追憶の救世主

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第4章 「乙女の消える町」

4.

 ――雨はなぜか昔から苦手だった。

 嫌いという程ではない。けれどもどうにも好きにはなれなかった。あのどんよりとした灰色空と、止めどなく大地を濡らす雨を見ると、意味もなく憂鬱な気分になるのだ。
 理由はよく分からない。無い、と言った方が正しいかも知れない。物心がついた時には既にこうなっていたのだ。生理的に受け付けないといったレベルのものか、あるいは……

 『忘れないでね』

 脳裏にふと、懐かしい声が響いた。






 今にもそこに落ちてきそうなくらい重い色をした雲。空は一面に曇り、大地は、絶えず空から降り注ぐ雨に打たれていた。町全体が水分を吸って、重くなったみたいだ。暗いな、と思う。
 見る人が見れば、雨は神の恵みとして見え、「大地が潤い、精霊達が喜んでいる」と言うのだろう。
 しかしシズクにとっては、空が悲しんで涙しているように思えた。それを大地が、面倒だと思いつつもやむ終えず引き受けている。そんな風に見えてしまう。我ながらひねくれているなぁと思うけれども。
 もちろん雨が大地を潤すのに必要不可欠な事は知っている。干ばつが続くと作物も採れず、農家などに大打撃を与えてしまうだろう。
 シズクの住んでいたオタニア国ではリコという茶の栽培が盛んだが、それも数年前の大干ばつの年は出荷量が三分の一以下にまで落ち込んでしまった。町の茶屋のおばさんが困っていたっけ。そんな懐かしい事を思い出す。
 しかし、理屈では分かっていても、じめじめ冷たい雨は苦手だった。正直、シズクと言う名前も初めは好きでは無かったのだ。雨の雫を連想させて、嫌じゃないか。第一、自然物をそのまま名前に当てるのは、人間ではあまりやらない事だ。一体何度カルナ校長に「変えて」とせがんだ事か。そうしてその度に、彼女に説得されたのを覚えている。
 ――あなたの名前は雨の雫じゃないのよ。あなたのその、綺麗な――

「はぁぁ。憂鬱だねぇ」
 窓の外を鬱陶しそうに眺めながら、シズクは呟いた。例の失踪事件に加えてこの雨だ。窓から見える大通りも、決して人通りが多いとは言えなかった。
 彼女が今居るのは、カンテルの町にある一軒の宿屋。割と中心部に位置する宿屋で、聞くところによると古くからの老舗だそうだ。値段の割に広くて綺麗なしつらえで、しかも宿屋の主人も良い人だった。
 昨晩、他の泊まり客であろう旅の武道家が食堂で酔って暴れた事以外は、良い宿屋だと思う。(まぁ客の事は店側のせいではないが)
 「確かに、嫌な天気ね」
 ベッドの上から言ったのはアリスだ。
 今朝方、新しいものに取り替えてもらったばかりのベッドシーツは、ふわふわで寝転がるととても気持ちが良い。顔をうずめると、洗濯物のいい匂いがした。もう一晩泊まるという事を知らせてから、すぐに換えに来てくれたものだ。す早い対応にも、良い宿屋という事がうかがえる。
 その新品のシーツの上には、なにやら小物がたくさん並んでいる。そしてアリスの隣には、普段彼女が持っているかばんがあった。
 彼女はベッドの上の小物達を手に取り確認しては、次々とかばんの中へしまって行く。久々に一日フリーになったから。と、アリスは荷物の整理に精を出しているのだ。
 時間的に言うと、今はお昼を少し回ったくらいだった。本当ならば、とうに宿を引き払って旅を再開している時間だ。しかし、シズク達は未だにこの町にいた。
 天気が優れない事を理由に、出発を見合わせる事になったのだ。宿屋の主人によると、この季節の雨は日が暮れるにつれ徐々に勢いを増すそうで、旅の身にそれは辛いと判断しての事だ。
 シズクは窓の外を眺めるのをやめて、アリスの方を振り返った。そうして興味深そうに、ベッドを占拠している小物へと視線を寄せる。
 様々なお茶の葉が入った可愛らしい瓶に、スプーンなどの金属類。これとセットになるティーカップは、重くなるので普段はリースが持っている。旅の身なのでもちろんガラス製では無い。割れない素材で出来ていた。しかし、決して安っぽい感じはしない。
 カップのそれぞれに細かい模様が施されてあって、むしろ上品な感じがするものばかりだった。値段を聞いたことは無いが、きっと高価なんだろうなと思う。
 旅用の代物としてはどちらかというと不向きに見えるが、そこはアリスなりのこだわりらしかった。彼女のお茶への思い入れの強さを知っているシズクは、そこらへんの気持ちはなんとなく理解できる。彼女が旅の合間に淹れてくれたお茶が、今まで飲んできた中で一二を争うくらいに美味しかった事を思いだした。
 シズクが見ている横でアリスはてきぱきと整理をこなして行き、やがて一段落着いたのだろう。よしっと満足そうに声を上げ、
 「ねぇ、こんな日こそ外に出てみない?」
 目の前のシズクに闇色の瞳を合わせて、言った。



