追憶の救世主

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第1章 「菜の花通りにて」

2.

 ――時は少しだけさかのぼる。


 「あぁぁもうっ! アンナのやつ、今日に限って熱出すなんて! おかげでわたしが代役にされちゃったじゃないのよーっ!」

 誰もいない空間に、誰へ言うでもない愚痴が虚しく響き、そしてすぐに消えてしまう。
 完全にこだまが消えてしまった後で、シズクはなんとなく上を見上げてみた。動きと共に、こげ茶色のポニーテールもゆらりと揺れる。空色の瞳には、オレンジ色を帯び始めた雲が映った。
 しばしその状態が続くが、空からは、もちろん返事の言葉などは返ってこない。もしこの場に通行人がいたら、変で珍しいものでも見る目つきで、こちらに視線を向けてきていたかもしれない。もっとも、彼女にしても周囲に人がいなかったからこそ、こんなことを大っぴらに口に出したのだが。

 少女――シズクは、人気の無い裏通りにいた。

 裏通りといっても、表通りから一本中に入っただけの通りなので、普段ならばそれなりに人通りがあるはずである。それが、今日は不思議と通行人がいなかった。シズクは、ラッキーとでも思ってさほど気にも留めていなかったのだが、この時に少しでも警戒しておく必要があった。と後に後悔することになるなど知る由も無い。
 路地の両側の建物は、表通りに店を出す食堂や酒場がほとんどなので、夕暮れ時の客足が多くなる時刻だ、香ばしい料理の匂いやら客たちの談笑やらで、シズクのいる通りも決して静まり返っているわけではない。人通りこそ少ないが、静かとは言えないのが裏路地。ただし、これから行こうとしている場所だけを除いては、だが。
 「……………」
 そんなことをぼーっと考えてからシズクは軽くため息をついた。
 ここにいつまでも突っ立っていても仕方が無い。それに、上空ばかりを眺めていると、そのうち自分の立っている位置が分からなくなってしまうかもしれない。裏通りは特にこれといった目印も無く、どの通りも同じように見えてしまうのだ。だからよっぽど慣れている者でない限り、簡単に道に迷ってしまう。
 そこまで考えが及んだところで、彼女はため息をもう一度ついた。そして、観念したように再び歩き出しした。
 念入りに。記憶の糸を手繰り寄せるように細かく確認しながら歩く。そうしてしばらく歩いた後、やがてある横道の前で再び歩みを止めた。
 「えーと? 十三番目の横道を、左……だったよね」
 誰に言うでもなく、単に確認の意味で一言。左を向くと、少し薄暗い道が一本伸びていた。
 幅は今いる路地とさほど変わらない程で、人が五人くらいは並んで歩けるのではないのだろうか。見たところ何の変哲もない横道である。まぁ実際、本当に何の変哲も無い横道なのだが。
 シズクは、周囲に誰もいないことを確認するかのように二、三回辺りを見回すと、軽く息をついてから左の横道に向かって再び歩を進め始めた。かと思うと次の角で立ち止まると、同じように見回して今度も左折する。しばらく歩いて、同じ事を再び。
 そんな風に何回か右折左折を繰り返すうちに、通りの物音はだんだんと遠くなっていった。
 確認のために立ち止まることは多々あったが、シズクは特に迷う様子も無くしっかりとした足取りでどんどん進んでいく。そして、やがて通りの音など全く聞こえないようになると、急に道の幅が開けた。
 細道で詰まっていた風が、一気にシズクの髪の毛を掻き揚げて行く。ゆっくりと彼女が上を見上げると、文字の消えかけた古い看板が彼女を出迎えていた。

 『菜の花通り』

 看板からはかろうじてその五文字が読み取れる。昔は文字の回りに可愛らしい小花の絵でも添えられていたのだろうが、陽光に照らされるうちに、それはすっかり消えてしまったようだ。濃い黒文字で書かれていた通り名だけが、照りつける日差しに負けず未だにその存在を維持することができるのだろう。
 風に吹かれると、今にも朽ちて落ちてきそうな頼りない音を立てて揺れた。しかしシズクは、そんな看板など見飽きたとばかりに、足を止めることなく菜の花通りに歩を進めていった。

 ――自分のしなければいけないことは一つ。それも、見つからないように、焦らず迅速に……

 看板の劣化の激しさからも伺えるように、菜の花通り自体もかなり劣化が進んでいた。
 かつてはレンガが敷き詰められていただろう地面は、ところどころ土がむき出しになっていたり、ひび割れて足場が悪くなっていたりする。足を乗せた途端、ごりっと鈍い音を立てて浮き上がるレンガも少なくない。歩きなれない者ならば、その度にバランスを崩して倒れかけていただろう。
 周囲の建物にしたってそうだ。前述の通り、通りの両側に見えるのは廃墟と化した空家たちである。ガラスが失われた窓枠だとか、荒れ放題の庭だとか。それ以上に特に目を引いたのは、家の中で壊れずに残っているテーブルとその上に乗せられたままの食器であった。
 壊れたものだらけのこの場所で、主の帰りを未だに待ち続けるように自己主張を続ける家具たちに、一昔前にはあったのであろう生活の『跡』が見られて、かえってそれは不気味に思われた。

 シズクが訪れる以前にここを人が通ってから、かなりの日数、おそらく数週間は経過しているはずである。彼女自身、ここを訪れるのは2ヶ月振りだった。数少ない、この通りを訪れる者でさえそう頻繁にここに足を踏み入れることは無いのだ。だから、こんな場所で人と遭遇する訳はない。そう高をくくって、のんびり歩を進めていたはずだったのだ。そう、いつもならば。

 「――オイ」
 「うわぁぁっ!?」
 出し抜けに聞こえた男の声に、シズクの口からは思わず悲鳴みたいなものが飛び出した。あまりにも驚いたので、危うくその場でずっこけそうになっていたりもする。
 無理も無い、よもや自分に声が掛かるなどとは夢にも思っていなかったのだから。
 廃墟が立ち並んだ横道から男三人が姿を現したのは、シズクの心臓がまだ激しく打ち続けている時だった。



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