突き出した。怒りと呆れで、心なしか指先が少し揺れている。
青年はというと、少女に促されるまま、彼女の指が指し示す先へのんびりと目線を動かしていた。
「うーん、そうですねぇ……」
前方をのん気な様子で眺めていた青年は、あごに手を当てて考えるしぐさをしながら、少女の方にゆっくり視線を戻すと、
「我々の前方に、普通では見られない異形の動物が数匹立っているんですけど、まさかアレ、魔物なんかじゃぁないですよねぇ?」
「そのまさかよ!」
少女の悲鳴にも似た声が飛んだ。
目の前の青年は、この期に及んでもまだニコニコ笑顔を崩さない。……というかアンタ、ちょっとは慌てろ。少女でなくても、そんな突っ込みの一つや二つは聞こえてきそうである。
頭痛の度合いがますます増大して、疲れた表情を浮かべている少女だったが、はっとすると、あわてて前方へと視線を移動させた。
(そうだった……こんな問答している場合じゃないのよ)
少女が見つめる先には、数匹の動物――好青年の言葉を借りると『異形の生き物』が対峙している。が、この動物、一見すると犬に見えないことも無い。じゃあどこが『異形』なのかというと、彼らの胴体から生える足の数だった。
「……六本足の悪魔」
少女の口から、そう乾いた声が漏れた。
その名前は正式な名前では無いが、この地域でこの生き物を指して呼び交わされている名前だった。他の動物と比べると明らかにおかしい、六本足。おまけに、左右に大きく割れた口からはみだすくらいの鋭い牙を持っている。そして、昔から多くの人がこいつらに襲われ、そのうちのほとんどが命を落とした事がこの名前の由来だ。――つまりはそう、魔物である。
そんな魔物が六体ほど。低いうなり声をたてながら、今にも飛び掛らんといった姿勢でこちらの様子を伺っているというのが、今二人が直面している状況なのだ。急がば回ってなどいたら、ほぼ確実に二人仲良くあの世行きである。
少女はつばを飲み込もうとして、いつの間にか喉がからからに乾いてしまっている事に気づいた。
異常事態中の異常事態。
魔物にかこまれているというだけでも十分非日常的光景なのだが、ここはいかに裏通りといえども人が暮らす町の中なのだ。いくら表通りに比べて治安が悪いとはいえ、裏通りに魔物が出現するだなど、少女は生まれてこの十数年一度も聞いたことはなかったし、だいたい常識から考えてもありえないことだった。普通、一般の町や村には、何らかの魔物よけの結界が張られているものなのだから。
特にこの町の近くには国立の魔法学校が存在しているのだ。他の町に比べたら、周辺に張り巡らされている魔物よけの結界は数段強い筈である。魔物など入り込めるはずが無い。しかし、そんな前代未聞の出来事が実際に今、目の前で起こってしまっている。
(あぁ……まったく。なんて日なのよ、今日は)
心の中で大きなため息をつきながら、少女は隣にいる青年の方に視線を移した。
丸メガネの好青年は、やはりニコニコ笑顔を崩すことなく、前方を見つめていた。その妙なのんびり具合に、やっぱりかなりあきれてしまうが、少しだけそれがうらやましいと思った。
少女は、この青年がどこの誰で、何のためにこんな人通りの無い通りでいるのかは知らなかった。お互いの名前すら知らない。それもそのはず、彼らはつい数分前に出会ったばかりなのだから。
ふっと、今度は本当に軽いため息をつくと、彼女は今日自らに降りかかった災難の一部始終を回想し始めていた。
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