 「買い物に行くぅ!?」
 その整った顔を訝しげにしかめながら、リースはすっ頓狂な声をあげた。何を寝ぼけた事をと、いかにも言いたげな表情だ。
 「この雨で、ですか〜?」
 リースに対してのんびりと言ったのはセイラ。彼は雨の街路を窓越しに見つめながら、少し考え込む様子を見せた。セイラにしては珍しい。あまり賛成できませんねといった様子だった。
 場所は、男部屋(セイラとリースが泊まっている部屋だ)。シズク達の女部屋とほとんど同じつくりで、質素だが落ち着いた雰囲気の部屋だ。その窓からは町の大通りが見渡せる。これも女部屋と同じだった。
 「荷物を整理してたらね。気付いたのよ」
 楽しそうな顔でアリスは二人の方を見つめる。物凄い発見をした。といった風に興奮した彼女の様子に、男連中は興味深そうな顔になる。しかし、次の言葉でその表情は呆れを前面に押し出したものや苦笑いに変わってしまった。
 「カップやスプーン一式が、一つずつ足りない。ってね!」
 「……足りない? 十分あると思うんだけど」
 アリスの言葉に、リースは呆れ顔のままで首をひねった。今の時点で一行が持っているカップは三個。旅の身には十分だと思う数だ。それに、リースにしてみればこれ以上荷物を増やされるのは好ましくない状況だろう。そのしかめっ面から、その辺の心理が容易に想像できる。
 「足りないわよ! だって、シズクの分のカップが無いじゃない」
 不満顔のリースを、彼よりも不満そうな顔で睨んで、アリスは異を唱える。対するリースは、一瞬拍子抜けしたような表情を浮かべると、ちらりとシズクの方を見た。

 アリスの主張はこうだ。
 今までは三人の旅だったので、カップが三つあればお茶会が開けた。しかし、シズクが加わった事で、人数が一人増えたのだ。一人一人が別の時間にお茶を飲むのなら話は別だが、一緒に飲むとなるとカップが一つ足りなくなってしまう。これでは都合が悪い。だから、新しいカップを買いに行こうと言うのだ。
 そんな内容の話を、リースはというと始終呆れたような顔で聞いていた。しかし、彼にとってはしょうもない事でも、アリスにとっては、それこそ例の魔法陣の製作者の正体以上に重要な事なのだろう。
 アリスの熱心な説明が終わると、二人は無言で見つめ合う。火花が一筋、両者の間で散った気がした。
 アリスの後ろで、二人の攻防を見守っているシズクは、少し居心地が悪かった。自分の事での話だからと言うのが一つ。もう一つは彼らの対応だった。
 シズク自身は、アリスのこの提案を聞いて、正直な所嬉しかったのだ。
 カップを買ってくれるからでは無い。その提案が、アリスが自分の事を仲間と見なしてくれている証拠の様な気がしたからだ。
 今の時点で自分は彼らの何の役にも立てていないはずなのに、そう思ってくれている事が嬉しかったのだ。だから、リースとセイラが買い物にあまり乗り気で無い様子を見ると、不安になってしまう。自分の事をどう思っているのだろう、と。
 雨降る中の買い物は、普段ならばシズクとてあまり気がすすまない。彼らが渋い顔をする原因も多分それだろう。そう思うのだが……。
 ざわり、と胸に変なもやもやが漂い始めて、少しだけ息苦しかった。
 (あはは……。わたしって、こんなにマイナス思考型だったっけ)
 シズクは心の中で乾いた笑い声を上げてから、誰にも気づかれないように小さく溜め息をついた。



