追憶の救世主
第4章 「乙女の消える町」
1.
やっぱりやめておくべきだっだ。
ピタリと、それまでせわしなく動かしていた足を止めてから少女は思った。
目の前に広がるのは、不気味に口を広げた、いかにも恐ろしげな細道が一筋。夕方はとうに過ぎていて、もうすっかり夜の闇が、町を浸食しつつある。あいにく今日は曇りで、わずかばかりの日も雲の陰にすっぽりと身を隠してしまっている。
心の救いは、所々に取り付けられた古びたランプの光だけだ。しかしそれも大分老朽化しているのだろう。時々消えてはまたつく。といった調子で、すっぽり暗闇に包まれるよりかは数倍マシだが、それでも不気味である事に変わりはなかった。
道の先から、今にも何かが飛び出してきそうな、そんな居心地の悪い静寂。
――怖い。
彼女の本能が大きく警鐘を鳴らしている。気がつくと、全身に嫌な汗をかいていた。
少女はこの町の道具屋の娘であった。
父はとうに亡くなり、病気がちの母と、3つ離れた彼女の妹との3人できりもりしている小さな道具屋だ。男手が欲しいと思うことも少なくなかったが、人を雇うほどのお金は不幸な事に持ち合わせていない。母が息子を産んでおくべきだったと、常々ため息混じりに言うのが少女には辛かった。
得意先にいつもの配達に行って、今はその帰り道なのだが、それにしては時刻が遅すぎる。若い娘が、それも人通りの少ない通りを一人で歩いて良い時間ではない。武術や魔法の心得でもあるなら別だが、もちろん彼女にそんなものがあるはずなかった。
きっかけは、ちょっとしたサボリ心と冒険心だった。
彼女が得意先の家を出たのは、まだ日が沈みだして間もない程で、そのまままっすぐ帰っていれば、日の入りまでには家に着けていていたはずだ。
しかし、夕方の街路は、思っている以上に混むものなのだ。それほど背も高くない少女にとっては、人の波を超えて行くのは大変な作業で、また今日もあの人ごみを切り分けて行かなければいけないのか。と頭を悩ませる要因の一つだった。
今日もいつもそうしているように溜め息を一つついてから、通りへと重い足取りで前進しかけた彼女だったが、目の前に突然それは現れた。
まるで彼女を誘惑するかのようにぽっかりと口を広げたそれは、一つの横道だった。
大きく目を見開いて、そうして首を右往左往させて横道と街路を見比べてみた。主要街路はこんなに人でごった返しているのに、その横道には人通りはゼロ。それどころか、街路からそれて入って行く者すらいない。少女の瞳にしかうつっていないのだろうかと疑いたくなるくらいだった。
少女もいくつか横道は知っていたが、しかしその時目の前に開いていたそれは、見た事のないものだった。まるで突然そこに現れたみたいに怪しく開くそれは、彼女が足を踏み入れるには十分すぎる魅力を持っていた。
あの道を抜けていったら、ひょっとしたら家に早く着けるかもしれない。そうでなくても、歩いていけば、どこか知った場所には出るだろう。彼女はこの町で生まれ育ったのだから。とにかく、その時の彼女は、夕方の大混雑を避けたいという一心だったのだ。
……しかし、横道に足を踏み入れた結果がこれだった。
はあはあ。
暑くも苦しくもないのに息切れがする。焦りからくるものだろうか。
少女が入り込んだ横道は、細く不気味な雰囲気に包まれていたが、入り組んだ構造ではなかった。むしろ、ほぼ一本道に近かった。だから最初は安心したのだ。迷わずに抜けられそう、と。ところが……
(なんでこんな事に……)
行けども行けども道に終わりは無かったのだ。
明らかにおかしかった。いくら長い道でも、数分歩いたら必ず終わりがくる。広い道に合流するなり開けた場所にでるなり、最悪でも行き止まりが現れたりするはずだ。
しかし横道は、まるで無限に続いているかのように、どこまで歩いても同じ姿を保ち続けるのだ。いや、本当に無限に続いているのかも知れない。
さすがにおかしいと思い、途中で元来た道を引き返し始めたのだが、結果は同じだった。今度は、いくら戻ってもいつもの街路はちっとも見えてこない。それどころか、引き返したはずなのに、全く知らない道を進んでいるような気がするのだ。道の両端に建つ建物(らしきもの)は全て同じに見え、彼女の方向感覚と距離感覚はどんどん鈍くなっていった。歩きっぱなしの足は疲労でむくみ、随分前からしくしくと悲鳴を上げている。
「もう……一体何なのよ!」
たまらなくなって、とうとう少女は声をあげた。
涙を流しそうになって、思わずぐっとこらえる。鼻の奥がつんと痛くなり、視界が少し波打った。
――帰りたい。
こんな横道に足を踏み入れたりしなければ良かった。後悔の念がふつふつと沸いてくる。しかし、やはり今更どうにもならない事なのだ。あきらめてとうとう少女は立ち止まった。
その時だった。
――ピィィー……ィン
甲高い声の鳥が、小さくさえずりをうったような。そんな感じの音がした。
おかしな事の連続で慣れてしまったのだろう。少女は動揺もせず、ぼんやりした目であたりを眺めてみた。
先程から無限に続く不気味な横道。消えかけの街灯。建ち並ぶ建物。そして……
「疲れちゃったみたいだね」
突然彼女の視界に、銀色が現れた。
まぶしいと思い、少女は一瞬目をしかめる。しかし、落ち着いて見ると、まぶしい銀色の正体が見えてくる。揺れると音を立てそうなくらいにサラサラの……銀の髪。
「お疲れ様」
幼年のあどけなさを少し残した声。陶器のような白い肌に、印象的な瞳の色は湖面を思わせる深い青だった。
そこからその場だけを切り取ったみたいに彼は、光の無い横道で一人輝いているようだった。闇が懸命に彼を否定しようとしているように、一層暗さを増したような錯覚に襲われる。薄暗い横道にいるなんてふさわしくない。それ程の、美少年――
少女は夢を見ているんだと思った。ぼんやりした瞳のまま、深い色をした少年の瞳と目を合わせる。
「少し、休むと良いよ」
柔らかい声を聞いた途端、少女は体中の力が抜けていくのを感じた。膝がとうとう力尽きて、ストンと地面につく。そうしてそのまま、意識は徐々に閉塞へと向かう。今まで感じていた言いようのない恐怖から解放されて、少女は安らかだった。
「おやすみ」
優しく囁かれた声は、果たして少女の耳に届いただろうか。
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