 「って事でさ。リース」
 「……何だよ?」
 帰ってくる返事は何となく予想できていたが、リースはあえて不機嫌な表情のままで言ってやった。アリスもその辺は分かっているらしく、全く気にしない様子で続きの言葉を紡ぐ。
 「買い物に付き合って」
 「…………」
 ほら来た、といった表情を浮かべてからリースは、窓の外を嫌そうに眺めた。先程より若干止んだようだが、相変わらずの天気。
 「雨だぞ」
 「そうね、でもたまには良いじゃない」
 アリスはにこりと、まるで天使が微笑むかのような笑顔を浮かべると、胸を張って言う。ついでに、どうせ暇でする事も無いんだし。と付け加えた。リースの意見を聞く気は、どうやら全く無いらしい。リースはこういう時、あのほけほけ師匠にしてこの弟子ありき、と思う。ちらりとセイラの方を見ると、彼は苦笑いを浮かべているだけだった。
 「失踪事件が多発してるって時にか?」
 「だからボディーガードよ」
 わざとらしく瞳を潤ませるアリスを見て、リースは眉間のしわを更に深めた。
 ボディーガードなんてただの言い訳だ。こんな真っ昼間にそんな物は普通はいらない。どうせ荷物持ちなんかをやらされるのだろう。
 リースとて暇を持て余していた身だったが、いかんせん外があいにくの雨だ。さすがに出歩く気がしない。こんな天気でなければ、あるいはあっさり引き受けていたかも知れないが。
 面倒臭そうに腕を組んで、彼は拒否の姿勢を見せた。乗り気がしない事は無理にしない。それがリースの主義だ。
 アリスはなんとか説得しようと次の言葉を言おうとしたが、
 「いいよアリス。二人だけで行こう」
 後ろから、やや小さめの声が、しかしはっきりとした調子でかかった。
 声の主は、先ほどから黙りっぱなしであったはずのシズクだった。どうした事だろうか。普段は明るいその表情は、まるで今日の天気のように暗い。彼女は一言そう言ったきり、口をきつく結んでこちらを見つめている。少し元気が無さそうに見えるのは、気のせいだろうか。
 まだ付き合い自体が短いが、彼女のこんな姿を見るのはリースにとって初めての事だった。それはアリスやセイラにしても同じだったらしく、彼らも驚いたように動きを止めた。アリスなどは、戸惑いも一緒に混ぜたような表情を浮かべている。
 しばしの気まずい沈黙。
 「……シズク?」
 「いいから、行こう」
 アリスの返事も待たずにぷいっと方向転換すると、シズクは扉の方へ向かい始めてしまう。静まり返った部屋に、聞こえるのはシズクの足音だけだった。
 突然の事でアリスは、混乱気味に首を右往左往させた。そうして助けを求めるようにリースを見る。リースは彼女と目を合わせたままでシズクの後ろ姿を視界の隅に入れ、しばらく考え込んでいた。しかし、やがて小さく溜め息をつく。
 「……分かったよ。行けばいいんだろ。行けば」
 もうこうなったらヤケだ。
 気分は相変わらず乗らなかったが、気だるくそれだけ言うと、リースはゆっくり立ち上がる。そして面倒くさそうに、右手で蜂蜜色の髪をかいた。しかし、
 「来なくていいってば」
 扉の直前でこちらを振り返ると、シズクが不機嫌そうに言った。その瞳は、リースの事を責め立てるような色をしている。
 「何だよその態度は。せっかく行ってやるって言うんだから、大人しく喜べ」
 「来てくれって言ったのはわたしじゃないわよ」
 「……お前なぁ」
 呆れた様子で、リースはシズクの方へ歩み寄ると、彼女の肩をつかもうとした。しかし、物凄い勢いで振り払われてしまう。
 「――っ! なんだよ」
 さすがに腕を振り払われると気分が悪い。不機嫌そうにシズクを睨むと、視線の先には彼よりも不機嫌そうな青い瞳があった。視界の隅で、おろおろしているアリスが見える。
 「シズク――」
 「来なくていいって」
 「行ってやるって言った途端に、来なくていい。はないだろうが」
 「言ったでしょう。別にわたしはリースに頼んでない」
 「それとこれとは――」

 「だから来なくていいってば!!」

 先程の小声とは打って変わって、激しい声がシズクの口から飛び出した。あまりの大声に、アリスなどはびくりと身体をひきつらせたくらいだ。
 さすがのリースもシズクに怒鳴られるとまでは予想していなかった。まぬけな表情を浮かべてその場に固まっている。
 先ほどより一層気まずい雰囲気が部屋の中を襲う。

 「あ……」
 一呼吸置いてから、シズクの戸惑い気味の声が部屋の中に漏れた。自分のしたことに自分自身で驚いているのだろうか。今起こったことを確かめるかのように黙り込むと、激しかった表情は、みるみる戸惑いのそれへと変わって行く。
 誰も身動きできぬまま、目線だけがシズクの今にも泣き出しそうな表情に釘付けになっていた。その視線に耐えられなくなったのか、シズクは何も言わずに後ずさると、そのまま一気に駆け出していた。少し乱暴に部屋の扉が閉められる。静止の言葉もかけ忘れてしまった。
 しんと静まった部屋に響くのは、シズクが去っていく足音と、ドアが閉められた音の余韻のようなものだけだった。

 「……シズク!」
 あっけにとられていたアリスだったが、我に帰ると凛とした声でそう叫んでから、シズクの後を追う。彼女にしては乱暴に扉を閉めると、パタパタと急ぎ足で去っていく音が耳に響いた。そうして再び、部屋は静寂を取り戻す。
 「……なんだよ、アイツ」
 やっと落ち着いてきたのか、疲れたように椅子に腰掛けてから、ぽつりとリースが零した。
 怒っているわけでも驚いているわけでもない。今彼の中にあるのは、混乱だった。
 どう考えても自分はシズクに大してこれといって何もしていない。アリスが買い物の付き添いを持ち掛けてきて、それを断り続けていただけだ。
 この場合、アリスが怒るのは、理不尽だがまだ納得は行く。しかし、一体どこをどうひっくり返したら、それがシズクを怒らせる要因になるのか。リースには皆目検討がつかなかった。
 「……まぁ少々子供っぽいですけど、分からないことも無いですねぇ」
 対するセイラは、シズクが怒った原因が分かっているらしい。困ったような笑顔を浮かべていた。
 「セイラは分かるのか?」
 「リース程は鈍くありませんからね」
 「……どういう意味――」
 「とにかく」
 少し不機嫌なリースの言葉を途中で遮り、セイラがはっきりと声をあげた。首を傾げるリースに、
 「例の事件の事もあります。念のため、あの子達に着いていってあげて下さいね」
 真剣な顔で言った。
 「…………」
 しばらくの間、瞳同士の攻防が続いたが、
 「……へいへい」
 先に折れたのはリースだった。
 普段ほけ〜とした表情を浮かべているセイラに、こんな表情をされるとどうも弱い。リースが了解した途端に、あの笑顔が彼の顔に戻ってきたのを見ると、してやられた。と言う気持ちが無いわけではないが。
 軽く息をついてから、リースは立ち上がった。



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